木村一茂さん講演「私と被爆 一瞬にして奪われた日常」(2025年9月6日第7回新宿平和のための戦争展)

よろしくお願いします。じゃ、失礼します。はい。え、まず自己紹介なんですけど、あの、私はですね、あ、今日多こ参りました。多めに住んでます。 [拍手] それであの被爆した当時はですね、え、1 歳8ヶ月ぐらいでですね、広島で被爆し ました。広島の恋仲いとこなんですけどね 、そこで被爆をいたしました。え、生まれ たのはね、その隣町の天町だそうですけど ね。それは私も戸籍を見てね、分かったん ですけどね。あのそこで生まれてあの 引っ越して声に仲間で被爆したようです。 え、私にはですね、1歳8ヶ月ぐらいです からほとんど記憶がないんですよ。それで 、あの、これからお話しすることは土が式 を残したりですね、歯が残したりしてくれ たものをあの、まとめてですね、それでお 話ししたいと思います。あの、マイクが ないんです。後ろの方声聞こえますか? 大丈夫ですか?はい、じゃあよろしくお 願いします。え、 次にじゃあお願いします。で、この写真 ですけど、この写真はですね、え、私が あの被爆する1年ぐらい前の写真でですね 、えー、左から父、姉、それから母で 抱っこされているのが私です。え、 父はですね、このこういう風に軍人でです ね、あの主刑調査でした。で、勤務先は あの宇老のですね、陸軍船舶練習部という とこに勤めていました。で、あの、経理 課長としてね、いたんですけど、あの、ま 、軍、そこの軍のですね、え、給与とか それから医療、あの、服とかですね、それ からいろんな、あの、要するにあの、経理 全般をですね、担当していました。 じゃ、次にお願いします。 [笑い] ですか?はい。これはですね、あの、これ からお話しするあの元になってるわけです けど、え、父がですね、あの、被爆の体験 を書いております。え、 被爆から26年目のですね、8月6日に 広島市があの観光してですね、広島原爆 選手というのを作っています。その第1 から第1のですね、275ページから 286ページの辺りにですね、父が式を 残しております。で、原爆が投化された時 はですね、父は爆地から1.7kmあたり のですね、あの、肘山橋付近というところ で被爆をしております。 え、その次をお願いします。これがあの、 その地図なんですけど、あの自宅はですね 、この地図のあの左上の方ですが、濃いと いうね、己れに引って書くような濃いて いう駅があるんですけど、そこの駅のです ね、すぐ裏の方に住んでいました。え、 爆信地からですね、約1点、あ、 2.7kmぐらいですね。 え、父はですね、え、この地図で行くと右 の方にありますけど、肘山橋というとこ ですね。これは1.7kmぐらいですけど 、そこで被爆をしたようです。 うん。自宅はですね、え、さっき言いまし たようにこの地図の上の方だったわけです 。 それから父の勤め先はですね、この下の方 なんですけど、藤田のですね、陸軍船部 っていうところに務めていたわけです。 このあのキ務先のですね、え、の船舶練習 部上へ、え、父はですね、え、1回行って その後広島市役所へですね、え、仕事で 行くということで事で出かけて行って 藤山橋付近で、え、降りてですね、あの 市役所がどっか疎回移転したのかなと思っ てですね、え、考えてる時に被爆したよう です。 え、 その次はい。それで被爆直前ですね、あの 、 朝日にですね、美しく物体がですね、B 20区から落下するのを見ると同時にです ね、目の前がフラッシュを炊かれたように 激しい先行とですね、え、あ、激しい先行 を感じたんでですね、あの、本能的に地上 に伏せたそうです。その後爆発音があり、 え、激しい爆風を受けるとともに周囲は ですね、深夜のように暗くなりました。 一時爆風のために呼吸ができないような 状態だったんですが、しばらくして徐々に 爆府が収まり、呼吸した時のですね、あの 空気のしさは何とも言えなかったと言って います。 え、それで気が付いてですね、軍服がです ね、次第に真っ赤になるんでですね、え、 頭から血が出てるっていうかですね、出血 してるとこが分かったわけです。それで父 は持っていた風呂傷みでですね、頭を頭の 切り口を締めつけて血に務みました。その うちに出血がや 弱くなってですね、やや落ち着きを 取り戻して乗ってきた、あ、軍隊のものな んですけど、自転車を探したそうです。で 、自転車はあったんですが、あ、父はです ね、この時着用着走していたものはですね 、夏の軍服でですね、え、会禁長袖だった そうです。それから、あの、靴もですね、 長い靴を釣化を履いていたということです 。ただ亡くなったのはですね、戦闘棒が 吹き飛ばされてどっか行ったかというよう なことでした。 え、その時お願いします。え、当時ですね 、広島市内は国民隊の金労士で建物会の 作業が進められていました。 肘山橋付近も中学生が印卒の先生のもに ですね、作業をしていました。一周にして 主囲は瓦礫の山とかし、電車通りは通行 不能となっていました。父も瓦礫の中から 生い出したような状態でした。 幕風がおさに従い、中学生の救いを求める 声が次第に聞こえてきました。 電車の定流場に立ったまま被爆した人は顔 や顔が真っ黒になりヒが避けて 垂れ下がかりがり幽霊のような姿でした。 原爆の熱戦で大やけど戸を受けてみました 。 周辺の木々はダだダ模様に焼け遠くの山目 も焼けて灰色のようになっていました。 その時お願いします。え、建物はですね、 一部のコンクリート作りを残して全く見事 に噴鎖されていました。道路は自転車の 乗れるような状態ではなく、自転車を担い で上流の鶴橋の方向に歩いていきました。 え、父はこの時なぜ宇の舞台と反対の方向 に歩いていったのか分からないと言ってい ました。ま、被爆でですね、出血した。頭 から出血したので判断力が落ちていたのか なと思います。 え、 その父はですね、その歩いてる途中で、え 、東海した郵便局から早く出荷したのを見 ました。出荷は早かったようですね。え、 腰が立たず歩けない翔平というか兵隊も ですね、何人もいたのでそれらを励まし ながら進んでいきました。 そしてその次しますけど、まるでですね、 百行のような凄まじい人々の行列が鶴橋を 渡り、日島公園の方へ向かって力なく歩い てくのに出会いました。ほとんど男か女か 区別もつかず全身真っ黒で 壁別地と地が体に染みついており避けた 皮膚が垂れ下がり真っ赤に焼けたれ 全裸全裸半裸の人々で人々でした。みんな 声もあげずに静かに歩いていました。 はい。 その次をね、この人々は合助を求めてか軍衆理によるものか、肘山橋力に第 2 停身の方向に歩いているものでした。もの進で傷の手当てをようとその中に変わって歩いてきました。 父はここまで来て意識がはっきりと平常に 戻ったと感じました。 電身体についてみると父よりひどい傷を 受けた人々が無数に集まってきており、 それでも国々と増加する一方だったので、 そこでの治療を諦め、父は三行橋あたり まで歩いていきました。ここから過て自転 車に乗れる状態になり、え、宇の所属部隊 に帰りくことができました。この下の方 ですね。ここうのはい。 はい。その次、あの基地はですね、 ようやくこの練習部のイ務室で軍の応急 手当てを受けることができました。しかし 頭部の負傷は意外に大きく 傷口にしあ、壁とがついているのさえ 取り除くことができずやもなく傷口を 縫い合わせるのをやめて、え、ただ リバノールを塗っただけで武道等と 可能止めの下リン存の駐射を受けました。 食欲が全くなくやたらに水が飲みたくて サイダーを一気に3本飲みました。 広島市内は瓦礫とかし火災が発生したので 部下の中にも家族の安否を気遣うものが 多くなり父は帰宅希望者を参条の偵察の 意味も含めて一時帰宅させることにしまし た。 それから数時間経った頃、帰宅した部下が 逐時戻ってきたので、え、その報告を聞く と悲惨なものばかりでした。 崩れた家の下から家族を食中、日が回って きたのでその前生き分かれてきたもの、 家族全員が家の下敷になり亡くなっていた もの悲惨な報告を受けなければなりません でした。 8月6日の夕方はこのような状態が続き ましたが、父も応急手当てを受けたとは いえ、出血が多く、疲労が激しく、浄感 からも一時帰宅するように進められました 。 母あ、妻や子供がですね、あ、妻が子供を 産んで日目で残る2人の子供も私と姉です けどのことも気になったので父は恋の自宅 に様子を見に帰ることをにしました。 父は舞台の桟橋から大型の発動機に乗り 自転車を積み込み、同じ方向に変える軍人 などと一緒に出発しました。 広島に出て海場からシ内をはかに望むと 前子猛に積まれていました。その中で生き ながらじリじリと焼きしんでいく人々の ことを考えると身の毛のよすような思い でした。 その次ですね。それから海から上がると 救助のトラックがたくさん走っていました 。そのトラックの2台にはたくさんの負傷 者が詰まれていました。 停車するたびに 2台で亡くなった人の遺体を路上に 投げ出し、歩いている負傷者を交互に乗せ ては走り出すという作業を繰り返してい ました。 その悲惨で非人間的とも思えることもこの 場合のある人は1人でも救わなければなら ないギリギリのやえない選択と父は自分 自身を納得させすれ違って住いました。 その次ですね。 このような地獄の町を通り抜けて自宅に 帰りつきました。父は反対して人のない人 の気配はありません。あ、家は反壊して人 の気配はありませんでした。それで暴空が 作ってある裏山へと登っていきましたが、 怪我のため体力がひどく消耗しており、 あぎあぎ山路を登た辿どってようやく暴に たどり着きました。そこで父は妻や子供 たちと会い、お互い無事を喜び合いました 。 次ですね。 父は家族との再開したアド感と朝からの 行動と負傷発熱のため急に拒状態に陥り そのまま暴空号の前に誤座を引き横になっ て8月6日過ぎていきました。翌日も市内 は 日の海となっていました。父は勤務酒への 連絡も取れず状態が続き体を動かすこと さえもできず寝転んだままでいました。 次に行きます。 え、次に私と家族のことをお話しします。 この写真は、あ、被爆の1年前、私は8 ヶ月の頃の写真です。 原爆が投稿日された8月6日は弟が生まれ て8日目の朝でした。弟はこの写真と同じ 整後8ヶ月で死亡したので、え、このよう な写真が1枚だけ残っています。 時 我が家は 弟が生まれたのでおさの手伝に母方の祖母 父方はすでに東京から疎会してきたようで 、えー、祖父母とか早祖母とかですね、 そういう、え、父の妹とか、え、 4人、5人ほどですね、一緒にいました。 それで私の家族5人と計10人が一緒に 被爆をしました。 こっからは母の主任になりますけど、 え、父が出かけた後、 母は赤坊ですね、私の弟をですね、縁に 寝かせ、汗物の薬を塗っていました。 私と姉は庭に出て金魚を見て遊んでいまし た。 一瞬のものすごい先行の後に大音教と地内 と幕風に襲われました。母は無意識に弟を 抱き、奥の部屋に飛び込んだそうです。気 がつくとそこは仏馬でした。母は引っ越し たばかりでその部屋が仏馬であることは 知りませんでした。何かに導かれて助かっ たのかなと思ったそうです。 ですね。え、爆発の後、母たちがいた部屋 は破壊され、建物は反壊し、ガラスの破片 が一面に飛び散っていました。姉はガラス の破片で耳の後ろ辺たりを切ったのか、 胸源から足元まで服が血で染まり、青白い 顔をしてぼんやりと庭の奥に佇んでいまし た。 私がいないのでみんなで心配していると 爆風で飛ばされたのかどこからともなく ちょこちょことありって出てきたそうです 。幸い無傷でした。姉の話によると、姉は あの反した建物に挟まれたのか、誰かが あの出してくれたそうです。 え、歯はとりあえず貴重品や 避難用品を入れたを持ち、山の暴空号へ 避難しようとしました。家族以外に最初 近所の人が23人ついてきました。山の 入口まで来ると畑や草が 30mから40mの感覚で2mほどの円形 で燃えていました。振り返って町の方を 見ると日の手がものすごい勢いで上がって いました。 ついてきた人に相談しようとしましたが、 皆黙ったままで、黙ったままでしたので、 胃を消して山の暴空号へ向かいました。 暴空号は扉が奥まで飛ばされていました。 この暴空号は父の所属した軍隊の方が作っ てくれたり、大きくしっかりしていました 。入り口の扉もしっかりしたものだったん ですが、それが奥へ飛ばされていました。 みんなが棒の中に避難した途端に夜のよう に暗くなった空から黒い雨が豪のように 降ってきました。これがあの放射性物質を 含んだ黒い雨でした。 この雨を浴びた方々は 後日両に襲われ、次々と亡くなっていった そうです。この黒い雨で周囲の日がきへ ほっととした時、母の脳りに父の怪我をし た姿が打ち消しても打ち消しても浮かんで きたそうです。 そのことを周囲の人たちに話すと、 あなたはおさんの跡だから頭に血が登った んでしょうと言われたそうです。しかし 帰ってきた父の様子、話の様子は母の頭に 浮かんだ通りだったので近所の人たちも 驚いていて驚いていました。 母はおさんの後1年近く出血が止まら なかったと言っていました。 私の弟は整後もなかったせいでしょう。 放射性物質放射放射能の影響をと思われる 下痢を繰り返し栄養出張になり翌年21年 の5月にわずか10実ヶ月で命を落として しまいました。 また父の式に戻ります。 8月8日、舞台から警理会員が連絡に来 ました。その連絡で戦闘式が上付近に出す 旨を知りました。 連絡と一緒に山を降り、どうやら火を免が れた自宅を見て上町の司令部に向かいまし た。途中はなお自転車を担で通らなければ ならないところがたくさんありました。 警備司令部に警備司令部で挨拶をし報告を 行い 行いました。 宇の練習部に使用された 負傷者の支援をするように命令を受け命令 を受けました。宇へ戻る途中富国生命 ビールに赤樹の旗がありました。立ち寄っ たところ 知り合いの軍意が治療にあたっていました 。 休所に入ると 兵隊さん水をくださいと数人が抱きついて きました。 見動きもできないような負傷者が私の水筒 に力いっぱいすがりつく力は体のどこから 出てくるのかなと思いました。 軍と顔を見合わせと 飲ませてあげるようにと頷くので負傷者に 水筒を渡すと数人でからにしてしまいまし た。 こういうことでまれず急ぎ自転車で広島 伝鉄の先打車庫にまで来るとまだ火が消え ておらずパンクしないように一気に行き橋 付近まで来ました。 被爆者が水を求めてか、どの遺体も川の 方向に向かって倒れていましたが、まるで 鮭の燻製のように赤くなっていました。 被爆当時の6日は小午後午後頃から傷を ついた人々が助け合いながら勤務先の 船舶練習部に到着してきましたがそのまま 力づき倒れ使用されるものが激増してき ました。 軍人軍族で動けるものは軍意から火傷の 火傷に塗るちユマーキロリバノールなどの 医薬品が支給され全員で手当てに当たり ました。しかし 負傷者がどんどん増えるので人でも薬も 間に合わないような状態でした。 次に行きます。日目には収容所で悲鳴 を上げて苦しむもの、発狂して暴れるもの 、誰も知らぬ間に静かになり死んでいる ものなど悲惨な極限状態が繰り広げられ ました。 食事は準備されていたのですが、大部分の ものは食欲がなく、ただ水を欲しがりまし た。 一般市民への給食、猛布式付の対応なども 実施しました。毛布だけでも10万枚以上 になり、抽選後回収を目、 負傷者の結婚、体液、脳などが付着した ものすごい 悪習の毛布が 衛定の庭にできました。 市内での活動として 陸軍船舶練習部の舞台の一部は証午頃には 市内の中心部に向かって派遣されたのです が爆信地付近は 火災が激しく活動はほとんど不可能の状態 なので無カメ当日は付近においてしか救援 活動はできませんでした。 よく7回なり火災も収まりかけ、本格的な 救援活動ができるようになってきました。 救援活動は負傷者の9号 収容応急手当て給食 遺体処理及び道路の復旧などが主な仕事 でしたが できるものはあらゆる ことを手当たり次第に実施しました。 陸軍連、あ、陸軍練習、船舶練習部下の 舞台だけでなく、広島近衡のあらゆる部隊 が救援活動に、救援活動を展開しました。 しかし 予想をはるかに超える状態であり 瓦礫に埋坊した人々の発見も困難を極め まし極め火災発生が意外と早く初期の救援 活動はあまり効果を上げることができませ んでした。 川朝 父がワクシン地付近に入った時、重傷者が 至るところにいました。一旦周辺の山に 逃げ、手当てが受けられないまま戻ってき て、ついに動けなくなった人たちでした。 被爆時に即死以外の火傷や放射性放射能に よる負傷者は8月8日頃に最も多くの 死者が出たように思われます。 遺体が山と積み上げられ、その遺体は厚さ のため腐敗して宇川黒い汁が電車通りまで 流れ出して 周期を放ち何とも慶用のしがい景 を出現していました。 中央活動に 出動した兵士たちはこれらの遺体を逐時 焼いて処理して処理していきました。一時 は償却した遺体を電車通りに並べ遺族円者 の引き取りを待ち引き渡しを行いました。 このように被爆直後から終戦の8月14日 まで陸軍船舶練習部所属の舞隊は資力を 上げて救援活動に停しました。 この間 、東京から西吉尾博士一光が 被災調査のため練習部の収容所に来され、 調査の結果 原始爆弾であることを確認されました。 8月15日、陸軍船舶練習部所属の舞隊 全員が衛定に集合して商の玉行音放送を 聞き終選を知りました。 後事時 作業が開始され、 父と 練習部長は仕事上10月末まで残り 軍の残務処理と収容者の救援と給食活動に 務みました。 10月31日、 陸軍船舶練習部所属の福印業務の終了の時 には収容者は皆となりました。 この後父は 20年11月1日より 日本医療団事として日本医療団宇病院の 経理を担当し 8ああ9ヶ月の間この宇病院に勤務しまし た。 後日この病院が県立広島病院になりました 。 父は 21年日本を占領したGH 連合軍最高司令官総司令部によって出され た公職追放例によって公職につけなくなり ました。 ま、このことを知っていたのか、私の家族 は 宇病院の立ち上げが終わった後、21年の 8月に母の実家佐賀に引っ越しました。 この45年昭和20年の末までに 広島で亡くなった方が14万人、広島で 亡くなった方が7万人、合わせて24万人 の方がこの原爆によって亡くなったと聞い ております。 このような記録を残してくれた 両親に私は深く感謝しています。 もう、あ、母も、あ、父も母も2度とこの ような戦争、原爆を使った戦争があっては ならないと痛感したのでしょう。 そして 被爆の被害をまだ記憶することができない 。幼い私に悲惨な現状をざえたかったのか 。父は私を車に乗せて よく覚えていきなさ、覚えておきなさいよ としを見せてまったそうです。 母は食べるものがない中、子供たちの子供 たちや家族の健康を心配し、お茶の代わり に身近にあった毒身を取り乾燥させ、煎じ て毒茶として飲ましてくれました。この 毒茶は歯がなくなるまで作って飲み続け ました。 父は67歳で剣道を元気に楽しんでいまし たが、わずか18時の入院でしました。 急制敗北円、急制農炎、決勝版減少症と いう病名がついていました。 いわゆる血液の癌じゃなかったかなと思い ます。 原爆は一瞬にして平和な家族の営波を奪っ てしまいました。 その後も行為症や偏見に回れ、 結婚に子供の将来に不安を抱えて生活して きた方々がたくさんいます。私も同じよう な思いで生きてきました。 18年孫の希望で妻と3人で生まれ生まれ た広島の地を尋ねました。 航空号のあった山の麓の濃い小学校を尋ね た時、 皇帝の 端に立てられた被爆のモニュメントを見て 何か原爆の話が聞けたらと皇帝を横切り 校舎に向かおうとした時 そこに足を踏めれようとした時に何とも 言いがい気持ちに襲われ足が止まって しまいました。 この皇帝では2000人もの方々が焼かれ たと。その時の匂い。母は怨念の匂いと 言っていましたが、私もその匂いは書いて いたはずです。 その孫もその孫は2020年4月25日 から5月3日にかけて開催さ、開催される ことになっていた。NPT最建会議に日本 避団教代表団としてニューヨークに私と 一緒に行く予定になっていましたが、残念 ながらコロナのために行くことができませ んでした。 昨年2024年広島の平和記念式定には 一緒に算列してくれました。 孫なりに被爆のことを考えてくれるのかな と思うと頼もしくもなりました。 核兵器は人類に対する絶対 悪の兵器です。愛入れることはできません 。子供たちの時代には核のない戦争もない 平和な世界になることを望みます。 ありがとうございました。 [拍手] 皆さんお話しいありがとうございました。 ここで会場の皆様からもしご質問などお 伺いしていければと思います。 どうぞ。 あの、先生が、あの、物心ついた、まあ、 3歳か4 歳ぐらいまだなんかガレタ広島の町なんか動いてますか?どうなってたか? あの、話の中にもありましたけど、私はですね、え、ま、大体 2 歳頃にもう広島から出てるんでですね、あの、広島の町は知らないですね。え、だから母早父から聞いた話だけです。 で、あの、広島に 1 番、あの、原爆を書ったのは何年ぐらいやったですか?原爆後。 ん、 原爆広島にも何回か書いたと思いますけど。 いや、行ってないんですよ。 あ、そうなんですね。じゃあ、 ただね、あの、なんですかね、は意外と九州の勤務が多かったんでね。 九州と東京の時にちょっと降りたことはあるんですけどうん。 被爆の後をね、尋ねるとかそういうのはなかったですね。うん。 え、広島だけはちょっと見ましたけどね。 宇だけがあのお父さんの金がだったからはお父さんは何回も行ったですか? 宇にはですね、父は 18年に勤務し、18 年から勤務してんですよ。 で、被爆あの20年までですね。え え、 はい。 で、それまではあの地にいたもんですから。あ、 うん。最後はね、18年の2 月頃にあのシンガポールからあ、 あの藤田に来たようですね。ええ。 はい。 はい。 会場の皆様、この他にどございますでしょうか?私からもご質問したよろしい。 はい。 あの、木村さんがあの、証券の活動を始められたきっかけと言いますか、どういった思いでうん。うん。 証券をされているのか うん。 あの、そちらお気持ちについてお伺いしたいんです。 はい。はい。今もうご存知のようにですね、被爆者がですね、平均年齢が 86 歳ぐらいになってるんですよ。それでこういう話をですね、あの、使用にもですね、あの、できる方がもうほとんどいなくなってきたですね。 [音楽] 本来だったら85歳以上90歳ぐらいの 方々ともう本当に記憶があるんでですね。 あの、きちんと自分の体験を証言できるん でしょうけど90歳ぐらいなるともう動け ないんですね。あんまりね。だからこう いうところに来てあの証言をしようと思っ ても誰かついてくるかですね。何かしない と自分だけでこう動くっていうのができ ないんでですね。で、そういうことで、え 、今や被爆し、被爆者としては1番若い ですね、私たちがあのやってくれてなこと でですね、あの、ま、なかなかね、被爆の ほら記憶がないんでですね、自分たちも今 までやらなかったんですけどね。 でも、あの、ま、聞いたことがあるし、そういうことをね、こうやって伝えられれば少しでもね、平和活動に役立つかなと思ってですね、私も、あの、本当にここ 2 年ほどですね、で、あの、こういう証言を始めました。 [音楽] 実際にその孫さんが多分私と同じくらいにしたのかなと思います。 はい。うん。はい。はい。 戦争について興味を訴て広島に行きたいと いう風にしられて お母さんもその時は一緒にられたんですか? は? あ、その木村さんの あ、妻ですか?はい。はい。一緒にうん。 3 人で行ったんですけどね。はい。本人がここにいますよ。あ [笑い] はい。 その時やはりそのご両親からお話をその原の当時の記憶をお伺していたかと思うんですけれども 実際に行ってみてどんな思い気持ちがそのありましたでしょうか? そうですね。やっぱりね自分の生まれたところが分からないんでですね。 本ともっとあの区役所とか区役所なんて言うんですかね。市役所とかですね。行って あのバンチがあるんでねその番がどこだったかちょっと調べたいんですけどねそこまではやってないんですよ。 ただ濃い小学校というところの裏山にあの防語があったっていうことを話してくれてますからまそこだけはねちょっと尋ねてあの辺にいたのかなと思ってですね。 え、そういうことで、あの、一緒にですね、あの、こっちも行ってくれてはい。はい。 素敵な経験。 もう記憶っていうのは本当にね、ま、 1歳ぐらいじゃないですよね。1歳、あ、 2 歳ぐらいじゃ。え、なんとなくこう、あの、周りから言われたんでね、あ、こんなとこにいたのかなってぼんやりとね、 あの、家の玄関がこう人になってたのかなとかね。 それからよくあの私は朝になるとね、引っ越してばっかりだったんでしょうけど、なんか近所の方があの列車を店に連れて行ってくれたらしいんですよ。 [音楽] で、その列車をが貨物列車みたいだったようなね、そういう風なね、あの、記憶があるんですよ。 ちょっとで、実際にこう行ってみたらね、線路が産むと高かったような気がしたのがね、低かったりしてね。 ちょっと記憶と違うなっていう感じはしたんですけどね。ええ、 当時の記憶が残ってるからこそ実際に行ってみるとちょっと違う状況 はいはいはいはい え お父様やお母様から直接その戦争の体験について [音楽] お伺いするまその聞くお話を聞くような機会というのはございましたか? あ、聞く機会ですか? はい。 そうですね。あの父はね残してからね。 はい。 それまではあまり私も若かったね。 はい。 あんまり聞くことはなかったんですけど、これを残してからあの話をしてくれたりなんかしました。 それから母はあの青梅でですね、被爆者の 会ができたもんですから、それにですね、 あの、すぐに参加したんで、え、で、その 後亡くなる直前だったんですけど、あの、 そういう証言集をね、あの、多めて作った もんですから、それに残くたんでですね、 え、母の様子も分かるようになりました。 本当に先ほどの主期のお話もお伺いする中で、ま、直接体験した、見た記憶であるとか、見た情景、それから匂いであるとか、そういのリアリティというのがすごい感じられました。なんか温度その時のが投化された直後の温度とか うん。もう本当に被爆した時はね、小さいんでね、分からないですね。 あの弟が要するに私があの 2歳の時ですかね。6年21年の5月に 亡くなったわけですけどね。その時に母の 話では自分が使っておもちゃをね、看の中 入れてああげたよって言うんだけど、 そんなのも全然私は記憶がないですね。だ から弟がっていう記憶がねないんですよ。 ええ 、ちょっと残念ですけどね。 すいません。あの、ちょっと聞きにく、ま 、言いたくなければ言わなくてもいいん ですけれども、その木村さんご自身の 健康上の何かこう問題というか病気みたい なあ自身 はね、あの比較的丈夫なそんなに大きな 病気はしてないですね。え、ただ やっぱり小さい時はね、あのお腹がね、 よく下するようなことがあったんじゃない ですかね。それであの 4歳ぐらいの時なんですけどね。 4歳から5 歳ぐらいの時かな。あの背中にね、お給がいいっていうことでね。 うん。 お給をさせられたですね。 それがものすごく暑かったのは覚えてます。 あとそのお姉様がいらっしゃるお話だった。お姉様はいか はいはい。姉もね、さほどの病気はしなかったようですね。 今坂にまだね、あの、住んでるんですけど、あの、今はね、もう年ですからね、色々とその血圧がね、高かったりしますけどね、あの、比較的、ま、元気ではいますね。え、 です。 ありがとうございます。 はい。 やっぱり原爆と直後に救援体が結成されるなどして はい。 あの、人々の命を救うために送されていたという話があったと思うんですけれども、お父さんはもうそれに参加されたり そうですね、あの救援活動は直接同向は分かりませんけど、 あの、ま、上司っていうかね、あの、主審査ということですから色々部下に指示をしたみたいですね。え、それで、あの、さっきも話しましたけど修戦後の福印作業ですね。 [音楽] それはやっぱり自分が主になって 最後までやったっていうことですね。 さっきもあのお話を伺えする中で町の当時の様子、ま、軸思いがあれ中で、ま、歩かれていたと思うんですけど、ま、なんか正直その僕もこれまではあんまり原爆でどういう被害があってっていうのがそこまでなんて言うんでしょう?種のクションのようない、ま、イメージしか湧いてこなかったんです あの、お話をお伺いする中で、ま、そして かなりなんか絵をあのスライドで見せて いただく中でとてもあの印象に残りました 。相手へは皆さんがやはり証言であるか 記憶を思い返す中で書かれていったものな んでしょうか。 あ、え、え、絵とかって 絵はどういう風に作成されていったんです か?あ、これですか?はい。 これはね、あの、投会でね、私がこういう証言活動したいと言って資料を渡したらですね、あの、こういうパワーポイントを作ってくれた分も分ですからはい。会で色々集めてくれるてですね。 うん。それでやってくれました。 はい。あ、 被爆者の方が絵を書かれたり証言を聞いた方が うん。 あの、あれにこう、こう、今これは浜田ガって書いてありますけど、こういう風にね、どっからあの、取ったってことはみんな書いてあったと思うんですよ。ええ、ええ、え、 なんかあんまり勝手にね、やるわけにいかないです。 あの、被爆者団体教会が ノーベル賞を受賞されたことについてなんかご感想とかお気持ちを教えていただけた。 あ、はい。はい。はい。 あの、私個人としてもね、非常にこれは 良かったと思います。で、ま、時期がです ね、よく言われますけど、あの、今年が 80年なんですけどね、あの、本当80年 に出そうかっていう話もあったらしいん ですけど、やはりあの、ウクライナとかね 、ああいう各地で紛争が起きてますから、 やっぱ1年前にですね、出した方が、あの 、世界へね、え、インパクトとして良かっ たんじゃないかって、そういう風な ノーベル委員会でも話だったみたいですね 。で、私も本当にあのこの受賞はですね、 あの日本だけじゃなくて世界の人々にこの 被爆っていうのを知ってもらうね、いい 機会じゃなかったかなと思います。本当に これによってね、あの戦争がなくなればね 、いいんですけどね。で、特にもう核兵は 絶対被爆者としてはもうダメですね。やっ ちゃいけないっていうのはもうあの条を見 てですね、もう何もなくなってしまうわけ ですから、あの、もう親から言われてる ようにですね、草も70年も生えないって いうようなことだったんですけど、ま、 生えてきたて良かったんですけどね。あの 、そういう風にもう一瞬にしてもう なくなってしまうっていうのはですね、 あの、人間だけじゃないんです。本当に 道具までみんななくなってしまうんでです ね。 そういうことで、あの、核兵器は絶対にダメだという言葉ですね、世界に分かっていただければいいかと思いますけどね。 ありがとうございます。 皆様、他にご質問がある方いらっしゃいますでしょうか? 1 つ、あ、はい。ですね。 はい。 あの、いいお話ありがとうございました。あの、お父様が その記録と言いますか、式を残されたというのは、それはあの、どんな同機で残され、どういうケーキ、機械で残されたのかは分かりますか?それからその、それ、あの、先ほどちょっと写真がありましたけれども、 あの、例えば保存、今も保存されているのでしょうか ということを伺したい。 ああ。はいはいはい。あの基の子宮はです ね、多分広島からね、あの広島市からあの 要請があったんじゃないかと思うんですよ 。書いてくれっていうのは。だからあの さっきも出ましたけどね。こういう広島 原爆選手という昭和40あ、46年の8月 にね、8月6日にされてるんですけど、 あのその何年か前からね、多分広島市で あのこういう救援活なんかに携った人とか ですね、そういう人たちにあの調べてです ね、依頼したんじゃないかと思うんですよ 。 え、で、特にあの父なんか軍でしたからね、軍人でしたから、あの、内容をね、よく聞くようにされたんじゃないですかね。ええ、ま、すごいですね。この 5冊ぐらいあるんですよ。 ああ。 ええ、ええ。そのうちのね、私も 1冊ぐらいこれですね、1 冊ぐらいしかね、まだ読んでないんですけど、まだ残りが 1%あってですね。 ええ、ええ、え、だから長崎でも調べてますから、もしあの、こういう興味があったらですね、あの、長崎広島に問い合わせればこれはあると思いますから。はい、 ありがとうございました。 特に一般の方の証言っていうよりですね、軍人としての証言なんでね、色々どういう風に救援したっていうのか色々書いてありますね、これには。え、 一応その、ま、軍としてというか、組織的にある程度 はい。 救援活動をしてるので はい。はい。そうですね。ええ。 だから誰が司令官でだ、どこの舞台がどこへ行ったっていうのはね、あ、 そういうのが書いてありますね。で、どういう活動をやったっていうのが、 え、すごいですね。ええ、あの写真をね、広島の写真とか長崎の写真をご覧になると分かるかもしれないんですけど、道路のあの復旧というのがすごい早かったんですね。 [音楽] うん。 だから写真見るともう道路に何もないんですよね。 ああ、 周りはね、あの、瓦礫になっててもだからそういう復興活動っていうのはなんか組織的に命令でパーっと出たんでしょうね。うん。 広島ではあの自然がかなり早い時期が出てます。 そうですね。ああいうのもびっくりしますね。ええ、水道もすぐ出たってことですね。え、 はい。 うん。 戦後そのかなり情報統制がされていたかと思うんですけども、 そういった当時の状況とか記録っていうのはクーン内部でもそうですし、一般の方の中で残っていたんですかね。 あ、そうですね。このね、原爆というのも本当に上層部っていう、上層部っていうよりそういう携ってしたとは分かってたようですね。 で、さっきもちょっと話しましたけど、 あの西の博士なんかもね、もう日本でも 作ろうというようなことでやってたん でしょうから、あの、原爆がどういうもの かっていうのは、あの、ある程度分かって たんでね。それで、あの、もう被爆という か投化される直前はアメリカからもそう いう情報がもう流れたんですよね。だから そういうのである程度の人はですね、そう いうのに携ってる人はもう原爆を落とさ れる。原爆はこういうもんだってこともね 、あえて分かったような感じですね。え、 だけどそれをあの一般にはね、やはりと式 が落ちますから公表はしなかったようです ね。で、この被爆した後もですね、広島で あのすぐにあのそういう風な会議を行っ てるんですね。あの陸軍だけの海もそれ から警察も集まってですね。 から市の関係も集まってそれであのちゃんと報告を書いてねっていうか東京の方へね送ったらしいんですけどやはり送ってもそれに対してね発表はなかったっていうことです。 え、だからちゃんと記録をして送ったみたいですね。 え、はい。 こちらはい。 今日本当にあのいいお話を聞きました。ありがとうございました。 はい。 あの家の方の奇跡の方がお父様でそういう感ねを見渡したような記録って私もあまりあの聞いたことがなかったので今日はすごいすごいお話を聞かせていただいてありがとうございます。 それであの修正の時にいろんな分の人たち があの自分たちの活動をあのなかったこと に行ったりこう処分したり燃やしたりし たっていう話も聞いたりしたんですけど 原爆に関してはあまりあのそういう作業さ れなかったとかもしかしたらお父さんが2 とメモってあの持ち帰えられたのかなとか ちょっと色々考えたんですけどあの きちんとそういう書類 ま、東京に送られた一はその後広島ではどういう風に処理されたのかなっていう一瞬ました。 どうなんでしょうかね。今あの今年は 80年でね、あの NHK なんかでも報道されますけどね。あのやっぱり記録を残そうとしていた方がたくさんいらっしゃるんですよ。で、写真も撮られた方もいるんだけど、もうほとんどがあれですね、あの [音楽] GHQにこう没収されたようですね。 うん。 ええ、だからあの日本に記録が残らなかったんじゃないですか、ほとんど。え、だからその隠して一部登ったのが今ね、もこうやって出てくるんでしょうけど、え、本当にあの、みんなアメリカへ行って早くアメリカがね、それをあの、またなんて言うんですかね。そのみんなにね、知らせてくれるといいんですけどね。 うん。 今、あの、そのアメリカに渡った資料もちょっとずつ出てきてますよね。 ええ、ええ、ええ。 ま、その中であのそういう分残したものとかもあるのかなって若干思いましたけど、本当に今日のお話はあの文の中でもそういう風に活動されてたんだっていうことでなんか私の中ではすごく否定日本の隊に対して否定的な気持ちが 結構あったんですけどそうでない。 やっぱり人間は人間なんだみたいなあのはい。 あの捨てたもんじゃない。 ああ。はい。 すごく いい、いい気持ちに、いい気持ちになったっていう人はあのグラス思考に使わってきたっていう本当に今日はあのでいいお話をしていただい あの地の話とかね、こうしっかりこう読み解くとですね、あの日本人はもう軍はですね、かなりきちんと記録を残していこうとしたみたいですね。 [音楽] ただそれがやはり GHQにとっては非常に不都合なんでね、 全部集められてですね、あの償却されたりね、もしくは本国へね、アメリカへ持っていかれたりそういうことをしたんじゃないかなと思います。あの、父もそういう立場上ね、あの、さっき毛布の話もありましたけど、軍のものはみんな集めたらしいんですよ。 それで、あの、使えるものがきちんと使えるようにね、して、あの、占領軍にね、渡したらしいんですけど、あの、ほとんどものが、あの、ガソリンなんかかけてね、押されちゃったって言ってましたよ。 だからがっかりしたと言ってましたね。 もうみんな使えるようにきちんとしてね、整備して手出したんだけど、みんなね、焼かれちゃったって言ってました。 はい。 やっぱりそういった、ま、記録があったはずなのに燃やされてしまったっていう。 それをま、次回そのお父様は体験されてた からこそやはりその広島の町をあの木村 さん初めま 見て回ったっていうご経験があると先ほど お話しされていたようにそういうまに出 られたのかなという感じのところもあって うん。 お父様はそう、ま、そういったことに関してお話とかをされてましたが うん。 そんなにはね、父からは私自身が聞かて周りの方がね、 あの、よくこう話を聞いていたみたいですけどね、私自身はあんまり聞かなかったんですよ。で、 1 つ残念なのはこの話の中にも書きましたけど、あの、その参情をね、やっぱり見せ、見て覚えて欲しかったんでしょうね。 だからもう軍で終わりっていう時にですね 、あの、多分軍の車だと思うんですけど、 それに乗せてね、市内をずっと回って、 もうこんな光景見られないからよく見とき なさいって、お前何回も行ったんだよって いうことをね、言われたんだけど全然それ の記憶はないですね。ええ、残念ながら 乗った記憶もないしね。 ええ、だからもうあの被爆の状況というのは普通のね、あの爆弾落とされて長油団落とされたようにね、爆弾落とされた参条とちょっと違ったんですね。 [音楽] うん。 ええ、 でも人間のね、体の状態だってもうまともな体じゃないんでね。だからそういうのを見たらもうこれはいけないと思ったんでしょうね。え、それで私なんかにもよく言ったと思うんですけど、 ま、私にとっては記憶がないのがちょっと残念ですけどね。 ええ。 はい。 当時そのどうにかして伝えようとされたお父さんの 気持ちがすごくよく伝わってきました。 うん。そうだったんですか?うん。 はい。はい。 そして、あの、こ、今回このような形で、 あの、証言をしていただいて、ま、今の 私たち、私も初め戦争を知らない原爆がさ れたという当時の状況を全く知らない人 たちにもやっぱりすごく鮮明にイメージが 伝わってくるような今後戦争を絶対に 起こしてはならない、2度と起こしては ならないということを、あの、すごく強く 感じました。本日は、あの、大変貴重なお 話をいただき誠にありがとうございました 。 それではありがとうございました。本当にたくさんね、集まっていただいて聞いていただいてありがとうございます。 [拍手]

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