江戸時代・年貢のために奉公に出された子どもたち(後編)
[音楽] 前回は収支人別長から年気暴行で親元から 離れて働く子供たちの様子を探りました。 今回は収支人別長から子供たちを年気暴行 に出したことが村にどのような影響を与え たのか、子供たちの人生にどのような影響 を及ぼしたのかを探ってみましょう。 村全体のことを集約した記録が人別長の 最後の当たりにあります。 村全体で家が48件。その内訳は本気が 34件で尺屋が12件、寺が2件となって います。ですから人のことが記録されて いるのは46件になります。 人数は男121人、女113人、合計 234人です。 年齢別に見ると男女合わせて70歳以上が 9人、10歳から69歳までが172人、 10歳未満が53人となっています。 さて、マンダラジ村にいる方向人を一覧表 にするとこのようになります。46件の家 のうちで方向人を抱えているのは14件 だけでした。 村人234人のうちで方向人は39人でし た。 しかも方向人の多くは損害から来た人たち で一定の期間が過ぎると村からいなくなっ てしまう人たちでした。ですが人は住民の 約17%を占めていました。決して少ない 数とは言えない人口数です。ここから推測 できることを少しみんなで考えてみて ください。 残りの32 件の家は自分の家族だけで脳作業などをして年宮具を納めたり暮らすことができたのかな。それとも国高の高い豊かな家の方向人になってお金を稼いで年具を納めたのか。それを考えると良いよね。 [音楽] 先に見た2 人の子供たちは遠くからやってきた方向人たちだったけど、まだダ村では方向に出された子供たちがいなかったんでしょうか? まず村人を年齢送ごとに集めて一覧表にまとめるとこのようになります。 すごい。この時代に 79歳、万年齢で言えば 78歳の女性が2 人いることに驚きました。 この後の2 人は何歳まで生きられたのでしょうか?分からないけど気になるなあ。またこれをグラフ化するとこのようになります。このグラフはマンダラジ村出身の人を青色で損外からの方向人を赤色に色分けして作成しています。某の頂点が年齢の人数になります。 [音楽] [音楽] 一覧表とグラフを見比べながら考えてみてください。 5 歳から9 歳代までは最も多い人口になっている。 20十歳台は男女と共に少ないです。 [音楽] 40歳になると急に人口が減っています。 でもマンダ村出身の人だけで見ると 9歳までが多くて 10 歳になると年齢が高くなれば高くなるだけ減っている。特に [音楽] 20歳の人が極端に少ない。 そうなんだけど私はどっちか言うと 1歳から4 歳の子供の数が少なすぎることがとても気になる。 昔は他しだったからたくさんの子供が 生まれても大きくなるまでに多くの子供が なくなるけど少し変だよ。5歳から9歳の 年齢層と同じくらいか。それ以上いても 良いのに4歳以下の方が少ない。幼児が 方向に出されることはないはずだから特別 なことが起きたんだと私は思う。 そうだね。本当だ。 それには気がつかなかった。 4 歳までの子供が少なかったら人口が増えようがないよね。何が原因なんだろう。 [音楽] 用事が少ないのは現 7 年頃に基金があったか感染症が流行って体力のない用児が多く死んだのかもしれない。この頃だとインフルエンザでも多くの子供たちが死んだと言われているから。 [音楽] でもこれは別に調べる必要がありそうだね。 もしかするとそれは 40歳から44 歳の人たちが極端に少ないことと関連があるかもしれない。その問題は別の時に調べたいと思います。ところで村の人口は収支別長では [音楽] 234 人となっていたけどダ村の人だけを見ると [音楽] 203人だけなんだ。 ううん。15歳から19 歳は他の村からマンダ村で方向人として働いている人がいるから見かけ上は増えていたけど実は違った。減っていたんだ。 この表だけ見ても 20十歳から29 歳までの人口が他の年代に比べて極端に少ない。どうしてだろう? [音楽] 私もそう思う。 20十歳台だけが少ないのは不自然だわ。 多分大阪や崎の下町の商人の家に方向に出ているんだろうと思う。なるほど。なんとなく分かってきた。 15歳くらいに年気暴行に出ると 10年の年気だったら25 歳を過ぎないとマンダら地寺デラ村に帰ってくることができない。遅い人は [音楽] 30 歳近くまで火星で方向先から帰ってくるのかもしれない。 [音楽] 損外からの方向人を見ると10歳の人が 多い、特に15歳から19歳の人が1番 多くなっている。20歳の損害からの方向 人が少ないから極端に20歳の人口が 少なかったんだ。どうやらマンダジ村の 若者は他の村や大阪や尼崎の町に出ていた と推測できそうだね。 それにマンダジ村の中で行している人たちがどの年代も 1人ずついる。 本当だ。村の中の 203人のうち 8人が向人なんだとすると [音楽] 20 十歳の人たちがいないのは他の村に出て働いると考えると理屈に合うね。 それに 20十歳台の人たちが大きくなる頃に電線病が流行ったり危金があったから人口が少ないとも考えられるけどそれだったらそれ以上の年齢の人たちの割合がもっと少なくなるはずだね。 追加して推測すると 25歳で10 年の方向を終えて村に帰ってきても家庭の経済状態が良くなければさらに 5年程度の年気暴行に出た可能性がある。 2度目の年気暴行は 25 歳を超えているので急も高くなるだろうから稼ぎは良かったと思う。 [音楽] 20 歳の人口が極端に少ないのはそんな事情があったのではないだろうか。 それに自分の家が持っている田は増えないだろうから一家の人数が増えると余計に暮らしが厳しくなったんじゃないかな。 家族みんなで暮らそうとすれば広い土地を 持っている地主さんから田を借りてするか 通いで日雇いの仕事を探すしかないように 思う。 じゃあこんなアイデアはどうですか?小作 する土地も手に入らなかったら同居して 暮らす家族人数を減らすしかない。それで 子供たちはそれぞれが自分で悔いを探す。 そのために父親が亡くなるまでは外で方向 して暮らす。 父親が亡くなると恒例になった母親の生活 を支えるために村に帰る方法を私は 思いついた。 なるほど。すごいアイデアだ。そう考える と30歳代で人口数が回復していることの 説明がつきそうだね。でもどうして他の村 に行かないで自分が生まれたマンダら地村 で方向人にならなかったんだろう。これに は別の事情があるのかもしれない。でも この事情をこの人別長から読み取るのは 無理かな。 初めはマンダ村が直で豊かだから遠くの村 から方向人が来ているのだと思ったけど どうやら違うように思えてきた。 ダジ村で雇ってもらえる家がなくて村から出て行っていると考えた方が良いようだ。他の村の人が先に高校に来ていたら後からは無理だもんね。 [音楽] 実は15歳から20 歳の人口だけで見ると村の中で他の村から来ている方行人が占める割合は [音楽] 41%になる。 それを踏まえて考えると村人の 17% が高方向人だったというのは見えているだけの数値で他の村で方向人になっている人たちを加えれば実態は村の [音楽] 30% を超える若者が高校人だったように思う ということは高校人として 10 歳から働くことが例外的ではなくてむしろ当たり前のことだったのね。 私の潜入感の謝りを訂正しないといけないと思う。 江戸時代には15歳から17 歳くらいで原服式をしたというから本当に大人扱いされたんだ。 その一方で幼い頃からまだダ村から出たことがないと思われる方向人がいた。それが買え門さんの家の不大方向人の孫米さんだ。 それに彼は収支人別長の中でただ 1 人の再だったよね。それにしても孫べさ夫婦は [音楽] 14 歳も年齢が離れている。どうしてこんなに夫婦で年齢差があるんだろう。 [音楽] そうよね。いくら時代の流れがゆっくりだった江戸時代でも年齢差がありすぎると話が合わないことも多いと思う。 雇い主の買え門さん夫婦も買え門さんが 33歳で奥さんが16歳で結婚している。 17歳の年齢者だね。夫婦の年齢さ。背景 が気になる。どんなことがあるんだろう。 そうですか。それはちょうどいいですね。 私の方で結婚年齢をまとめた全夫婦の一覧 表を作っています。 全部で3枚あります。じっくり見てから 自由に意見を発表してください。 [音楽] 驚き村全体で夫婦が36組 が20十歳台で結婚した夫婦が13元しか ない。 それに対して高齢で結婚するケースが多い 。結婚した年齢が最も高齢だったのはべ さんの48歳で、その次が安米さんの47 歳が続く。 夫の結婚年齢が30歳以上だった夫婦が 23元もある。全夫婦の64%だよ。 人生50 年と言われていた時代だから男性は極端なコだとも言える。 この現象をどのように考えたらいいんだろう。ことを考えないといけないような気がするね。 [音楽] 本当だ。それも不思議だけど反対で 10 代で結婚している人が多いよ。持ち家の夫にとついでいるケースに多い。 [音楽] 10歳で結婚した女性が 11 人いる。それも相手の男性はほとんどが 10歳以上も年上だよ。 18歳も年齢が離れている夫婦すらある。 私も夫婦感の年齢差がとても気になる。特に持ち家の夫婦では大抵が 10 歳くらいの差がある。どうしてこんなに年齢差のある夫婦が多いんだろう。 [音楽] 24歳の男性が13 歳の妻と結婚している例もあるけれど、概が 20 十歳代の夫婦は年齢差のない傾向が見られる。不思議が一杯。 [音楽] ひょっとしたら夫が 20歳台で妻と年齢が近いのは恋愛結婚かもしれないね。 反対に年齢さが大きい夫婦は家と家で決め られた結婚、親同士で決めた結婚のような 感じがする。 ドラマなんかで見たことがあるけど修結 結婚式の場で初めてあったなんて夫婦が いるかもしれない。考えすぎかな。 夫が30歳以上で妻が15歳くらいだと 大人と子供のカップルみたいで知識量的に も経験値でも圧倒的に夫が優位に立って いる。到底妻が逆らったり自己主張でき ない。主関係のような愛柄の夫婦になり そう。 きっと男性中心の文化を維持するために夫 に従々な妻を求めたように思える。そうだ わ。 それの方が男性にとって都合が良かったのよ。 なるほど。そう考えるか。そうかもね。でも僕は少し違う視点で理解している。 [音楽] 15歳で10 年の年気暴行に出て年気暴行が開けて村に帰ってきても親の経済状態が好転しているとは限らない。 [音楽] すると今度は1年から5年の年気暴行を 繰り返すしかなかったかもしれない。それ が20歳の人口が極端に少ない事情だと僕 は思う。 それで30歳代が多かったと思う。ダ尊 女費の考え方から男性が挽コン化したん じゃないと思う。私は持ち入かどうかで 考えたんだけど、尺屋まいの夫婦の年齢さ が少ない傾向があるよ。 私も断尊の考え方と夫婦感の年齢さを一概 に結びつけるのは私は強引だと思う。中に はそんな人がいたかもしれないけれど、 そんなことで結婚相手を決めないと思う。 もしかすると経済力の低い人たちほど若い間に結婚したのかもしれない。ただし例外もあるから断定できないけど。 [音楽] 少し強引だったかな?今度は客観的な視点で考えたことを提案するね。 [音楽] 私は村人の年齢回層を性別に分けてみると この状況を別の視点で見ることができるか もしれないと考えている。 先に見たマンダ村人口の年齢回層の表を もう1度見直そうよ。村全体で見ると女性 の方が人口が少ない。普通は男女同くらい のはずだよ。 それが15歳から39歳までの年齢層で 女性がとても少ない。 これをグラフにすると分かりやすい。この グラフは損害から来た方向人を覗いて元々 村にいた人だけで作成されているけど青が 男性、赤が女性の数を表している。 このグラフから村の男性と女性の人数の アンバランスだったことが分かる。 そこから夫婦が近い年齢で結婚できない事情に大きな影響を与えたのは女性がいなかったことが大きな要因のように思える。 なるほど。元々村に若い女性が少ない。こっちのグラフは村の外から来た方向人も含めているけど、これを見ても男女の人工分布は同じ傾向になっている。 [音楽] つまるところ30歳の男性に比べて 30歳の女性と 20十歳大の女性の人工数が少ない。 この2 つのグラフから私は男性が万コだったり夫婦の年齢差が大きい要因の 1 つは村に女性がいなかったことだと思う。だから [音楽] 30 歳近くになって村に帰ってきても男性は同年齢の結婚相手を探すことができない。 それが結婚できない男性を生み出したのよ 。それはもっと細かいデータで作成された グラフ配偶者のいない人に示されている。 分かりやすい表現をするとこのグラフには 結婚していないか結婚相手が私して1人身 になった人だけが集計されている。それを 見ると20十歳大と30歳代の独身男性は 合計20人いるけど同年代の女性は4人 しかいない。 男性が結婚相手を見つけられる確率は むちゃくちゃ低い。絶望的だね。 本当だ。男性のコ家にこんな事情があった のか。 20十歳代の女性がいないから10歳代の 少女がお嫁さんになったんだ。 すると二十歳代で独身の女性はますます。そんな人工造的ないびさが夫が [音楽] 30歳、妻がそれよりも 10 歳以上若いという夫婦を誕生させたんだね。 僕は20 歳の男性が稼ぎの良い短期の年気暴行に他の村に出ていたに男性の根気が遅れたと推測していたけどそれだけではないようだ。 [音楽] なるほど。20歳の女性が村にいない。 マンダ村は天下の台所と呼ばれた大阪に近いし、すぐ近くに雨の浄下町もあるから町の商人の家に方向人として出稼ぎに出た人たちが多かったのではないかと思う。 特に商人の家では農家と違って読み書き そばを教えてもらったり行儀見習いも できるから20十歳台の求銀を少しでも 多くもらえることもあって村から離れてい た女性がいたんだと思う。 でも幕府が関演3年1750年に行った 人口調査の近畿地方の姻的累期の男女人口 数の比率はほぼ同に近いと言われている。 だからやっぱりマンダ村の20歳台の女性 が極端に少ないのは特殊だと思う に若い女性が亡くなるのはおさが原因の ことも考えられる異成熟な体でおさをして 命を落とした女性が多かったのかもしれ ない。それが20歳代の女性が少ない原因 とも考えられる。でもそれでは未婚の女性 が少ないことを説明できない。もしかする と尼崎半涼の神崎や大阪の染崎などの 色町ちに年気暴行した女性が多かったのか もしれない。それが近松モざ門の人形ジル の題材になったのかもしれない。地下松門 は捜索活動中にマンダら地村の近くの村に 投流することが多かったようだから意外と そんなところにマンダ村の20歳代の女性 が少ない理由があるかも。 もしかすると年気暴行に他の村から来た人 とマンダ村出身の年気暴行の人が同じ家で 働いていて恋愛して結婚するカップルも 生まれたかもしれないね。 だと方向は婚活の機会だったかも。あは。 これは冗談のような本気です。 話は少しずれるけど、私は収支別長をじっくり読んで本当に苗字がなかったんだなって実感してる。誰 1 人として農民には苗字がなくて個人名だけがあるんだ。 私も一緒。同感するわ。特に私がショックを受けてるのは女性の扱われ方。 女性の名前は結婚すると尿房としか書かれ てなくて、まるで女性は人格を否定されて いるみたいに感じた。 江戸時代の身分差別と断層費の思想の厳し さをまざまざと見せつけられたみたい。 この感覚いつまで続いたんだろう。 江戸時代には産業が発達し、生産力が 高まったのに対して人工増加率が緩やか だったのは天才による基金だけではなかっ たようです。 [音楽] 尼崎地方ではどうやら思い年宮具が農村 人口の増加を抑え込んでいたと言えそう です。 次は方向人を雇いている農家の事情を見て みましょう。 ごとに家族の人数と雇っている方向人数を 一覧表にまとめました。どんなことが 読み取れるでしょうか?尺屋を持っている 当手には丸印をつけておきました。 同じ高持百でも生活のレベルが全然違う 格差があるように思う。 だって年気暴行に子供を出さないと暮らせない家がある一方で、他の家の子供を方向人に雇える豊かな家がある。 え、方向人を雇えることがどうして豊かだって言えるの? [音楽] 家族だけで耕せる田の面積だけだったらわざわざお金を支払って方向人を雇う必要はない。 方向人を雇うのはそれ以上に広い田を持っていると考えられるからだよ。 納得しました。自分の家族人数よりも多くの方向人を雇っている家もあるね。よ一さんの家やマスアンさんの家がそうだね。平さんの家は家族と同じ数の方向人を雇っている。特にタえ門さんの家は確別だね。 [音楽] [音楽] タ門さんのところは家族 4人で9人の方向人を雇っている。 それに家族の人数が多いのは子供の数が多いからだと推測できるね。ということは子供の数が多いのは高校人を持てるほどの豊かな家なのかな。反対に豊かだから子供を方向人に出す必要もないから家に多くの子供が残っているのかもしれない。 [音楽] [音楽] でも狭い田しか持たない農民でも同じ年具 率で年具を納めなければならないのだっ たら暮らしが成り立たなくなる家も出てき そう。 貧しい家に生まれたら貧乏を引き継ぐしか ない。お金を増やすにも元になるものが ない。この世に生まれ落ちた時から不利な んだ。 に聞いた映像さんのお父さんの気持ちが分かるように思う。 もしかしたら豊かな農民はより豊かになるために方向人を雇い入れて利益を上げようとしたんだろうか。 え、方向人をたくさん雇とうと利益が上がるの?料を支払わないといけないから方向人を雇とうと反対に負担が増えるのではないの。 [音楽] 単純に考えると確かに他人の方向人を雇う と賃金を支払うからその分だけ利益が減る ように思えるよね。でも映像さんの例で 考えると8年間働かせてリ250問目の 賃金しかや問い主は支払っていない。江戸 時代の1人前の納婦だと2ターから3タを 耕せるので映像さんが耕せる田畑は一端 くらいの面積だと考えられる。 すると映像さんがあげる生産量は 1年で1刻の米になる。銀 60問目分だよ。 だとすると4 年くらいで賃金分を稼ぎ出すになるね。残りの 4 年分は雇い主の利益になるということか。 そうだね。もちろん住み込みだから食費 などを差し引かないと準利益はもう少し 減るけど4年間でほぼ急銀分は回収できる わけだから後の4年分は雇い主の利益と いうことになるよね。ただ江戸時代の賃金 は食費も賃金としてカウントすることが ほとんどだった。映像の時の記録でも食費 が急銀から差し引かれて計算されていた。 なるほど。わかりました。 ありがとう。すごい仕組みだね。それだと年気暴行人を雇う方が利益が上がるのか。今でも大きな会社の方が大きな利益を得ていると聞くけど同じ理屈なんかな。 [音楽] 子供が多くるだけでも田を耕すことが可能になるからさらに方向人を雇い入れて労働力を増やすとより効率よく稼ぐことができる。 [音楽] 江戸時代には大事主になる農民が出てくるけど、これが 1つのパターンなのかもしれない。 それじゃあ、今度は見る角度を変えて方向人を雇っている家の事情を考えてみましょうよ。私は子供の多いサブローエモンさんとたくさんの方向人を抱えているタモンさんの [音楽] 2件に注目したい。 そうだね。 子供の多いと方向人の多い家を調べると今 まで出てきた謎が解けるかもね。 これがサブローエモンさんの家の記録です ね。子供たちだけでなくてサブローエモン さんの妹さんまでいる拡大家族だね。 こちらがタえ門さんの家の記録です。子供 たちだけでなくて、この家も拡大家族で タえ門さんの妹さんが一緒に暮らしている 。 どちらの家も子供が幼いことが共通して いるよ。とても家族だけで田を耕せるとは 思えない。今と違って農業機械のない時代 だったから脳作業は想像を超えるほどの 柔労働だったはずだから子供が小さい間は 方向人の力が必要だったんだ。意外でした 。さっきの推理は撤開します。もう少しに 考えます。でもどちらの家も家族だけでは 到底耕すことができないくらいの広い田を 持っていたと推定できるよね。 ほど広い土地を持っているんだと思うよ。だって多くの方向人を住み込みさせるだけの広い屋敷と家を持っていることで共通すると思う。 [音楽] それに付け加えてどちらの家も夜を持ってるし方向人を雇うだけのお金を持っていると思う。 だって方向人を雇うためにはマ議を契約の時に支払うことになるからよほどお金を持っていないと無理だと思う。 [音楽] だとしたら同じように夜を持つ吉え門さんと七郎え門さんの [音楽] 2 件の家はどのように理解すればいいんだろう。吉え門さんの家は [音楽] 1年の年気で人を雇い入れている。 でも七郎エ門さんは方向人を雇い入れていない。 吉え門さんの家は子供が 6 人もいるけどみんな幼い子供っかりだから夫婦 2 人だけで田ハを耕すことはできないかもしれない。すると広いタハを持っていたら多くの念具を負担することになるから他田多ハを荒らすことはできない。方向人を雇い入れるしかないように思う。 [音楽] そうね。 下の4人の子供は10歳にもならない幼児 だもん。妻はその子供たちの世話だけで 低いだと思う。仮に上の2人の子供が幼い 弟や妹の面倒を見るとしても田を耕すこと ができるのが夫婦の2人だけだったらある 程度の広さの田があるのだったら労働力が 足りないのかもしれないね。 そうか。それで仕事のできる37歳の男の 人を1年契約で雇っているのか。自分たち が楽をするためとか利益を上げるために 方向人を雇っているのではないんだ。 ギリギリの選択なんだね。 そう考えると七郎門さんのところが夜を持つほど豊かな農家なのに方向人を雇わないのは [音楽] 2 人の子供が十分に働くことができる人たちだからだと言うことができるね。 [音楽] 初めは一部の豊かな農民は高校人に働かせて自分たちは楽な暮らしをしているのかと思っていた。 だけどえ豊かに見えていても農民の暮んだと感じるようになってきた。方向人を雇うのはギリギリの選択だったように思う。 そうだね。どうやら豊かな農家が利益を上げる目的のためだけに方向人を雇っているようではなさそうだ。 [音楽]
「宗旨人別帳」(宗門改帳)を読み解く後編です。
今回は、「宗旨人別帳」から、子どもたちを年季奉公に出したことが、村にどのような影響を与えたのか、子どもたちの人生に どのような影響を及ぼしたのかを探ります。
前回と同様に、中学生のグループ学習形態を模したバーチャル授業です。
元禄11年万多羅寺村は、村全体で家が48軒、その内訳は、本家が34軒で、借家住まいが12軒、寺が2軒となっています。人数は、男121人、女113人、合計234人です。年齢別に見ると男女合わせて、70歳以上が9人、10歳から69歳までが172人、10歳未満が53人となっています。
村全体を把握するために、奉公人をまとめた一覧表とグラフを利用します。
村全体で46軒の家のうちで、奉公人を抱えているのは14軒だけでした。村人234人のうちで、奉公人は39人で、奉公人は住民の約17%を占めていました。
村の人口を年齢階層別に集計すると、20歳代が極端に少ないことが分かります。特に、20歳代・30歳代の女性は4人と極端に少なく、対する20歳代・30歳代の男性は20人でした。男性の結婚年齢が30歳を超えて晩婚であること、女性の多くは10歳代で結婚する早婚であることに気がつきます。つまり、夫婦間で10歳以上の年齢差があるのが、この村では通例なのです。その原因を探る議論を展開しながらグループ学習は進みます。その際に、農家の貧富の差を所有する田畑の広さ、抱えている奉公人の数が分かる統計資料とグラフを用いながら考察していきます。
次いで、奉公人たちが人生をどのように送ったのかを想像していきます。万多羅寺村の近くには、近松門左衛門が人形浄瑠璃の脚本を著作のために逗留したと言われる久々知村があります。近松門左衛門の作品は色町の女郎の悲劇を描いていました。そして、万多羅寺村の近くには、古くからの色町・神崎や大坂の曾根崎があります。もしかすると、それらのことが若い女性が少ない原因だったかも知れません。