【合戦解説】厳島の戦い 大内 vs 毛利 〜 陶晴賢と毛利元就 智将の両雄が遂に激突 〜 <毛利㉑>

<毛利シリーズ㉑話>

時は戦国時代 後期

天文20年(1551)8月
大内家重臣 周防守護代 陶晴賢(当時 陶隆房)は文治派が牛耳る大内に見切りをつけ謀叛を起こした。
この『大寧寺の変』と呼ばれる政変劇は 大成功となり、晴賢は大友義鎮と交わしていた約束通り 義鎮の弟 義長(当時 大友晴英)を新たな当主に迎え 新生大内家が始動した。

この陶の謀叛に加担したのが安芸筆頭国衆 毛利元就であった。
自慢の謀略と計略、そして統率力を発揮し安芸にある大内直轄領の城を次々に攻略。
大内の混乱に乗じ備後に南下してきた尼子派の山名再興軍や、尼子の精鋭 新宮党も撃退させ安芸に続き 備後領の大半も支配下に置くこととなった。
同じく尼子軍に攻められていた備中の三村家親や 備前の浦上宗景とも盟約を結び、小早川隆景を大将とする軍を派遣し 尼子軍を撃退させ毛利の名は山陽中に轟くことになった。

一方 周防 長門 二国のみの守護補任に納得できない大内義長は、石見守護を得るべく 反発を続ける義隆の姉婿 吉見正頼討伐を決める。
出陣の要請は 安芸国衆を束ねる毛利にも幾度と入るが 当主 隆元と元就は日和見を続けたため、義長は毛利を介さず直接 国衆に挙兵の下知を飛ばした。
このことが大内と毛利とで結んだ盟約の反故にあたるとし、大内の従属を解消。

『防芸引分』と呼ばれる毛利の独立戦争が始まった。

支度を整えていた毛利の動きは早く、備後の旗返山城や 安芸の桜尾城といった大内拠点の城を次々攻略。
能美城や仁保島城などの安芸灘の城も落としていき 大内が一宮として崇める厳島をも制圧、安芸の街道と海を毛利は手にしたのだった。
これを知った陶晴賢は吉見を滅ぼしのち 毛利潰しに動くことを決め、それまでの間 周防入を阻止すべく 腹心の将 宮川房長や 弘中隆兼を東周防に向かわせた。
しかし 元就の誘導策に嵌まった 宮川房長の隊は 折敷畑の地で壊滅、房長は自刃して果てることになった。
この報せは すぐにも石見の陶本陣に届けられた…

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※個人制作となりますので誤字脱字等ありますことご了承ください
※通説に基づきつつも一部ユキムラ流に脚色を加えた合戦解説となります
※合戦や物語の出来事は諸説あります
※制作の都合上全ての情報や登場武将を網羅してはおりません
※登場人物名は改称時期に拘らずわかり易い表記で記載しております
※演出時に大きな音が出る場合があります
※2024年時点での歴史資料を元に作成しております
※イラスト提供:史環 殿

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#戦国時代 #合戦 #歴史

24件のコメント

  1. 年越し番組として最高のエンターテイメントでした!

    ここから先、毛利の終わらない大躍進も楽しみですが志道の爺様に隆元兄ちゃん…色んな別れも待ち受けてるのが寂しいですね…

  2. 2:15:17のシーン、9年前の日本三大奇襲の一つである河越城の戦いも同じやり取りがあったのかな。
    北条氏康「9年前の河越城の戦を記録せねば、数を8000にし、敵である連合軍を山内上杉氏を35000、扇谷上杉氏を15000、当家の恩を踏みにじった足利晴氏の古河公方を30000と記載し、当家は大道寺盛昌が討死したものの、連合軍側は扇谷上杉氏は当主である朝定は家臣に殺されて、犬死、山内上杉氏は当主である憲政は逃げる時に兵を100人殺して、逃げて、足利晴氏は総崩れの時に失禁したと記録しとこう。」
    北条氏政「父上は記録を変えることも武器にするとは私は父上を超えることが出来るだろうか。」

  3. いつも楽しく拝見させていただいてます。
    今回の厳島の戦い編は、厳島沖の大内船団を撃破して制海権さえ確保すれば、宮尾城攻めの陶軍は干上がるので、厳島の戦いの順番はやっぱり海戦後に島内の掃討戦じゃないかな?
    海戦前に厳島に逆上陸した毛利軍が弥山を越えて陶軍に襲いかかったり、小早川軍が海戦前に上陸して陸戦するのは物語上のフィクション的要素なのですか?

  4. 大作、お疲れ様でした!
    テレビも寂しくなった昨今、大晦日もどう過ごそうかと迷っていたところ、ここで厳島の戦いが来るとはまさかでしたw
    今回も楽しませていただきました!

  5. 今回も面白かったです。毎回毛利三兄弟のかけ合いを楽しみにしています。
    1:17:30 隆景ひどすぎる。
    2:06:17 元春めっちゃカッコいい。
    2:16:43 隆景無言で立ち去る

    村上水軍好きなので取り上げていた嬉しいです!

  6. 常識的に考えて、毛利が陶より軍勢数で劣勢なわけないよね。すでに大国安芸と備後2ヶ国を支配しているのに。

  7. 確かこの頃 陶さんは幕府や朝廷とのやり取りや尼子との和睦および対毛利への協力の交渉そして石見攻めの采配とオーバースペックになっていて一時的に寝込んでいたんだったな。
    そのため実質的な指示計とは同じ陶家の人物がしていた可能性も有り、そのために毛利への対応が遅れたとも言われている。
    弘中さんしか主だった将を動員できなかったのも痛かったな。

  8. 過去にも何度も素晴らしい大作を見せていただきましたが、今回こそまさに最高の大作でした。感動して震えました。😍

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