【徹底解説】遠い山なみの光をもっと面白くなる超わかりやすい解説・考察動画【ネタバレ】

こんにちは。からクリシネマです。今回は 2025年9月に公開した映画遠い山波の 光について徹底解説していきます。この 物語は一見すると母と娘、そして戦後の 長崎とイギリスでの生活を淡々と描いた 作品に見えます。しかし干渉しているうち に語られる過去の出来事や人間関係が少し ずつ微妙に食い違い始めていくことに 気づくはずです。誰かが嘘をついているの か、それともただ記憶が曖昧になっている だけなのか。終盤の物語でそのずれが思わ ぬ形で意味を持ち始め、ある驚愕の可能性 に直面することになります。何の変哲も ない日常に潜む不穏な空気。復興の進んだ 長崎の町で広がる希望の光の中で今名を 消えぬ戦争の爪跡。原爆日後7年を経過し ても人々の閉は言えることはありません。 今回はこの不思議な物語の構造とテーマ、 そして映画版での書かれ方をほぼりして いきます。この動画は映画版と小説版の ネタバレを含みますので注意してください 。映画紹介から空クリシネマ。 まず始めに原作について紹介します。遠い 山波の光は石黒のデビュー作品で1982 年に出版されています。石黒は長崎県出身 のイギリス人小説家で現代文学を代表する 作家の1人です。5歳の時に海洋学者で ある父の仕事の関係で家族と共にイギリス へ移住し、それ以来ロンドン近衡で育ち ました。国籍はイギリスで英語で執筆して います。彼の作品は静かで抑制された分隊 と記憶、時間、自己疑慢、失われたものへ の教習といったテーマが特徴です。物語は 多くの場合1人称で語られ、信頼できると は限らない語り手が過去を回する形を取り ます。そのため読者は事実と語り手の主観 の間にある微妙なずれを感じながら 読み進めることになります。遠い山波の光 もそんな作風で読み進めることのできる 作品。それをある男の石川系監督が映画化 しました。基本的な流れ同じですが、映画 版ではいくつかの設定変更が加えられてい ます。 物語はイギリスに2人目の夫と共に渡った 日本人女性越子の語りで入ります。 思いがけず娘の2期が訪ねてくるところ から始まり、2人は一緒の時間を楽しみ ますが、空気には張り詰めた緊張があり ます。それは2人とも触れたくない話題。 すなわち2期の姉古の自殺によるものでし た。2期は越え越子に長崎のことを聞くと 越え子の回層が始まります。それは 1950年代初島の長崎。彼女が初めて 夫郎との間に稽古を妊娠していた時期に 遡ります。その夏彼女はさち子という年上 の女性との友情を築いていました。彼女は 夫を待たず遠くの町へ移る計画を立ててい たのです。ここで重要なのはエツ子は過去 をロボットのように正確に忠実に話して いるのではなく思い出しながら話している こと。いくつかのキーワードを背景に記憶 の引き出しを開けながら2期に伝えます。 ここで語られる過去は全て越子の視点で 語られているのです。現在と過去2つの 時間は直接繋がっているようでいてその 接点はぼやけています。このぼやけこそが 物語の鍵。観客は語り手である越子の記憶 がどこまで正確なのかそもそも全てが事実 なのかを疑いながら物語を追うことになり ます。2つの時代は交互に語られ、私たち は少しずつ2つの物語の間にある種の 繋がりを感じ取り始めます。ここからは 遠い山波の光で登場するキーワードをもに 何が信頼できないシーンなのか。自己疑 基盤はどこに現れているのかそしてずれと いうのは何なのかについて解説していき ます。 この映画を語る上で重要なのは親子関係の 距離感。遠い山波の光で描かれる親子関係 は物理的な距離だけでなく心理的文化的な 隔たりも含めた境界線を引いているのが 印象的です。それぞれの親子関係を順に見 ていきましょう。まず現代パートのえツ子 と事女2期。越子はイギリスに長く住む 中年女性でかつての戦争や家族の記憶を心 の奥に抱えています。2期は母に対して 素直で後信な若い世帯。2期は越子と イギリス人の夫との間にできたハーフです 。また日本を知らない2期にとっては母の 過去や日本の文化背景を完全には理解でき ず文化の差による心理的な壁が存在します 。2期は結婚することや子供を持つことに 否定的、現代的な考え方であり、母親との ジェネレーションギャップも生まれている ようです。映画では2人の微妙な表情や 会話の間にその距離感が匠に表現されてい ます。次にエツ子とけ子。け子はエツ子の 娘で2期の姉。彼女は数年前に自殺してい ます。なので直接登場することはなく 私たちはほんの少しの会話から読み取る 必要があります。という物理的な手当たり が現代パートとして登場する中で生前も 稽古は社会でも家族内でも孤立している ことがエツコや2期の様子から伝わります 。そしてエツ子との関係性もうまくいって ませんでした。け子の氏はエツ子の心に 深い影を落とし、過去の苦しみや後悔の 象徴として登場します。私たちは稽古の 存在を通じて越え子の心の深い部分や語ら れない痛みに触れることになります。 しかしそれは直接的に表現されることは ありません。学校パートではさち子と娘の マリ子が登場します。さち子は長崎で 暮らす母親で戦後の困難な時代をシングル マザーとして生き抜こうとしています。 バラックのような場所でギリギリの生活を 送っていますが、娘のために、自分のため にその生活から抜け出ることを模索してい ます。しかし一方でマリ子のことを放置 する場面もちらほら見受けられ、しばしば 彼女は自分中心に行動し、アメリカ人の男 と付き合ってもいるようです。まり子は 学校にも行かず、友達もおらず、社会に うまくめていません。さち子が会いに行っ ている男を嫌っているのは母親が自分の方 を向いていないと感じているからです。 彼女は安定がない暮らしの中で将来への 不安を抱えており、決して母親とうまく いってるとは思えません。2人の間には 見えない壁が確かに存在しているのです。 そして小方と息子の次郎。小方は教師とし て生徒から慕われる存在で人間的な魅力と 指導力を持っています。しかし彼の価値観 は軍主義的な思想や保守的な規範に値戦後 の時代の変化や自由自立をじる考え方に アップデートできません。この硬直した 思考は家族や周囲の人々との摩擦を生み 親子関係に心理的な隔立たりを作ってい ます。一方次郎は自由主義的で柔軟な考え 方を持つ人物。一見小方を父として尊敬し てるように見えますが、低才だけ 取り作ろっているのみ。松田茂夫男夫と いう次郎の同級生であり共産主義的な思想 を持つ若者大きいワードとし戦前を生きた 小方と戦後を生きる次郎との間に イデオロギーの隔立たりも見せています。 その証拠にまだまだ結婚は親と同居する ことが普通であったことに対して次郎は 夫婦だけでアパート暮らしをしています。 そこには物理的な距離も生まれているの です。最後に小方とエツ子。小方はエツ子 にとって特別な存在です。戦争で恋人を なくした彼女を支え息子の次郎との縁を 結ぶきっかけにもなりました。原作でも 自郎以上に小方に真金感を抱いている描写 が多く見受けられます。つまり小方は義の 父であると同時に精神的な被護者でもあっ たのです。しかし一方で大方は軍主義時代 の価値観を引きずり戦後の社会変化を 受け入れられずにいました。女性の自立や 若者の自由思考に怪議的であり、伝統や 旧来の秩序を守ろうとする態度が際立って います。そのため越子にとって大方は深い 親しみを感じる相手でありながら自らの 新しい生き方を模索する際に必ず超え なければならない壁ともなっていたのです 。大型は越子にとって支えであると同時に 壁でもある二重の存在。この2面星が戦後 の日本における世代官の価値観の断絶と 葛藤を象徴的に表しています。 この映画には親子関係だけでなくそれぞれ の人物たちの価値観にも下手たりを産んで います。ここに住む人たちは全員同じ戦争 を経験し、原爆による喪失を抱えています が、再建に取り組む中で西洋文化が混じり 、日本のカルチャーは変わっていってい ます。アメリカに一時期占領されたことで 教育はアメリカ式になり、戦前であれほど 賞賛されていた教育は批判の対象にもなっ ています。その事実に大方はもかしい思い を抱えているのです。不調性の社会も変用 し、夫婦が2人暮らしになったり、妻は夫 の言うなりになる必要もなくなりました。 今でこそ当たり前のように思える社会です が、当時は大きな時代のうりの中にあった のです。しかし、まだまだ一般的ではない そんな時代。その違いを映画の中では淡々 と表現しています。静かですが深く大きな 溝が衝突を産んでいるのです。藤原さんと いううどん屋を営む女主人は象徴的な人物 です。彼女は戦争で夫と長男以外の息子を なくしました。夫は軍の偉い人だった らしく、その妻である藤原さんもそれなり に裕福な家庭にいたはずですが、戦争に より一気に絶望の淵に立たされたはずです 。しかし藤原さんはうどん屋を構え、自ら の足で立つことを最優先にしてきました。 彼女は変わっていく時代をポジティブに 捉えている。いや捉えようとしているの です。ホワイトカラーではなく労働者とし てのブルーカラーになることもネガティブ に捉えていません。この生き方を越え子は 頑張っていると少子褒めたえています。 しかしさ子と大方は藤原さんに対して否定 的な意見を持ちます。どれだけ藤原さんが 前向きに生きていても小方は木の国と一周 します。そこには明らかな職業差別の意が 含まれていると同時に旧時代の価値観 に囚われたままの小型の姿が買い間見え ます。伝統を守ろうとするものと変化を 受け入れようとするもの。小方さんにとっ て藤原さんは戦後の女性の新しい生き方を 対現する存在であり、それは同時に自分の 信じてきた勝ち体系を揺さぶるものでした 。さち子も同様です。身の上話から察する に彼女も偉い家にとついでおり戦争で なくしています。叔父の家に身を寄せるも 日本的な考え方の息き苦しい生活に自由を 制限されたと考えています。しかし、彼女 自身は貧乏になりたいわけでもなく、自ら 立ち上がり自由な生活を手に入れたいと 願っているんです。女性でも自ら生きて いく力をつけるというのは藤原さんと同じ 考え方ですが、そのプロセスは全く もっとって違います。さチ子は一時的に 貧乏長屋に暮らしてもプライドは捨ててい ません。食器はいいものを使い、うどん屋 で働くことを蜂だと思っています。例え 越子にお金を借りようともです。反対に 藤原さんはいい意味でプライドを捨て、 過去の生活に思いをせるのではなく、 しっかりと現実に向き合っています。それ は戦争で家族をなくしたという辛い事実を 受け入れ、前に進むことも意味しているん です。女として自立をするという点におい ては価値観に違いはありませんが、地域に 根指して働く現実主義者と海外を夢見て 生活を変えようとも書く理想主義者との間 に大きな隔だりを生んでいます。つまり 藤原さんは世代歴史官の対立と女性同士の 生活感の対立両方の真ん中に立っており この二重性があるため藤原さんの キャラクターは単なる保守派やただの現実 主義者ではなく戦後日本の変化の中で 揺れる象徴的存在として描かれています。 このようにこの物語の価値観はステレオ タイプのような確実的な対立関係にある わけではなく複雑な構造を持っているの です。そしてその根底にあるのは戦争原爆 という出来事から生まれた大きな時代の 変化なのでした。 遠い山波の光の大きな魅力の1つは語り手 の信頼性を相手揺らしている点。人間はね 、時に他人を欺くためだけでなく自分を 騙し困難な真実から目を背けるために嘘を つくんですよ。これは和石の言葉でこの 映画のテーマの1つです。この物語は事実 をつらつらねているわけではなく、越子が 語る回層シーンを越子の主観を通して断片 的に提示しているのだということに注意し てみる必要があります。本作では越子が 自分の娘に語る話の多くが真実をそのまま 語らない自己疑慢の形を取っています。 過去の戦争や喪失、社会的混乱の中で痛み や後悔失敗から目を背けるために自ら騙す という行動が書かれているんです。越子の 語る長崎の記憶はそのままの事実ではなく 、彼女自身の心の整理や頭皮の散物でも あるのです。画像石黒のテーマである記憶 、時間、自己疑がそのまま作品に反映され ています。過去の出来事を語る時、越子は 都合の悪い部分をぼかし、事故を守る形で 物語を再構築しています。その結果、 私たちは語り手の信頼性を問いながら真実 を探すことになるんです。この作品は人間 は単純に悪意で嘘をつくわけではないこと も描いています。嘘や自己疑慢は時に 生き延びるための戦略であり、悲しみや 葛藤、愛情と深く結びついています。越子 の行動や語りの不正確さも母としての責任 感や製造戦略の現れとして理解できます。 物語の中で最も印象的な矛盾の1つが ケーブルカーの初めてを巡る描写です。 これがあることで原作者の新に気づくこと になります。過去の回層では越え越子が さち子やマリコラと一緒にケーブルカーに 乗るシーンがはっきりと描かれています。 これは長崎の復興の風景と共に親子の時間 を象徴する場面として読めます。しかし マリ子が男の子と喧嘩した時の対応はなぜ か焦がしていたりと違和感がありましたよ ね。原作では現在のパートになるとエツ子 は事女2期にこう語ります。けことを 初めてケーブルカーに乗ったのだと。 おかしいと思いませんか?初めてが2度 あるはずはありません。この矛盾は単なる ミスではなく数石黒が意図的に仕掛けた ものです。初めてケーブルカーに乗ったの はマリコと一緒だった。しかしエツ子は その事実を押し2期に対しては軽トだった と語り直すのです。これはこの矛盾から 私たちは越え子が語り手として信頼でき ないのだということを認識させるためです 。果たしてケーブルカーには誰と乗ったの か。このちょっとした転びが真実に大きく 影響を与えています。つまりケーブルカー の矛盾は語り手の信頼性を揺がす装置で あり、とある驚愕の事実を導き出す証拠で もあるのです。数石黒学のは事実そのもの ではなく人間がどのように記憶をすり替え 語り直すのかケーブルカーはそのテーマを 象徴的に移し出すエピソードだと言える でしょう。 それでは越え越子の話のどこに自己疑慢に 基づく嘘があったのかを見ていきます。 まずはさち子のついた嘘。さち子は自由 思考が強く家に縛られることを望んでい ませんでした。夫は勉強をすることを許さ なかったと語っており、さち子は子供を 生み家庭を守ることを求められたことが 分かります。また映画には登場しませんが 、原爆で夫を失った後、お家の家に一時的 に身を寄せていますが、そこから逃げ出し てもいます。その理由には表面的な言い訳 とその奥に隠れた深い心理があります。 さ子は越子との会話で叔父の家の環境や 人間関係を自分と会わないと説明します。 しかしこの説明はどこか曖昧で実際の描写 はほとんどありません。これは数石黒作品 特有の語られない部分の多さであり私たち はその隙間を想像するしかありません。 さち子は叔父の家に戻れば家事や親戚 付き合いなど戦前的な家制度の中に再び 取り込まれることになります。彼女はそれ を精神的な束縛と感じ避けたと考えられ ます。藤原さんの店や長崎の共同隊のよう に女性が家のために生きる枠組からは距離 を取りたい。そんな欲求があったのです。 おじの家に戻ればマリ子も古い価値観の中 で育てられる可能性が高い。立ち子はその 影響を避け、娘をもっと広い世界で育て たいと考えたのかもしれません。この思い は越え越子や藤原さんから見れば勝手で 危い選択に移りますが、さ子は娘のためだ と言い張ります。しかしそれは自身の アイデンティティを守るため、自身を納得 させるための自己疑慢でした。本当は未来 への不安や自分の選択の危うさも分かって いました。しかしそれを直視するよりも 自分は正しい選択をしていると信じたかっ た。これが彼女の自己防衛だったのです。 映画の中で登場する幼児考察の連続殺人 事件。越子たちがクラス地域の近くでは 幼い子が何人も縄で締め殺される事件が 起きています。物語の中ではそのニュース が取り沙たされることはありますが、越子 たちのストーリーの中には直接関わっては きません。これは殺人事件そのものが重要 なのではなく、川の向こうで起きている 事件と縄が重要な意味を持ちます。物語の 中で繰り返し現れる縄、またはそれを早起 させる演出は母とこの関係性を表現してい ます。さらに川の向こうでの出来事は生徒 市の境界線を象徴するモチーフとして描か れているんです。縄につがるエピソードは 3つ。幼児連続殺害事件、越子の足首に 絡みつく1本の縄、そして稽古の首吊り 自殺。戦後の長崎では幼い少女が木から 吊されて殺されるという連続殺害事件が 起きていました。抽選後、復興によって 希望を抱いて生活している長崎の人々には 不安な要素として得意な空気を醸し出す エピソードになっています。考察という キーワードに縄が早起されます。また事件 は川の向こうで起きています。続いて 越え子がマリ子を探す時、足に縄が 絡みつくことがありました。そしてその名 を見た時に子供は怯えた表情を見せるの です。これは縄が連続殺人事件と結びつく ことで死という絶対的な恐怖をマリ子に 想像させてしまうため縄は本来何かを固定 したり守ったりするための道具ですがここ では暴力や死と結びついた象徴に変わって いるのです。現在パートでは越子の娘稽古 が首を釣って自殺したという事実が静かに 語られます。ここで縄というモチーフは 過去のマリ子の怯えや事件の噂とつがり、 観客の中で1つの重い連想を生みます。 また川の向こうという物理的な教会に例え て生と死を表現しました。例えばマリコを 訪ねてくる女性は川の向こうからやってき ます。しかし実際に訪ねてきているのかは 不明。川の向こうには誰も住んでいないと されており、越子が無義を外国や見の土地 に例えて稽古の市を連想して追加した エピソードの可能性が高いです。マリコを 探して無効師に渡った後、日やりと不安な 気持ちがした。虫の知らせなようなものを 感じたとあるように川の向こうは不穏な 空気感をまとっています。これは稽古が 言ってしまった死後の世界をさしている 暗ゆとも取れるんです。そして縄は親子 関係も表しています。縄はつなぎ止める ためのものであると同時に命を立つための 道具にもなりうる。その2面星がこの作品 の親関係の描写に深い陰営を与えているの です。母親の愛情はしばしば守るためと いう名目で子を自分の元に縛りつけます。 しかしその縛りは子供にとっては束縛で あり逃れたい衝動を生みます。越子もまた 稽古を心配しそばに置きたいという思いを 抱いていたことから1人暮らしをなかなか 許しませんでした。その結果娘が届けない まま固まり、稽古は最終的に自らの命を 立つという形でその縄を断ち切ることに なりました。縄はこの物語において守りと 束縛、聖と死母性の光と影を同時に 移し出す鏡のような存在です。結ぶことも 解くこともできる。それは愛情の証であり 、同時に取り返しのつかない別れの道具に もなりるのです。は川の向こう死という ワードを早起させる。考察事件にはその 不穏な空気を演出する効果があります。 今までのキーワードを元に整理するとある 結論が出てきます。越子はさ子のように 海外思考でもなく女性の自立について 大きな意見を持っていませんでした。 どちらかと言うと球体以前とした大方に 寄り添い女性が男性をかけて支えることに 疑問を持っていませんでした。家庭を持ち 、子供を生み、育てることに幸せだと感じ ていました。しかしさち子との出会いに より越子は自分に疑問を持ち始めます。 さち子と会話する時自分の人生を正当化 しようとする様はまるで自分に言い聞かせ ているかのようでした。知らず知らずの うちにさち子の考えに引っ張られているの です。越子はまだ母親ではない頃さ子の 行動を厳しく評価していたはずです。 さち子はマリ子にとっていい母親と呼べる ものではありませんでした。彼女は おそらくこう考えていたでしょう。さち子 は叔父と一緒にいた方がいい。それがいい 母親のすることだ。私ならこうすると。 しかし振り返ると越子自身も自分にとって はいい選択をしましたが娘にとっては良く なかったことに気づきます。そして今稽古 は自殺してしまっています。だからさ子の 行動を振り返りつつ実際には自分自身の 罪悪感に向き合おうとしているのです。子 が覚えているさ子の物語は彼女自身の罪悪 感の光の中でしかありません。そのため 記憶は100%性格ではなく夢のような 記憶と混ざっており実際には起きていない ことも含まれているかもしれません。 絡みつく縄自体は越子が語るエピソードの 中では空想の産物であり自身が縄に囚われ ている潜在意識にあるものです。エツ子は 稽古の自殺に罪悪感を抱き自分がさち子と 同じく子供を傷つける人間と見なしてい ました。だからマリ子が縄を怖がる場面が あるんです。最後にマリコとの会話で嫌 なら戻っても大丈夫といったセリフは おそらくイギリスに渡る時に稽古に向けて 話した内容なのではないでしょうか。 エツ子は稽古に嘘をついていたことを知っ ており戻る選択肢はなかったのです。ここ でも彼女の罪悪観が記憶を通して現れてい ます。越子がさ子のことを話す時彼女は マリコをほったらかしにして外人の彼氏と 何時間も過ごすことがありました。そんな 客観的な状況とは裏腹にさ子は子供の将来 のために子供が幸せであることが1番だと 話しています。これは越子が信頼できない 語り手であることの証で自身も後に同じ道 をたどった時確かに稽古のことを考えてい たからでしょう。いやそう思い込みたかっ ただけなのかもしれません。自己疑慢を することで自身の罪をやらげたいという 狙いがあったのです。 ここまで来てどう思いました?越子は稽古 の死を受け入れて前向きになるためにこの 話をしました。だからそこには少し嘘が ありました。そう、全ては越え子が語り手 として機能しているのでこの話は越え子 次第でもあるんです。さち子についた嘘は 越え越子の主観で話しているだけですよね 。じゃあ本当に嘘はそれだけなのかという ところに着目するとさらに驚愕の事実が 見えてきます。そして映画ではこの説を 事実として描いています。それが越子と さち子が同一人物だとする説です。越子は 自分の行いを直接娘に語る勇気がなく さち子というキャラクターを作り上げまし た。マリ子に対するさち子の扱いを見てい てどう思いましたか?さち子ってして なかなかひどいですよね。子供のためと 言いつつやってることはネグレクトに近い 行為です。いくら海外に行くためとはいえ 、小さな娘をほっぽり出して男のところに 会いに行ったり、マリコの気持ちは無視し て海外に行くことを決めてしまったり、 マリ子が可愛がっていた猫にひどい扱いを したり、そんなことを越え子は2期に言え たと思いますか?言えないですよね。 つまり全てのさち子の回層シーンは越え子 が事実をすり替えているのです。要するに さち子のエピソードは全て自身の話だった のです。全ては自分の実態権を別人に 置き換えて話しているだけなんです。罪悪 感で押しつされそうなが自分の娘を前に その行為を正直に話せるはずがありません 。しかも2期は越子の見方です。越子の 生き方を肯定する立場にいて寄り添って くれる人物なんです。真実を話したらどう 思われるか。もしかすると愛相をすかして 離れていくかもしれません。ただでさえ 孤独に生きているエツ子は一層孤独になっ てしまいます。さち子は現在パートで 越え子が辿どっている人生と似ていますよ ね。越子とさち子はけ子とマリ子という 2人の娘がいます。2人の娘は母親との 距離感に複雑な感情を抱き、心を閉ざす ような態度を見せています。さらに稽古の 自殺という事実は不安定なマリ子の未来の 姿と重なります。またさ子はアメリカへ 渡ることを夢み子は30年後にはイギリス へ移住をしています。この時代に海外に 移住する選択を取ったこともかなり珍しい 共通点です。しかし過去パートの越子の 考え方は大きく異なっていました。さ子は 叔父の元で安定した暮らしに甘えるのでは なく女性の自立を求めて海外へ渡ろうとし ていました。それは日本に根付く花調性の ようなものや古い敷きたりに縛られたく ないという強い思いの現れです。 大してず子は過去のシーンでは日本がいい 、今の暮らしが幸せだと度々話しています 。しかしさち子との会話はどうも不自然で お互いがお互いの主張をするだけで会話と して成立していません。なんだか葛藤して いるそんな感じにも見えますよね。日本に いて子供を生み夫に従って生きる越子こと 自由を手に入れるために必死なさち子 どちらが正解だったかなんて分かるわけも なくしかしイギリスに渡った越子は娘を なくしています。この物語は越子の主観で 語られています。つまり過去パートのエツ とさ子は海外に来なければ良かったと後悔 する越子とそれでもこの選択は間違ってい なかったと思いたい越子の2面星を表して いるのです。この2面星はさ子の岐阜の 大方にもありました。軍主義の時代を 生き抜いた大方は戦後の価値観の 移り変わりに困惑していました。自分が やってきたことの無味さを感じるとともに 過去の全てを否定したくないという思いも 持っています。パートでは越子が小方に 寄り添っていると感じるのは現代パートの エツ子が自身のイメージを小方に統映させ ているからです。強い後悔の現れとして 過去の越子は仕切りに幸せだとつやきます 。この仮説が成り立つと縄のモチーフや 親子関係についても見えてくるものがあり ます。け古の死を抱えた越子は過去の稽古 との関係をさ子の物語として再構築する ことで自分の後悔や罪悪感から距離を 取ろうとしているのです。つまり次郎との 過去の描写は微妙に年代が異なっていて おそらく越子が被爆していたことが原因で 別れることになった後エツ子は新しい生活 を異国の地で送ろうと奮闘したのでしょう 。石頃の言う困難な真実から目を背ける ための嘘が作品全体の構造そのものになっ ているのです。小説版では同一人物説を 確定させる直接的な説明はしていません。 しかしその沈黙こそが観客に余因を残し 答えのない問を抱かせます。越子はさち子 なのかそれとも本当に別人なのか。映画で 出した答えを皆さんはどう思いますか? それをどう解釈するかは観客自身の記憶と 想像力に委ねられているのです。 遠い山波の光は過去の話を越え子が改変し 、真実を隠したミステリーにも見えますが 、それだけではありません。この物語は 1980年代の現在に生きる越子が過去を 回しながら今を生きる自分を見つめ直し 再起しようとする希望の物語なのです。 遠い山波の光は第二次世界大戦後に アメリカの植民地空空間へと変用した日本 の生々しい光景を描くともにさ子や越子の 指的空間も描写しています。東洋文化と 西洋文化が混在する日本社会において2人 は自らのアイデンティティを構築するため に理想的な空間を模索しています。その アイデンティティを構築するのに ふさわしいと考えた場所はアメリカであり イギリスであったのです。さち子とエツ子 が同一人物であろうとなかろうとエツ子 自身はイギリスへ移住することに成功し ます。しかしその生活はうまくいきません でした。稽古は愛国の地で アイデンティティを築づけず孤立し自殺し てしまいます。部屋に引きこもり社会との 繋がりは立たれてしまいます。小説の冒頭 に稽古の自殺にイギリスメディアが触れる シーンがありますが、そのことを イギリス人は私たちの種族に自殺の本能が あると考えるのが好きなのだというエツコ の考えが書かれています。このことはそれ が事実かどうかはさておきイギリスという 地において日本人の越子は受け入られ なかったこと少なくとも越子がそう考えて いることは事実だと意味しています。 そして現在エツ子は周囲に一気のない場所 で孤立した生活を送っています。その場所 で2期を通して越子は自らの過去と 向き合います。イギリスに来たことは 少なくとも稽古にとってはいい結果を もたらさなかったと感じています。回層 シーンでは小方に対して寄り添うような 発言をしていました。もしかすると当時は もっと違う印象を抱いていたのかもしれ ません。それこそさち子のように自分は 間違っていたと気づきそれを受け入れた上 で前に進むために2期に語ったのです。 たえそこに自己疑慢が含まれようとも後悔 と喪失を抱いながら生きていくためには 必要な行為なのです。公開の先に希望の光 があると信じて。はい。というわけで今回 は遠い山波の光について解説しました。 映画ではよりミステリーを強調していて 映画的な表現が強まっていました。背や二 階道踏の演技力により薄気味悪くもあり、 原爆の持つ悲惨さもとてもよく表現されて いたと感じます。見るものの想像に委ねる 部分の多い作品ではありましたが、味わい 深い映画でした。このチャンネルでは Amazonプライムのおすすめ作品の 紹介や最新映画の解説を行っています。 今後つま、広瀬すず、久保田玉正孝が共演する宝島の解説動画をあげる予定ですので、どこのチャンネルか分からなくなる前にチャンネル登録をお願いします。 ご視聴ありがとうございました。また次回の動画でお会いしましょう。それではまた。

この動画では「遠い山なみの光」の解説・考察動画です。

🍿紹介した作品
「遠い山なみの光」
予告:https://www.youtube.com/watch?v=b3doWqnzzfo
公式:https://gaga.ne.jp/yamanami/
公開日:2025/09/05(金)

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📝チャプター

0:00 はじめに
1:05 原作の作風について
2:09 あらすじと見るべきポイント
3:42 キーワード1「5組の親子関係」
8:05 キーワード2「異なる価値観」
11:47 キーワード3「物語のテーマ」
13:24 キーワード4「ケーブルカーの矛盾」
14:52 キーワード5「佐知子のついた嘘」
16:43 キーワード6「悦子に絡みついた縄の意味」
20:14 真相1「悦子の内省の物語」
22:49 真相2「悦子=佐知子」
27:36 この物語は希望なのか絶望なのか

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4件のコメント

  1. なかなか興味深い作品でした。
    原作を読んでからの方が個人的には物語がリンクしやすくて新たな気づきもあってよかったです。
    素晴らしい考察ありがとうございます。

  2. 私は、悦子=佐知子と思いました 2面性を表すって正にそれかなと
    前知識何もなしに観に行ったので驚愕でした・・解説ありがとうございます

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