江戸東京写真帳139:来宮神社・初島・熱海

[Music] [Music] [Music] [Applause] [Music] [Applause] [Music] [Music] Heat. [Music] Heat. [Music] Heat. Heat. Heat. [Music] [Applause] [Music] Heat. [Music] [Music] Hunger. [Music] [Music] [Music] [Music] Don’t I’m no [Music] [Music] My to my [Music] And I should [Music] She [Music] might [Music] That’s my show. [Music] [Applause] [Music] [Applause] [Music] [Music] [Applause] [Music] [Applause] [Music] [Applause] [Music] [Music] [Music] [Music] [Music] [Laughter] [Music] Yeah. [Music] [Music] for Don’t [Music] see [Music] is [Music] Come see [Music] [Music] you tonight. Oh, God. [Music] [Applause] [Music] S is such. Christ. [Music] He [Music] Dream when you’re feeling blue. [Music] dream. That’s the thing to do. [Music] Just watch the smoke rings rise in the air. You’ll find your share of meories there. So dream [Music] when the day is through [Music] dream I may come True [Music] never are as bad as they seem. So dream. [Music]

#散歩写真 #スライドショー 、1日目、車で#熱海 に行く。成婚の会。2日目、曇時々雨、時々晴れ。朝食を食べて、#来宮神社 に行く。クスの巨木がある。宿に帰って、車で熱海港に行く。船で#初島 に渡る。中型船で船酔いする。海岸を周遊して相模灘を見渡す。灯台に上がり、対岸の伊豆半島を望む。雲がかかって天城山は見えないが、大室山が見えた。港に戻り、食事する。#初木神社 、#竜神社 に参る。裏の山道を上がると、反対側にも漁港が見えた。乗船乗り場で御朱印を得る。大きめの船で熱海に戻る。熱海銀座を上がって、羊羹を買う。戻って、貫一お宮像を撮る。初木神社で、初木姫伝説を知る。初木姫が島に漂着して、火を焚いて、合図を送ると、伊豆山彦が応えて、筏で海を渡り、結ばれる。神々を育てたという話。人のように愛を育んだと解釈する。別の日、車で大湯に行き、温泉に浸かる。隣に、#湯前神社 があった。
 来宮神社、「木宮明神」や「来宮大明神」と呼ばれた。 和銅3年(710)、熱海湾で、木の根が網に掛かる事が3度重なり、不思議に思った漁師があらためると、神像のようであった。近くの松の下に祀って、持っていた麦こがしを供えた。夜、五十猛命が夢に現れ、潮騒が耳障りであるとの神託があり、現在地に遷祀した。木の根を神体としたところから「木の宮」と称えた。漂着物を祀って、祭神を木の神、五十猛命とする、キノミヤ信仰が認められる。なお、坂上田村麻呂が戦勝を祈願し、当社の分霊を東北地方、各地に鎮座させたという。
 #来宮神社の大クス 、本殿裏側、糸川の崖上に生育する。「千年の命 巨樹・巨木を巡る」に、樹高は36メートル、推定の樹齢は2000年という。樹皮は赤みがかって、幹にこぶ状の隆起が形成され、根は地面に深く食い込んで、地上に盛り上がって波打つ。 もともとは、1株の木として生育していたが、明治維新の頃、木材利用で幹の根元に近い部分を切り取ったところ、2幹に分かれて生育した。 南幹は地上約5メートルで折損し、トタンで覆っている。1974年(昭和49)の台風23号の被害による。 かつて、来宮神社の境内に、7本の大クスがあったが、嘉永年間(1848-1853年)に熱海村と伊豆山村の間で漁業権の争い(大網事件)が起こり、熱海村は訴訟費を捻出するために、5本の大クスを伐採した。この大クスを伐ろうとしたところ、白髪の老翁が現れて遮った。人々は神のお告げと受け止めて、伐採を中止し、大クスと第二大クスの2本が残るった。
 初島、静岡県熱海市に属する。波島、端島(はしま)、波津幾島(はつきしま)の表記もある。伊豆半島東方沖の相模灘、熱海市の本土から南東に約10kmの海上にある。2018年(平成30)時点での人口は193人、114世帯である。宮の前地区に居住する。火山島が活動を終え、浸食されて海中に没し、その後、隆起した島と考えられる。最高地点が33.5 mと平坦で、海底の平坦面が隆起したことによる。島内には数段の隆起段丘があり、1923年の関東地震で、2 mくらい隆起した。縄文時代の遺跡が発見され、古くから人の居住があった。伝説(神話)として、三宅島の壬生家「三宅記(三島大明神縁起)」に伝わる三島大明神(三嶋大社)系の「島生み」神話と、地元の初木神社と伊豆山神社の起源に関わる「初木姫」神話がある。鎌倉時代、源実朝が二所詣で伊豆山神社に至る途中に「箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ」と詠んでいる。 南北朝時代、観応2年(1351)に18戸の家があった。天明2年(1782)、江戸の魚市場に魚を売った記録帳がある。江戸時代から島内の戸数は41戸前後で、この戸数が現在まで続いている。島内の耕作地や生活用水が限られ、次男以下は島を出て、一定の人口を維持するという慣習があった。島の生活は共同体であり、耕作地や漁獲は等分に分けられていた。
 1881年(明治14)、熱海までの県道が通じ、温泉場として発展すると、初島にも徐々に開明の波が及び、1886年(明治19)、熱海尋常小学校初島分教場が開校した。
 1913年(大正2)、幼少の昭和天皇が校外学習で海軍の水雷艇で来島し、植物採集をした。
 1921年(大正10)、与謝野晶子が島を訪れ、「初島紀行」を書いた。その文中に、未だ、初島は観光地と認識されず、古くの集落に、よそ者が訪れるという趣であったと窺えた。
 1923年(大正12)、関東大震災で、島が隆起し、家屋が損害を受けた。
 1925年(大正14)、東海道本線が熱海まで開通、1934年(昭和9)、丹那トンネルが開通し、熱海は一大観光地となり、初島への遊覧も増加した。
 1959年(昭和34)、初島灯台が設置された。
 1964年(昭和39)、東海道新幹線の開通し、富士急がインフラを整備、「初島バケーションランド」を開業し、観光が盛んとなった。
 初木神社、南北朝時代、1351年(観応2)、改築した棟札があり、1351年を創建年とするが、初木神社の神主も兼ねていた網代の阿治古神社の高杉家に、鎌倉時代と推定される初木神社の御正体(懸仏)が遺されている。さらに社殿の下に、古墳時代の磐座(いわくら)も確認され、古くからの祭祀の場であった。祭神である初木姫は、難破船で初島に漂着した後、伊豆山の伊豆山彦という男神と結ばれ(逢初橋、あいそめばし)、さらに日金山の大杉から生まれた、伊豆山権現の氏子の祖とされる日精、月精(結明神)社の祭神の育て親といった伝説のある神である。初木神社は、伊豆山神社の境外社となっている。来宮神社、多賀神社、下多賀神社、阿治古神社と共に、「鹿島踊り」の伝統を継承する。7月17日〜18日の例大祭で披露される。
 磯内膳、駿河(静岡県)で生まれの武士。幼い頃から精神障害を患って、看病しながら島流しにあった。幕臣として働いた時、周辺を歩いていると、農民(孫兵衞)の運ぶ物がぶつかり、刀を向けたと言われる。しかし孫兵衞が斧を向けた事に、驚き許したと言われる。その後も数々の問題を起こして、最終的に切腹を命じられた。 死の前に「小田原の見える所に埋めてほしい」と願ったという。
 初島海洋資料館、7千年前から、人々が住んでいた初島に、7つの縄文遺跡が遺されていた。ホテルや民家の下に埋もれ、唯一港近くの海洋資料館で、出土品を見れる。
 江戸城石切場跡、巨石が並ぶ島の東海岸に、江戸時代に江戸城修築で、石が切り出された跡地がある。取り残された石に、運ぶためにあけた穴「矢穴」の跡が残っている。
 竜神宮、海岸沿いの森の中にひっそりとある、海の守り神。社殿に海中から現れた剣が納められ、社殿脇の小径を登った、山の頂上に、御神体と見られる竜神の塚がある。
 #初島灯台 、初島をはじめ、伊豆の島々に、天竺からやってきた、三島明神が富士山の神と出会い、次々と島々を創り出したという、天地創世の伝説が遺されている。 伊豆大島を始め、島々のうち5島が遠く見渡せる。
 藪椿の小道(アジアンリゾート?)、大正10年、与謝野晶子が初島を訪れ、満山に咲き乱れる椿と水仙を見て、「武陵桃源の趣きあり」と書き残した。島内に、もう満山の椿や水仙はないが、初島アイランドリゾート?の原生林が残る一帯に藪椿や水仙が残されて、当時の面影が偲ばれる。
 熱海温泉、およそ1500年前の仁賢天皇の時代、海中から熱湯が噴き出し、魚が爛れ死ぬのを発見して、「熱い海」であり、熱海と名付けられたる。また、天平宝字の頃、箱根権現の万巻上人が、「熱い海」のために不漁に苦しむ漁民たちを救済すべく、源泉を海中から現在の山里に移したという伝説も残される。南北朝時代、鎌倉の義堂周信が、熱海温泉を訪ね、詩会が開かれて漢詩を作ったことを日記に記している「空華日用工夫略集」(応安7年)。当時の熱海に文人墨客が多く訪れていたことを示す。江戸時代初期、慶長9年(1604)、徳川家康が7日間湯治で逗留した記録がある。以来、徳川将軍家御用達の名湯として、熱海の湯を江戸城に献上させる「御汲湯」を行わせた。明治以降も文人墨客が訪れ、多くの作品に描かれた。尾崎紅葉の「金色夜叉」によって、熱海の名は全国的に知られた。国道135号沿いに、登場人物である、貫一お宮の像がある。他に永井荷風の「冬の日」や林芙美子の「うず潮」などがある。1923年(大正12)の関東大震災で大きな被害を受けるも、翌年の国鉄熱海線の熱海駅延伸もあって急速に復興し、1936年(昭和11年)7月1日には熱海町営温泉(後の市営温泉)が発足した。
 金色夜叉、小説の主題である金権主義と恋愛の関係について、「金権主義が社会主義的税制のおかげで一応穏便にカバーされてゐる現代は、「金色夜叉」の時代より金権主義の時代であるが、今ほど、講義が聞かれない時代もめづらしい。現代は、金権主義に対抗する恋愛の原理が涸渇して、「金色夜叉」において、金に明瞭に対比させられる恋愛の主題と、それ以上のものが秘められていた」(三島由紀夫)。昭和15年頃、中央公論版「尾崎紅葉全集」の編集過程で、創作メモが発見され、紅葉の構想の一端が明らかにされた。それに、貫一は高利貸しによって貯めた金を人助けのために使い、正気を失った宮を引取り、高利貸しをやめる。戦渦の中で、この全集が未完に終わって、再評価というほどにはならなかった。創作メモ(金色夜叉腹案覚書)は、岩波版全集第12巻に収録されている。
 湯前神社、天平勝宝元年(749年)、諸病を除く効果があるので温泉を汲み取って浴せよとの神教があり、その報恩として里人が祠を建てて少彦名神を祀ったのに創まるという。天平宝字年中(8世紀半ば)、箱根山の金剛王院(廃寺)に住した万巻(満願)上人が、熱海の海中に温泉が湧いてその熱湯のために多くの魚介類が死んでいたのを哀れみ、海浜に祈祷の壇を築いて100日間の勤行に励むと、満願の日に内陸部へと湯脈が移った。その傍らに「湯前権現」と称して温泉の守護神として祀るようになった。中世以降、広く「湯前権現」と称され、鎌倉時代、源頼朝を初めとする歴代将軍や幕府の要人が走湯、箱根の二所権現に盛んに参詣するようになり、広く湯治の神として喧伝された。
 伊豆山神社、静岡県熱海市伊豆山にある。全国各地の伊豆山神社や伊豆神社、走湯神社の起源となった総本社格である。伊豆国に配流の身となっていた源頼朝が、源氏の再興を祈願して、妻、北条政子の逢瀬の場であった。 社伝によれば、孝昭天皇の時代(紀元前5世紀~紀元前4世紀)、日金山山頂にあったと伝わる。日金山は十国峠とも呼ばれ、箱根外輪山から南に続く尾根(標高765m)で古くからの信仰の地で、日金山の東光寺で祭祀がおこなわれた。東光寺の寺伝で、推古天皇の頃、走湯権現の神号を賜った。その後、本宮山(現在地、後方の山)に移り、承和3年(836年)、僧、賢安により、遷座された。日金山は、中世以降、伊豆山権現(伊豆山神社)と箱根権現(箱根神社)を結ぶ信仰の道の要所とされる。仁徳天皇が勅願所とし、以後、清寧天皇、敏達天皇、推古天皇、孝徳天皇、後奈良天皇の勅願所となった。後奈良天皇は自筆の紺紙金泥般若心経一巻を当社に奉納した。修験道の始祖、役行者、役小角が、文武天皇3年(699年)に伊豆大島へ配流されて、島を抜け出し伊豆山などで修行したが、伊豆山海岸に湯煙りが上がるのを発見した。千手観音菩薩を感得し、「無垢霊湯、大悲心水、沐浴罪滅、六根清浄」という功徳を授かったという。その湧き出る霊湯「走り湯」を「走湯権現」とされる。また、空海が修行した伝承もあり、多くの仏教者や修験者が修行を積んだ霊場であった。社殿から本宮への山道は、修験道の行場であった。後白河法皇勅撰の「梁塵秘抄」に「四方の霊験者は、伊豆の走湯、信濃の戸穏、駿河の富士山、伯耆の大山」と記されている。
ニコンZ6レンズ24-70mm使用

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