創価学会「四箇の格言」の再歴史化とその現代的な意義(2025.7.5)第55回教学研究会

今日のね、テーマ、今読み上げていただい た歯の格減の最歴史っていうことで、 いわゆる、え、鹿の格減をね、現代にその まま持ってきてね、年物見たら無限地獄だ 、前収見たら天ってこういう風にやってく ことが、まあ、この時代にそぐわない状況 っていうのがね、え、生まれてまして、で 、それをね、あの、池田先生がですね、 2003年に5章の世界っていう本が出 ますよね。大百連に連載されたやつを まとめたものですけど、こん中でね、この 現代に会うような 新しいこの歯の格減の解釈を池田先生が 打ち出されたんですね。で、それがですね 、これまでも即会って言うと多種を見たら 全部邪州だね。全天信言暴国立国族って 言ってきたそこ学会がね、ま、これは宗教 のね、え、4つの累計、ま、典型的な パターンを示してて、それぞれにいい面と 悪い面があるんだみたいなことでね、あの 、今まで鹿の格減で邪シって言ってった。 野球も、ま、先生がある意味積極的な意味 があるんだって言い方されてますけどね。 評価されて。それがですね、あの、非常に 2003年に話題になった。その先生の 地下の格減の新解釈に刺激されたのか東洋 大学の西山茂っていう先生がね、ま、これ 宗教社会学者としてはもうあれ日本で1番 の人ですけどいわゆるこの再歴史化をし てかなきゃいけないっていうことで特に 2010年池田先生から7年後に日連の 初集批 この鹿の格減の最歴っていうことを1年間 のテーマにしてね、ほんで、え、そん時に 小心会の山上行動さんに、ま、あの、 その基礎となるような、前提となるような 講義をしてもらったんですね。ほんで、 その 、そこで山神さんが再歴史家として提承し たのがこれですが、後でこれ伸びますけど ね。で、これを1冊にまとめた本を 本ゲネットワーク研究会で出しまして、 そこに序分をつけてくれたのが西山先生な わけです。この西山先生の条分っていうの がね、なかなか素晴らしいんで、是非この 西山先生の女分をね、読んでいただきたい なと。後でちょっと紹介しますけどね。 平成23年ね、石山とで ここでね、山神さんが抗議された各波の 批判についてはまとめの部分だけですけど ね、ここに全部出してますので 読んでみてください。もっと詳しく 突っ込んで勉強したければ皆さんにお送り した山神さんの本をじっくり読んで いただけたらと思いますよ。 本ゲネットワーク研究会の光景団体として 今ホケコモンズっていうのがありますけど 、そのホケコモンズのホームページで今 無料でただでその山神さんの方は ダウンロードできますのででそれを ダウンロードして皆さんにお配りしてあり ますので見ていただきたいと。で、そこで 山神孝藤さんがね、歯科閣元の最歯科への 提言ってことでね、この各習の本質につい て考えてみたいっていうことでね、 年物、善言 、率、このそれぞれがどういう特色、本質 を持ってるのかっていうことでね、僕ね、 ここの上土鏡についてのこの山神さんの やつ非常に 感動したんで、ちょっとこれだけ紹介し ますね。ま、山組さんは上土教っていうの は否定の論理で成り立っている協利である と言った上でね、上土教といえばね、 オンリエドゴング上土でしょ。このしバ 世界を嫌い、西方極楽世界を求めていくの が上土教年物ですよ。道論で言えばこの世 では神1人より締め万民に至るまで誰1人 救われるものはいないという否定の論理で 成り立つ平等でこの平等論がなかなかね 当時の人々特に再仮想の人々とかには非常 に魅力のある思想だったとね。でね、普通 僕らみたいな小門、上土門に対して小道門 っていう自力左の 宗教の大初人の仏法も、ま、両面あるん ですけど、ま、出身は天台ですから 上土門の自力左の宗教なんですけどね。 そこではこういう言い方になるんですよ。 あなたはこの世で救われることがない だろう。しかしどのような全輪であっても この世で救われるものは誰1人いないのだ と。だから悪人も全任もひたすら天物に すがって財法極楽世界に王情しそこで救わ れるのだっていうのがこれが年物の言い方 なわけね。だけど得てさ、僕たちはこう いう風に言いがちなんじゃない?そのよう な極動なあなたでも仏の物将はあるし、仏 になる物将はあるし、介護士仏道を求めれ ば必ず救われますよっていう、こういう 言い方をしがちなんだけど、年物はね、 もうあなたはこの世で救われることはな いって言いていっちゃうわけ。しかしどの ような 全人であってもこの世では救われるものは 誰1人としていない。だから悪人も全任も ひたすらミダー物にすがって財宝落 世界に王助しそこで救われるんだよって こういう言い方された方があなたにも物将 はあるから斬下げ下して仏道求めれば救わ れますよ。って言われるよりも説得力ある んじゃないっていう、こういうことをね、 山神さんが言ってて、ま、そういう面を 年物集の本質、ま、ある意味言い方で言え ば年物集のいい面として、ま、紹介して いるわけです。ま、これのね、善について も信言についても立についてもやってね、 その後今日最後にも触れますけど立って いうのはね、も現在で言えば何なのかなっ て僕ずっと考えてたんだけど、台湾総加 学会のホームページでね、主席立史社 よりって書いてあったからね、あの、極楽 事業官別名認証。認証は認証立史って言わ れるわけですよね。で、鎌倉大時代に立集 の僧侶が 立史と呼ばれたわけね。それに対して現代 ではもう大場仏教の開立なんて誰も保ち ませんからね。 今現代 社会の中にあって、ある意味と言えるのは 憲法とか民法とか警報とかああいう六法 前書に書かれているようなのが 開立でしょ。現代のその開立の専門家が 弁護士じゃないね。で、だから中国では 弁護士のことを立と今でも読んでるわけ。 ま、そこがぴったりなんで、もう立国族占 の代表が極楽官ですけど、現代の極楽事館 誰かと言ったら総加学会の主任立史の社だ という 僕が、ま、思いついたんだけど、ま、漫ざ 外れてないと僕は思ってるんだけどね。 そっから現代品の町にこの歯閣を当てはめ たらどうなるかっていうことで谷川天馬 佐藤浩暴族 職員無限地獄っていうね、ちょっと今日の 最後のま、落ちというか結論になりますね 。ま、そういうのが今日の使う資料と最後 の結論部分なんですけど、今日のテーマ 自体はですね、私なりの最歴史っていう ことを 20歳はこう 歯源を読みるという 私なりの歯源の最歴史観を前から紹介して いる東京大学の哲学家の教授だった岩竹夫 という人のね、倫理学 に照らしてそこの視点から歯格見ると結構 面白いことが言えるんじゃないのっていう のが今日の私の話です。それはね、大学 時代に、え、僕は岩崎竹夫の本全部読み ました。そん中でも特に感動したのがね、 この倫理学っていう、ま、実践論っていう 名前になってますけど、で、いわゆる生き 方の人間ってどう生きるのが正しいの かっていう生き方の原理 を岩崎はまず快楽という生き方の原理、 その次に運命愛という原理でさらに 個性的生き方の原理ってこの3段階に分け てくわけ。またその中を2つずつ分ける から6段階って言ってもいいんだけどね。 ほんでねその個性化の生き方の というのは単なる独自性を追求する人と 違った生き方をするってことじゃないんだ と。個性的な生き方っていうのは普遍的な 生き方。人間であれば誰もが自分と同じ ように生きるべきだと言える不遍性を持っ た内容を持たなければいけないという最後 結論になり、その生き方の原理の不遍性の 内容とは何かと言ったら 最後にね、いわゆる、え、この世の中が どのようにあるか、いかにあるかが神秘な のではなくて、あるということ自体が神秘 なのだとね、いわゆる我々人間が生きてる 、自分が存在してる。もうそれ自体あると いうこと。存在自体が 神秘でありね、驚きの対象なんだとね。で 、科学が進歩すればいわゆる あの生命をね、試験官の中で作り出すこと ができるかもしれないけど、それは人間が 生命を作り出したんじゃなくて、これこう いう条件を整えば生命が誕生するという ようにこの世の中が できてますよっていうその生命が誕生する 条件を発見しただけであって、生命その ものは人間が作り出すんじゃなくて、この 宇宙事態というかね、もう条件が整えば おか生命が生まれるようになって るっていうことだからね。で、この、え、 生命、特に人間の生命ね、これはあのここ にね、絶対的な価値を置く。 つまり生命の尊重の原理っていうのが不遍 の内容であると。で、その生命のせ、え、 村重の原理から基本的人権の尊重という 考え方も基礎られるんだっていう。ま、 これが岩崎武夫の倫理学の内容になるんだ けどね。僕があの学生時代読んでね、わ すごい面白いなと同時に、あ、この運命愛 っていう生き方の原理すごい大切、大切だ なと。でもこれってなんか年物っぽいよね と。 で、その次の段階に努力っていう段階が あるんですね。ちょっと快楽、運命愛、 そして努力だ。で、努力の後に個性的な 生き方という原理っていうね、え、ことに なってるんだけど、その第3段階目の努力 ってこれ自力左だからこれ前収じゃない のって思ったわけ。だから2番目の運命が 年物、3番目の努力が前種でなおかつ 個性的な生き方その個性的な的な生き方の 内容としての生命の尊重を根本とすると いうところはあ、これって補鏡鏡じゃな いってね。あ、そう。意外とこれ岩崎竹夫 の言ってることと鹿の格減って意外と なんか関係づけることができるんじゃない かなっていうことをね学生時代にひらめい たまんまずっと ねぼんやり考えてたのを今回この岩崎竹夫 の倫理学これ自体素晴らしいです。これ この内容を 紹介すると同時にね、 その 岩崎竹夫の言う 快楽 運命愛努力個性的な生き方生命の尊重基本 的人権の尊重っていうこの各段階がね歯科 の格減プラス補鏡日連仏法ね、その5つの 段階に対応するんじゃないかというのが僕 が今日お話ししたいことですね。ま、そん 中で先ほど こちらの この時に 紹介しましたけど ね、この歯格元の意義という5章の世界 からの先生の言葉やね、さっき言った西山 シ茂教授のこの山神さんのこの最の前提 っていうね、え、あれとさらにその前書き に西山先生が書かれたこと、これなんかを 岩崎竹王夫のあれに絡めながら、え、今日 はざっとお話していきたいと思います。 じゃあまず最初にこの最歴史かっていう 言葉の意味ね。これを西山先生がこう言っ てるんですね。日連は消化な大臣自身を見 て立国論を書き年物等の多種を禁じて 速やかに実用の事前補ケに着せよと幕府 中スに迫った。以来日連は何に会うごとに 多種批判を深め最後にはそれをね無限 全天磨新聞暴国立国族で知られた歯格減に まとめたね。 で、日本国住が補ケに背いて年物等の多州 に系統してるので北後の初点全人が天井に 去り地上に賛難が到来したという日連の 再陰論と多批判とは表利一体のものだと ところがこの日連のサ院論はね、現代では 地震ってどうして起こるかって言ったら プレートのずれ込みによる近変動による ものだと 常識的に思われてるけれども、この現代の 本日の社会でもそのまま通用するものなの かいナかある時代時代のことをコンテキス トって言うんですけどテキストのを上を 行くものみたいな意味だな。ある時代ある コンテキストで最もだと思われていた宗教 的伝説。こちら宗教と原説は言葉ですから テキストですが、違うコンテキストのもで は社会の心憑構図を売ることができなく なるということはよくある話であるとそう した事態を避けるためにはその宗教原説を 新たなコンテキストの中に最歴しか蘇生さ せなければいけないとこれが我々の立場で 言ってね。ま、再歴史かていうかと言うとね、日連が生きた 13 世紀日本というテキスト歴史代があるじゃね。そっから一ぺ脱歴史化でね、その時代を抜いて連の変的なものっかなっていうのを抽出するわけですよ。 この作業は 13世紀日本から抜き出すわけだから 脱歴史化って言うんですね。 そして脱歴史化したその日連の不遍性、 日連の持ってる本質不遍性を 現代というコンテキストの中にもう1度 入れ戻してみる。そうするとどういう表現 になるのか ね。それを再び歴史の中に入れるから再 歴史家っていう名前で言ってるんですね。 で、まさに池田先生がやられたことは 鹿の格減の最歴ഖり ですね。その先生の再歴史家を受けて西山 先生とか 山上神高さんがさらに自分なりの最歴史化 をしたと。で、今日20歳がね、自分が 若い頃読んだ岩崎竹夫の倫理学 との関係性 でもう1度鹿の格減を位置づけてみようと いう、ま、20形の最を今日はしたいと 思ってるんですね。 で、まず最初池田先生は2003年5章の 世界でね、歯科格減は特定周波を攻撃した ものと捉えてはならないと。時代の変化を 無視してただ批判を繰り返し唱えてもかて 大将の心に背くことになりかれないと。 それではドグマになってしまうと述べてね 、池田先生はね、各時代において民衆の 幸福を覚めたげる思想や宗教を見破く知恵 を発揮していくことがね、鹿の格減の継承 になるんだとして、まずそれぞれの宗教の 特徴をね、4つにまとめました。 物は絶対者網田如来のねの力による救済を 特集 前は自力のみによる悟の獲得と悟の安重を 特集。3つ目信言は事術による火事等に よる原世役を解く宗教だ。4つ目。1周は 開立や規範による外からのコントロールを 解く宗教ね。この4つのね、宗教の累計と して捉え直してでそれぞれの累計の持つ この積極的意味って言い方してますけど、 良い面をこう言ってます。現物はどんなに 疲れむ主情をも解 の生命力で包み、絶対の安心感を与える。 そういう面が年物にはあると。2 自分の中に自分を変革する力があることを 信じ、それを実際に実感してるのが善だと 。 3え、信言。信号はね、現実の変革に勇気 を持って満進していける。4立はうちなる 知恵の力で煩悩を制御し、悪を召していく ことができるというようなねことを5章の 世界で先生がおっしゃったわけですね。 とにかく総加学会がね、一転して多批判 の最歴史化を打ち出した。つまりもうそこ は職物を放棄したんじゃないかっていう ようなねことで話題となったんです。で、 これに続いて西山先生がね2010年に 年間テーマを閣の最歴史と設定して、ま、 様々な講演会を行いました。そん中で小心 会の山神氏がね、多州が本質的な部分に おいて北進行とどのように違うのかという ことを最大公約数的に掴んでおくことが 重要ではないかと前置きした上で 今後中力すべきこととしてね1どんなに 苦しくてもしバを否定せずそこに弱度を 見出していくことが 、ま、補ケの良さなんですね。しかも年物 集しての補鏡の良さなんですよ。年物集 っていうのはシャワー世界はオンリーエ戸 ですから汚い世界で嫌うべき場所ですから ね。ね。それで財度 の王情を願うわけだけど、そういうしバを 否定しちゃダめなんだというのが補ケ鏡な んですよ。で、で、しバ速弱行でね、この 江戸にこそ弱行度があるんだってのが補欠 鏡でしょ。 2つ目、全批判としてはね、凡布の成仏に は仏の下子と物折への真が不可欠であると にこれね、前収っていうのはとにかく仏を 立てないんですよ。 競別かね。の物典っていうのは残って仏が 解いたものてあるけど本当の悟りはその外 にあるあってね別の形で伝わってきてん だって競技別年だから釈尊とか網田如来と かそういう仏を否定するんですね。 ほんでとにかく 自分の力で悟りを開くのが前収です。特に 前には相当集在 集ってありますけど、臨財集ではね、殺物 殺素って言ってその座然組んで瞑想して たら仏とか収素とかが現れると。でもそう いうのはまだから仏にあったら仏を殺せ ね。収素にあったら収素を殺せというよう なことを解いてるんです。とにかくそう いう意味で言うと仏の下子と仏の強 これを 不可欠とするのが補ケ鏡。そんなものは いらないんだとするのが前収なんですね。 前週が増場天磨と言われる理由はそこに あるんです。 で、次信言州の批判としてはね、信言州 っていうのは火事とかね、それによる原理 の進行なんですね。 ま、国に当てめると国家賃号 が、え、新言州の先売特許みたいになっ てるんだけどもね。そういう気当や 原セリア信仰を 教えの中心に据えているのが信言密教です ね。で、そういうものを中心に据えちゃ いけないって言ってんのが補ケ鏡になる わけですね。 で、さらに立としてはね、権力と結んだ高 的偽善者、つまり戦上マ にならないこと。 一種というのは、ま、極約官の師匠の人物がですね、奈良の最大寺っていう安倍晋三が殺された駅のそばに最大寺っていうね、総本山があってそこに行くと信号集は立んだけどその上に信号がつくんですね。 [音楽] だから極楽旅館の師匠が、ま、その最大児 を再建した時に信言州と立集をミックスし てね、作った周派がこの大人が立国族と 言ってる 信言立集なんですね。 で、ま、これ自体が、ま、1つの鹿減の、 ま、裏から見た最と言えると思うんだけど もね。 で、今日僕がお話したいのはこの岩崎武夫 の倫理学 の内容の内容自体は本当素晴らしいので1 つ覚えて欲しいのと それと歯減とちょっとま、ある意味 こじ付けでも結構根拠あるなって思ってる んですけど、え、その2つの話をしたいね 。で、この夜の倫理学の大前提はね、え、 このここにはまとまってるんですが、我々 は自覚の弁償法的展開が倫理学の取りべき 唯一の方法である。これ前に 心理っていうものはね、絶対確実な心理 っていうのは感覚的所用と言われている itseemstomeザのザット以下の 内容。私にはこう思われるっていうのは 本人が嘘ついてない限りは絶対なんだけど 、その中身が死んであるかどうかは 定かでないし死んでないことも多いわけ でしょね。という意味で言うと確実な非 心理感覚的所与から出発して貢献工程の 誤ちを犯す危険性をあえて犯かしながら1 つの仮説を立ててその仮説が実験してみて 予想した結果が現れたらこれをこの仮説を 芯と見なしましょうとね、 だけどその 実験仮説実験証明のやり方というのは今の ところ 違った結果は出てないから心理と認めて るっていうだけであるから絶対確実かって 言われたら確実とは言えないわけだけど も折が否定されない間は心理であると見 てくわけだから岩関の考えはそういう風 理論自体がね、 不確実な非森林から出発してね、仮説実験 証明によってだんだん工事の高いレベルの 不確実だけども心理と言えるものに到達し ていく。これが神と違う人間 のつまり認識の力に限界がある人間の取る べき唯一の方法であるっていうのが岩関の 考え、それは心理論存在論に適用される 存在判断にだけではなくていかにあるべき かっていうね価値判断ね。この価値判断に ついても、つまり倫理学についても同じ 方法が取れるというのが岩崎の 考え方です。で、道徳原理は決して触角に よって確証されるもの。直感的にこれは すごいとかいう形でのこれが正しい毒原理 だっていうのは直角では到達できないん です。なぜなら絶対的な心理を人間は認識 できないんで、最初っから絶対確実な心理 としての道徳原理を人間が 発見することはできない。また人間の本質 とか歴史の同向といったようなものについ て存在判断から導き出せる ものでもない。これ岩崎が繰り返し言っ てることで関東も言って町岸先生も言って たと思うけども、え、存在判断何々である というね、判断から何々であるべきだと いう判断は導き出せないということが 言えるんですね。だから例えば歴史の同向 、例えばマルクスの資本論は歴史は だんだんだんだん社会主義進んで最終的に は共産主義の社会が訪れるんだ。こういう 歴史の同行のベクトルがあるんだという ことを言った。だから歴史が共産社会に 進むのであれば我々はその共産社会を 目指す生き方をすべきじゃないかみたいな ね。そういう歴史の同向がこっち方向向い てるから人間はそっち方向行くべきだと いうようなのは歴史という1つの存在に ついての判断から人間がどう生きるべきか をそういう価値判断を存在判断から導き出 すっていう間違いを犯してるわけですよ。 じゃあどうすればいいかと言うとね、滑舌 実験証明なんですよ。我々は道徳原理を 仮説として考え、それを人間の本性に 投げ入れてみることによってその頭を吟味 する。そういう仕方によってより工人の 道徳原理へと進んでいく他はないと人間の 認識が有限的なものである以上な方法こそ 人間にとっての唯一のものなのではない だろうかっていう。このね、人間の本性 投入れてみるっていうのは次に具体的な例 が出てくるので、それで分かりやすいと 思いますね。まず個人的方の原理 の中の第1段階として快楽快楽には瞬間的 快楽と永続的快楽って2つが分けられて ますね。我々が快楽の追求という原理に 従って行為する時、その快楽とはまず瞬間 的な快楽である。しかし瞬間的快楽を追求 する時確かにその場では快楽を売ることが できるあろうがそれは帰って後に不快を もたらす 場合があると例えば飲酒我々が酒を飲み たいという欲望に酒を飲むとするその時 我々は確かに快楽を感じるであろうしかし 我々が瞬間的快楽を追い続けて飲みすぎ たらどうだろうか。その結果は悪酔いや2 日酔いであり、我々は快楽どころか不快を 味わなければならない。さらに我々がこの ようなことを旅重ねていけば、あるいは 健康を損い酒を飲むことさえできなくなる かもしれないとね。じゃあ仏法的にね解釈 するとこの快楽の追求という原理はね、 原世役 と言い換えられると思うんですね。で、 池田先生は事術による、え、減世役を解く 宗教が信言主であると述べてますのでね、 いわゆる瞬間的快楽の追求はまさに信言 集的だから信言瞬間的快楽追求っていうね 、歯科格下確になると思いますね。 で、先生は積極的意味についてもね、述べ てるけど、これ後で述べます。じゃあ、 今度は永続的快楽。我々はもはや瞬間的 快楽を追求するのではなく、いかなる瞬間 にも不快を感じないよう永続的快楽を追求 すべきなのであるっていう次の原理が出て きますよね。で、瞬間的解楽っていうのは 主として肉体的解ね。ま、それに対して 永続的快楽っていうのは精神的要素が 加わった快楽と言ってもいいんですけども 、とにかく一時的なものではなく永続的 性格を持つ快楽例えば禁種 我々がもしも酒を飲みすぎて悪いをすると いう経験を何度か繰り返すならば次第に 適量の酒を飲むというそういう保とうと するようになるわけだね。もしくは酒を 飲まないこと、これ仏法では不穏樹海って 言って先を飲まないことは大腸の菩薩が 保つべき5つの開立の1つの中に入って ます。不穏樹会議ね。で、一般的に言って その時、その時の本能的な欲望や劇場に 任せて行為するのではなく、将来を考えて 計画的に慎重な行為をするということは 良識ある人間が誰でも多少とも行ってる ことであるが、一時の欲望に溺れて瞬間 的楽を追求するよりは将来を見通して永続 的楽を追求する方がはるかに 整合的な態度であり、それこ帰って真に 瞬間瞬間の解楽を確保する道でもあるとね 。しかし例え永続的快楽であっても我々が 快楽を積極的に追求していく限り我々は 確実に快楽を売るという保証はなくいつか その快楽は消去っていかなければならない ね。瞬間的解楽の追求が全であるという 原理は永続的快楽の追求が全であるという 原理へと移りさらにその新しい原理もまた 限界を暴露することによって崩壊するとね 。このような行為の原理の展開はこれら 原理をね人間の本性に投入れてみることに よって行われるものであったとね。この 本質状況に投れて吟味を行うことによって 行為の原理の展開は全ての人間にとって 客観的な意味を用うると考える。で、それ ではこの快楽の追求の原理はいかなる人間 の本質的状況に投げることによって吟味さ れたのであろうか。私はこれをね、経験 世界の偶然性と 呼ぶっていうわけね。これ仏法で言うとね 、所業無上ね、もう世の中もう耐えず変化 し動いて 何1つとして永続的なものはないわけ でしょ。この所業無常の世界生きてくと シックハックですよ。少老病子プラス愛別 陸愛する人と別れなきゃいけない苦しみ 温像エクねえ。大嫌だね。人と会わなきゃ いけない苦しみ。ルフトック求めるのに得 られない苦しみ合音合人っていうのは主術 創業式のま簡単式心 と肉体そこに煩悩がえ盛になって苦しむっ ていうねこういうね経験的世界の偶然性と いう人間の音声があるわけですよ。人間の 置かれている本質的状況がね。 ほんで、先ほど言ったように事術による 原理薬を解く、解楽を解くのが信言集と すればそこにね、や規範によるセルフ コントロールをプラスしたのが信言立集な んですよ。それがつまり極楽官であり、 その師匠の 何て言ったっけな。ど忘りした。 で、木田先生は、え、立の持つ積極的意味 を 、ま、立にもいい面があるんだよ。その いい面がうなる知恵の力で煩悩を制御し、 悪を召していくことができるところという 風に評価しております。で、次に今度は 運命 ね。 の追求を全であると考える行為の原理は その限界にぶつかって崩れ去らなければ ならなかった。瞬間的解楽を追求しても 永続的解楽を追求しても積極的に解楽を 追求しようとする限り我々はその求める ところを実現することができずグフトック だよね。 え、快楽を売る道ではないことになるわけ です。 だからむしろ我々はね、快楽の追求をやめ なきゃいけないと。そして現在あるもので 満足し、そこに快楽を見出さなければなら ないね。積極的に快楽を追求してくという 態度を捨てて一歩知り添いて現在の自分の 置かれてる状況に満足する。そこに心の 平安を見い出すというのが、ま、運命愛と いう新しい原理なんですね。 我々が現在置かれてる状態、我々が直面 する状態は我々にとって運命的な意味を 持っている。例えば我々がある特定の両親 の子として生まれること、また我々がある 特定の社会、例えば20世紀、21世紀の 日本に生まれたということも我々にとって の運営ね。どんな親の元に生まれるか自分 が選んだわけじゃないけどそういう親の元 に生まれるっていうのはもう運命じゃない 。仏法でいう宿命と言ってもいいけどね。 で20世紀の日本に僕らが生まれたって いうのも我々にとっての運命でしょね。 我々はこのように受けた初めからこのよう に運命を担い、運命の中で生きていく。 ゆえに現在事故の置かれてる状態に満足 するってことは運命を肯定するってことで あり運命愛と消することができる。快楽 追求の原理は運命愛の原理に移ると。で、 運命を肯定するというのは一見極めて消極 的な生き方のように思われるかもしれない 。しかし実はこのような心構えは我々が 生きてく 上で最も必要なことではなかろうかって いうね。 過去はもはや決して変えることがない。 そして変えることができない。そして現在 がその過去によって生じた以上我々はこの 現在に満足する方はないのであ るっていうことでね。まずね、1つ目とし てね、木晴らしによる暴却って、これ すごい僕面白いなと思ってね、木晴らし なんていうのはちょっと生き方として まずいんじゃないのって思ってたけど 木晴らしによって不幸を忘れ るっていうのは すごい人間にとっての重要な力である とこ崎は言うし、あ、そうなんだなんて僕 も非常に納得したんですけどね。 我々は常に道りた状態にあるわけではない と。むしろ思い通り進むことは少ないとね 。従って我々は大かれ少なかれ不満足な 教遇でありそれに耐えてきていると そういう事故の置かれてる状況に安重し 運命を肯定していく場合多くの人は真に解 のないところにも解を見出すというような そんな高い立場に立っているのではない。 しかし多くの場合そのような不幸という 意識を自覚的に持ってるわけではなくただ その教害に慣れて生きていくのである。 ここに人間の悲しくもまた強い性格は 見い出されるとね。そしてこのことを 可能しめるのはおそらく木晴らしによる 不幸の暴却っていうことであろうとね。ず 木晴らしすることによっていかなる不幸も 時が立つに従っていつか意識の底に消え 暴却の縁に沈んでしまうとね愛する人々と の示別というような苦しみをやがては 忘れ去られる 現在我々の直面してる不幸でさえ我々は 木晴らしによって忘れることができる 暴却とは人間の心の持つ極めて匠な仕組み であろうと人間は暴却という心の正妙な 動きによって働きによって、え、本来運命 に絶うる力を与えられているのであるね。 で、このような立場も決して無意義という ことはできない。それはただ単に事故の 不幸を嘆く立場よりも優れたものであると 言うべきであろうとね。1番良くないのは もう過去にこだわって忘れられず自分の 不幸を投じってばっかりいる生き方みたい なのが 最悪なんだよね。それに比べれば一時的に 忘れられるだけかもしんないけど木晴らし による暴却っていうのは まそれよりは優れた生き方の原理という ことになるだろうっていうわけね。で、 さらにその次の段階として運命に対する 定念、もう諦めるってことね。目の前の 快楽によって不幸を忘れようとする態度は 決して根本的な現在への安重ではない。目 の前の一時的な快楽。すなわち着はすぐ去 と共に我々はまた不幸な教害を嘆く惨目な 立場に逆戻りしてしまわねばならない。 それえ、真に現在に安住するためには我々 は単に不幸を暴却するのではなく現在から 目を背けずそれを直視 しつつそれに耐えていく心を持つことが 要求されるとね。それは事故に振りかかる 全ての状況を運命と感じてその運命従順に 生きることである。もうなすがまま 消せら 運命に対して定感の態度を取るということ だとね。で、運命を肯定し得ず現在に不満 を持つならばそこには単なる自望時期的な 学キがあるのみであると運命の定年という ことこそ道徳行為の整理するための最小限 の条件であるといえよ。ま、確かにこうね 、運命を肯定する、諦める ね、重要なことだよね。 意外と信人しててもこの自分の持った祝合 とか自分の不とか そういう ものをきっぱり諦める ことはできずにうじうじうじうじこだわっ て 自望軸的な上がきを する人も まいますよね。 やっぱりね、そういう意味じゃね、諦め なきゃダメなんですよ。年物って重要なん ですよ。諦めること。もうこの世の中は 江戸である。ここではもう いくら修行しようと思ってもダメだから。 もう オンリーエ戸ゴング上土10万億度にいい 環境の場所があるって言うからそこへ 生まれ変わってね。そこで修行して成仏 しようという そういう ある意味 木晴らしでしょ。 再放10万億度に 極楽譲渡があるって言われたって言って 帰ってきた人いないんだしね。でも単なる 木晴らしかもしんない。また自分が こんなひどい時代、こんなひどい世の中に 生まれてきたことに対して、 ま、諦めきれない人が上くわけだからね。 意外と諦めることっていうのは重要ね。で 、運命への定念ということこそ、道徳原理 の成立するための最小の条件であるといた んですが、 ところで考えてみたら一体運命とは何 だろうかとね。運命は1度襲いかかったら 最後ね、どうすることもできない。我々は 運命に反抗することは無意味なのであり、 与えられた運命を肯定する以外にはないの であると。だが運命とはまた同時に我々の 手で作り出していく そういう側面を持ったものなのではない だろうかと。我々は自らの行為を決断する 自由を持ち、耐えずこの自由による決断を 行っていかなければならない。我々の行為 は本質的にこの自由による決断によって 行われるのである。そうだとすれば、我々 に現在与えられてる運命は我々自身の行為 によって消絶しめられたものであり、我々 の将来の運命もまた我々自らが作り出して いくものであるという。 そういう意味を持つと言わねばならない。 だから運命とは我々の行為から離れて外部 から与えられるものではなく我々の行為と 一体になっており行為によって消しめ られるという側面を持っているとね。 それいえ我々が運命を肯定するということ は単に与えられた運命を感受し自ら何も 積極的に行動しないということじゃない。 もし我々が積極的に行動しないとしても、 そのような態度そのものがやはり我々自ら が決断によって行っていると言わなければ ならないね。 ですから 我々が一切を運命と感じてもう全く受動的 消極的に運命に従って生きようとするなら ば例えて言えば自分の顔に今日死ぬという 層が現れてるからと言って自殺してしまう 人層身のようなものではないだろうかとね 。我々はこの人層身は運命によって死んだ のではなくその人の自由な決断によって 死んだのだというだろうと。真に運命に 従うということは決して単に諦めた消極的 な言い方をするということではない。 むしろ我々はどこまでも与えられた運命に 反抗していかなければならない。積極的に 運命に立ち向かっていかなければならない 。そしてこのような積極的生き方の結果、 我々に与えられる運命こそ真の運命なので あるね。で、このような生き方を普通人事 を尽くして天名を増すっていうね。人事を 尽くさずただ天名を増すことは決して 運命愛ということはできない。信事を 尽くすできることをやり尽くすことによっ てのみ我々は与えられる運命を真に肯定し うるのであると運命愛ということがこの ように我々の積極的な生き方を要求する ものであるとするならば我々はここに行為 の原理として単なる運命を全とする段階を 超えていくことに気づくであろうっていう んだよね。 運命愛という行為の原理はあらゆる状況の うちに会を見い出し一切を運命として肯定 する生き方が全であるというものであった 。このような行為の原理が快楽を追求する ことが善であると考える立場より工事の ものであることは言うまでもない。しかし とにかく我々は運命を愛しつつ、運命を 切り開くための努力をしなければならない のである。運命愛の段階はこうして努力 という段階へ移らねばならない。運命愛に 徹することは変って努力するという積極的 な言い方に転加するのであるとね。で、 この運命愛から努力っていう原理への転下 も人間の本質的状況への実験的なによって 行われるの。で、この場合の人間の本質的 状況っていうのは自由っていうことだとね 。もし人間に行為を自ら選択しる自由が 損しないならば人間はただ従順に運命に 安住するほないであろうと。そしてこの 運命によって我々の道徳原理の展開は 終わってしまう。問題は我々が自由を持ち この自由によって行為を選ばねばならない というところに損するのは我々が事故の 行為を常に自ら選ばなければならないが 故えに単に消極的に運命に従おうとする 態度は自己矛盾を含んでくそして運命を 愛するということは帰って運命絵を 切り開こうとする努力を要求して くるって言うんだよね。で、ここで人間の 本制、人間の置かれた本質的状況の2番目 として、人間の自由、人間の意思の自由。 これはあの実存主義のサルトルは人間は 自由の刑に処せられているっていうね、 全ての人が自由の刑に処せられてるんだと 。で、これを仏法で考えたらどうなる かっていうとね、仏法でこの人間の自由、 意思の自由を1年で名付けてんです。で、 この1年に死万笑3000世界がその悪と 特とで、この運命を仏法的に捉え直せばね 、池田先生の言う絶対者の他力による救済 を解く宗教、すなわち年物集に該当するの ではないかというのが私なりの、え、 再力史家ですね。で、年物と聞くとね、 年物の愛音とか諦めとかオンリーエ戸 ゴング上土という言葉が浮かみますが、 考えてみるとこうした特徴を持つ年物種は もう木晴らしによる不幸の暴却そのもので はないかと思います。なんと言っても最後 10万億にあるとされるゴング道場ね、 上土なんてあるかないか分からない。 単なる核晴らし かもしれないね。でもこんな木晴らしに よる不幸の暴却であってもただ単に事故の 不幸を嘆く立場よりは優れたものと言う べきだと。で、運命への定官というのも 年物の特徴そのものね。これ全てはぬと いう外部の絶対者の召飯しなんですね。 ね、運命とは我々の行為から離れて外部 から与えられてるものとするのが年物中な んですよ。ま、そこが補ケ教と 年物種網田教とかとの大きな違ね。全て これはあの人格心を立てる宗教みんなそう なります。キリスト教でもイスラム教でも ユダヤ教でもね。だからイスラ無教の新徒 は交通事故を起こしたとしてもね、絶対に 謝らないっていうわけ。なんでかってアラ アラーって言って全てがアラーの おぼし飯しだからこういう事故が起きたの も運命であり神のおし飯しだから私に罪は ないみたいなね。そういう理屈が成り立つ のがま、人格心 アミダルラも含めてね。という外部の絶対 者を立ててその 絶対者の示飯が運命なんだというような 運命への定感 だとそういう風になっていくわけですね。 実際には運命は我々の行為と一体になって おり為によって消しめられる面があるにも 関わらずね。 ま、そういった面は年物ではほかず高年は 他力き本願 診断はそれをさらに進めて絶対と解いた わけですね。だからそういう意味ではね、 ま、法年の段階を日しによる暴却 信乱を運命の定官による絶対的 安心絶対的安心 立目安心立目という風にちょっと2段階に 分けてもいいかもしんないね。 は極倉工場という希望木晴先週年物ただ ひたすら生み太物で唱えるとこの防ガの 境地による不幸の暴却を解いたと言えるん じゃないのかと。これに対して診断はねの 先週年物ってまだ年物を唱えるっていう 自力の面が残ってるので 絶対とは言えない。不徹底だって言ってね 。王女の王助するために年物を唱える必要 はないんだと。ただ天如内の本願を絶対と 信じる絶対の信仰によってその瞬間ですよ ね。死護王助するんじゃなくて今生きてる この瞬間にすでに人生の目的が完成され てるんだよね。 事故に振りかかる全ての状況をあ田如来の おししめしすなわち運命と感じてその運命 に従順に生きることによってられる人流名 運命への定官を解いたのが診断ではないか とね。池田先生は年物集の持つ積極的意味 を表してね、どんなに疲れ病む主情も物会 の生命力で包み、絶対の安心感を与える ところ。ま、ある意味そういう面が年物中 にはあるわけです。 それで次がですね、今時間が何分? よし。はい。今度は努力っていうね、この 段階運命愛という行為の原理は今や努力 っていう原理へ移らなければいけないって 言ったでしょ。努力なき運命愛は一死の対 でだ。人事を尽くしてこそ我々は天名を 待ちるのであるとね。で、このような努力 をしてこそ真の運命合が成り立つね。で、 仏法ではこの努力をね、自力左と呼んで いるわけです。池田先生はこの自力のみに よる悟の獲得と悟への安重を得宗教を前収 ってね、日連プッ符は自力のみじゃないん だよね。 自力ア力なんですよ。た力っていうのは 日本像。自力っていうのは自身の正 ね。つまり物理法力を新力と行力という 我々の力で引き出そうという 自力と力の両面が大主の仏法にはあるん ですけどね。前週は自力のみですね。逆に 言うと年物集は力のみ。他力本願ね。前週 は自力サゼルね。 ほんで努力っていうのはまずは仕事に 対する努力という風になるだろうと。そこ には仕事の完成にこだわる立場からもう 仕事が完成するしないは抜きにしてね。 ただひたすら努力するっていうね。 前で言えばただひたすら座然を組むのが 悲観ですけど、ま、ある意味ただ必殺努力 するっていう歯の努力の立場。 ま、そういう風に考えることができると 思うんですけどね。で、仕事っていうのは ね、何も本当のお金を稼ぐ仕事とか職業に 結びつく必要はないんだと。なんであれ、 自分の運命を切り開こうとすること、それ がすなわち努力でありね。その努力のがる 対象は何であっても差しつかないとね。 例えば病気を直そうというね、病気の人は ね、仕事はしてないけども病気を直すと いう仕事をしてるわけですね。 我々は仕事の完成ということに重きを置く べきではない。我々はただ努力すべきなの じゃ。仕事が完成するかどうかはこれを 運命に委ねる他はない。そしていかなる 運命に出会おうともその運命を肯定し なければならないね。で、ここで我々は常 に知理直面してるっていう事実に 留意しなきゃいけないと。ま、これが人間 の置かれている本質的状況の3番目になっ てくわけですけどね。うん。もし死という ものが我々を襲わないとするならば、 あるいは人間の寿命が生まれた時から あかじめ分かっているとするならば、一瞬 一瞬の努力を必要としないかもしれない。 しかし我々はいつしかが襲うかもしれない 。このことを真剣に自覚する時努力が いかに重要であるかを退得するであろうと 。我々は人生が吐いものであることを知れ ば知るほど事故の生き方に対する責任を 痛感し、一瞬一瞬の努力の意義を自覚する であろうと。もしも我々が仕事の完成と いうことに囚われるならばそれはまだ真に 努力という立場にしたものとは言えないね 。 いかなる挫折にぶつかろうとも対ず努力を することこそ真の努力と言うべきだと。 しかしそれにしても我々は仕事の挫折に よって大きな絶望感を感じる。我々は仕事 の正費を度返ししてただ努力すること。 そのことに意義を見い出さなければなら ない。このような生き方こそ真に運命愛に 徹するものであると言うべきであろう。 しかし我々が仕事に対する努力の立場を 超えて仕事の正を問題とせずただ努力する ことそのことのうちに意義を生みい出す ようになる時そこには努力の内容について も明確なそう意が生じてくるのである ままいかすなわち我々は何かを目指して 努力するがその目指すものがそれ自身に おいて意義を持つものでなければならない ね。それではこのような目指して努力する そのことじそれ自体が意義を持つような 努力って一体どんな内容になるんだろうか とね。仕事の正と結びつく努力は仕事が 失敗すれば無駄であった。そうではなく その努力そのものがいやば瞬間瞬間に完潔 的意味を持つものでばな。言い換ればその 人がその努力によって悔いのない生き方を したという意識を持ちえなければならない ね。 亡くなる時にさ、後悔するんじゃなくて、 あ、良かったともう本当悔いなき人生遅れ たって思えたら勝ちじゃないですかね。 ここに要求されるのは自分のせを生き抜く ということであろう。自分のせにとって 生きがいのある生き方への努欲ということ であろう。それは言い換えるとね、自分の 個性的な生き方への努力でなければなら ない。自分が聖を受けた以上、自分の 成しうることをするという努力こそ我々に とってはその努力の結果を問わず常に肯定 しうるものではないだろうかっていうこと でね、ハイデガーっていう人がね、市恵の 戦区による平均的な人としての生き方から の脱出っていうね、こういうこと言って ます。市の選挙によって人間は平均的な人 としての生き方を出して本来的な生き方を するようになるとハイデガは解いたと。 我々は日常心理自身を自覚せず個性のない 平均的な人間として行動している。人が そうするから自分もそうする。人がそう 考えるから自分もそう考えるとね。これが 人としての。しかし我々が死を自覚して死 へ潜伏し、死を覚悟する時、我々は初めて 事故に目覚めるね。我々は瞬間瞬間の事故 の生き方に責任を感じなければいけない。 このような生き方こそハイデガのいう本来 的な生き方ね。我々は事故の聖の重みを 通感する。そして事故の聖に生ける印を 刻もうとする。個性的な生き方をしようと 努力するのであるとねえ。このようにね、 個性的な生き方を真剣に追求する時、我々 はいつ死が襲ってきても自らの努力に満足 することができるあろうと、 え、死に望んで自らの障害を肯定すること ができる。真の運命愛はこの段階において 初めて実現されると言わなければならない ちゃうんだね。で、これをね、仏法で 捉え直してみるとね、この努力というのを 仏法では自力作と呼びます。年物の他力本 に対する反対語です。また仏法ではね、 仕事に対する努力の立場を超えて仕事の 製品を問題とせず、ただ努力することの うちに意義を見い出すようになること。 すなわち努力そのものがいわ 意味を持つものとなることを前種特に総度 え、同原の開いた周波ですけどね曰 思考他た座 ねただひたすら 座るっていうんだよね。は悟りを開くこと や何かを達成することが目的ではなく座を することそのものが目的であり座をする姿 が仏の姿であると解いたね。このただ努力 することのうちに意義を見出す立場は悲観 に習って思考努力とも消せられようとね。 池田先生は全の持つ積極的な意味について 自分の中に自分を変革する力があることを 信じそれを実際に実感してるところと述べ ていますね。で、この年物同然上土門と 小動門、ま、それプラス大象の立場をず するとこんな感じになりますね。 小土門っていうのは自力殺せ上土門って いうのは他力本願でこれに対して略行修行 をやって仏になるという資格仏教とね促進 成仏この瞬間に成仏上できるっていう本学 仏教に立て分けると小動門の資格仏教が 天台上土門の資格仏教略行が法 ね小動門の本学部教が 同ね、上土の本学仏教促進を解くのが信託 。じゃあ日連大衆年どうかというとね、 その自力左面と、他力本願的面と2つある わけです。なぜなら忍法以下だからね。 日本の大承人という人をただ信じ。これ 年物的ですよね。で、難名方法連教と唱え るっていう商材はこれは法年的商明だから ね。この両面があるわけですね。 ま、こういう話を前にしたと思うでもう 1度あります。で、今度は仕事に対する 努力はね、ま、確かに優れた意味を持つ ものであるが完成が保証されるわけじゃ ないとね。人間はいつ死ぬかわからない。 で、そのことを自覚すると我々は仕事の 完成ではなく、努力そのものに意義を 見い出していかねばいけないと。その時 努力の目立すものは自らの聖の生きがいで あり個性的な生き方であると単に人として 生きるのではなく真に本来的な事項を自覚 する生き方でなけれないでそれを個性的な 生き方 って岩崎竹を呼んでんだけどねこの個性的 な生き方たはどういうものであろうかって ことでねここ非常に重要なんですけど個性 と独自性は違うってこのことね勘違いし ちゃダめなんだな、 原田学会は協議変更した時にこれで、え、 総加学会の宗教的独自性が明らかになった とか言ってんだけどね。 あんた独自性を目指してたんかいっていう 話なわけよね。日連証集大積はこんなこと 言ってる。ミノはこんなこと言ってる。だ からこの両方のどっちも行ってないここを 行けばそこの 独自性が 現れるんじゃないっていうようなことを 考えたのが宮なんですよ。それが宮のあの いわゆる ん え日連少集体積は三重というね日本像を 立てるミノ部は えの仏像とかああいう日本像を立てるね。 そういう も仏像本存も立てないで、ただマンダのみ を本存として青いるのは総加学会だけだっ て宮は言ってるわけ ね。 だから総加学会はね、えー、日本を排除し て法本存のみにしたところに独自性がある んだって言ってんだけど 宮のずるいところはね、その日本という 言葉で持ってマンダラの相明の中に示され た主代の難名法連劇教日連という難名法連 劇主代難には法本存でこの日記連が任本で あるっていうこのマンダラの中の忍法一下 論も否定しようとしたところに宮の大きな 間違いがあるんですけどね。 ま、そのね、もし我々が個性的な生き方と は何かっていうことで他人と異なった生き 方をすることであろうと考えるならばそこ に大きな誤りがあるね。個性ということと 独自性ということは決して正しに同じでは ないと。で、個性という言葉には2つの 意味があると理論的な立場で対象の持つ 独自性について言う場合の個性存在犯罪と しての個性だね。もう1つが価値的な意味 を持たせて人間は精神的な作品などについ て言う場合の個性。これは価値判断として の個性だよね。ね、個性という言葉を価値 的な意味を含めて返するならば、個性とは 決して単なる独自性ではない。他人のと 異なった変わった生き方をしたからと言っ てそれが必ずしも個性的な生き方であると 言われるものではない。個性とは単なる 独自性以上の何かを持つものでなければ ならない。それではこの独自性以上のもの とは何なのかっていうことでね。これは、 え、自分が正しいと信じる生き方をする ことであってね、決して他人と異なる独自 の生き方をするということではないんだと 。自分が正しいと信じる生き方っていうの は普遍的に正しいとね、言える生き方、 不遍性というね、景気を含んでるのが個性 なんですね。 個性的な生き方とは決して単に独自な生き 方ではなく不遍性という景気を含まなけれ ばならない。他人と異なる独自な生き方を しようとすることはただ、え、聞境さを 狙う低続な生き方であって、決して個性的 な生き方言うべきものではないね。我々は そのような生き方をする人を個性的な人と して賞賛はしない。個性的な生方とは むしろ反対に我々が単に独自性を目指すの ではなく普遍性を目指すところに成立する のである。普遍的な生方を求め努力して いくところに初めて真に個性的と言われる 方が可能になるんだとね。 に個性を持ってる人間の生き方のうちで 不遍性を求めて努力する生き方が価値的な 意味において個性的な生き方とられるとね 。不遍性を求める生き方こそ価値高い個性 的な生き方であるから道徳的な意味で偉人 と消せられる人々は全て普遍的な生き方を 求めた人であったと。しかもそれらの人々 こそまさに最も個性的な生き方をした人で もあった。このことは我々が社会やイエス の障害を考えただけでも十分納得できるで あろうって言うんだよね。 で、こうして仕事に対する努力の立場は 今度は個性的な生き方に対する努力の立場 へと進まなきゃいけない。で、個性的な 生き方とは不縁的な生き方にないわけで あると。で、このような展開もまた1つの 実験的な下げ下入りであったと言うべきだ と。この場合の人間の本性、本質的状況は 死あるいは死を自覚することと言うべきで あるとね。 で、え、我々は常に死に直面してる。 しかも単に死に直面してるのみではなく、 このことを自ら知りうるのであると。人間 のみ自らこのことを自覚しる。この自覚に よって我々は事故の生きを見い出そうと 努力する。 そこに個性的な生き方を求めるとね。 では それでは普遍的な生き方とは何であろうか とね。 しかしこの問題は今まで述べてきた今まで 述べてきたのは個人としての生き方の原理 だからね。 え、普遍的な生き方という問題の個質は もはや個人的な生き方の態度に対するもの ではなく、道徳の内容に関係する。どう いう内容の道徳を考えるべきなのか、どう いうことを全と考えるべきなのかという 問題に進まなければいけないっていうこと でね、不遍性の内容に進んでいくわけです けども、 ここでちょっと今まで述べたことを仏法的 に解釈し直してみると、 仏法的には 努力とは自力左のことです。池田先生は 自力のみによる悟りの獲得と悟への暗示を 解く宗教が前収と言ってますね。で、池田 先生は前収の持ついい面積極的な意味を 自分の中に自分を変革する力があることを 信じ、それを実際に実感してるところに あると述べてます。で、前週には歯カ座を 解く相当集ね、殺物殺を解く臨財集。 こっちはA で相当集の歯観座っていうのは、ま、 さっき言っただひたすら努力するという 悲観努力ね。これに対してね、臨財集って どう一時続けようかと思ったんだけど さっきも 山神さんも言ってたけどね、臨財集っての は教系別電でしょ。で、不字、強点の文字 なんかを 重視しないんですよ。ほんで強点っていう のは月を刺す指で、大切な月自体で月を 刺す指である強点とか仏っていうのは必要 ないんだみたいな。で、さらには殺物殺 まで飛ぶんですね。で、これは主観的に 自分で良いと考える生き方すればそれで 十分なのだとする生き方。つまりさっきの 言葉で言えば独自性 個性と独自性は違うとその個性ということ ができない他人と違うことをやりゃいいん じゃないのという 独自性を目指す 宗教 が臨財集って言えるんじゃないかなと なんか面白いことに山神さんが言ってた けど 全って言うとね、ま、臨財集ともう1つ 総州同源が有名なんだけど 大商人が否定した前収っていうのは、ま、 臨財集系流 という中国から あ、ある意味輸入してきたで鎌倉の立な、 寺の住職に据えた。そういう中国人 のもたらした中国的な全種ま、臨財集も 中国からもたらしたもんなんだけどね。も 中国から地中国なんだけど どっちかっていうとね同原について大人と ほぼ同時代行きたんですが同源の前収と いう存在を大人が知らなかったのか知って て批判しなかったのか分かりませんけど 同剣の相当州の方はね大人の全天の中には 入ってないんですね。それよりも臨財集系 導 素言だけ 鎌倉幕府が中国の層から招いた 前の暴産ってのは何人もいますよね。そう いったところを破釈してる面があるんです ね。 ほんで成仏を目指す上において自分に物将 があることを信じることが重要なことです が同時に物資たる自覚つまり仏の下子と 物質の純種すなわち仏への絶対的な真が 不可欠ですとなのに前収はね仏の存在を 無視して単なる自己絶対主義自己本物と 唱えるのが強気別不流門ジ 等の前収の考え方になってくんで、ま、 本当に意味での個性を目指すんじゃなくっ て独自性を目指すような木を狙った生き方 みたいなのが、ま、大初人が否定してる 前収と言えるんじゃないかなとね。山上市 は前週には下脱はあくまでも己れがする ものといういわば自己肯定を強調する選の 教授を無視し許されざる飛躍を仕かねない という本質的な血管があると述べており ますがいいとこついてると思います。特に 臨財集には個性と独自性を吐き違え独自性 の追求に走る師匠より自分が植え強別 不流門寺殺物殺素の上場になります。と いうことで年物前信言率という支と岩崎 竹教の倫理学の生き方の原理の対象関係を まとめてみました。 まず最初瞬間的快楽の追求。これ新聞言 原だから。で、原理プラス によるセルフコントロール。それによって 瞬間的楽じゃなくて、え、永続的楽を追求 しようというのがこれ信言立。 そこから第3番目、運命。も運命って まさに年物種ね。で、特に毛による不幸の 暴却。これは本年なんじゃない。で、運命 への定官による安心。これが診断と言える と思います。さらに努力はこれ前収 で相当集っていうのはただひたすら努力 するっていうこっちの面が強いのに 臨財集の方はね独自性を目指す非構成的な 生き方とちょっと名付けときましたけど そういう面があるとじゃあ不遍性を目指す 本当の意味での個性的な生き方は何って いうかというと日連仏法補鏡 がそれになるんじゃないのかというね、 こういうね、 刺繍っていうか鹿の格減のちょっと最歯化 を 岩崎武夫の倫理学 に書かれている生き方の原理 ねに照らし合わせてこういう風な再歴史化 ができるんじゃないかっていうのが今日の 僕の主張です。ね。で、仏法から見た刺繍 の特徴を再度まとめておきたいと思います 。 池田先生はね、歯科の格減は廃た主義でも 非関与でもなく、その本質は大象人の妙法 の知恵に照らされた理性的な宗教批判で あると述べ、その支は偏った宗教の4つの 累計を示しているね。ま、あくまで偏って いるという前提なんですけどね。 ま、偏りながら部分的な心理は解いている というような再解釈を下田先生はされてい ます。1つ目物は絶対者の力による救済を 解く宗教。 善は自力のみによる悟りの獲得と悟の安重 を特教。信言は事術による火事等による 原理役を特集。ね。で、立は開立や規範に よる外からのコントロールを特集という風 にね。で、先生はこの支州への批判によっ てね、 大償人の考えられている円満な宗教、遠 が浮き彫りにされてくると述べてね、遠と はこの4つのいずれにもることなく、自力 と力の一致を解き、その力に基づく人間 変革と現実変革を特教と言と結論されて あるとこの 先生が言うこそがね、北鏡教を最上の協点 とする本来の天才集でありは1年代償の 仏法と言えると思います。で、岩崎竹吉の 倫理学で言えば、個人的生き方の原理とし ての個性的な生き方プラス普遍的な行為の 原理としての人間のせの尊重 イコール補ケ教日連仏法と言えると思い ます。だから大社の仏法は個人的な生き方 としては個性的な生き方を目指すね。個性 的な生き方っていうのは普遍的な生き方を 目指してるわけで、その不遍性の内容と いうのが人間のせの尊重、生命の尊重、 基本的人権の尊重になるんだってことなん ですよね。独自な生き方ではなく、個性的 な生き方を追求するのが補鏡教日連仏法 です。また普遍的な行為の原理として人間 の生徒基本的人権を尊重するのが北撃鏡で あり日連仏法ですね。で、山神高はその 日連仏法 の良さというかを 4つの主を退避させながらね、こう述べて います。もう1度確認しておきます。 どんなに苦しくてもしバ世界を否定せず そこに弱度を見出していくのが年物批判を する日連仏法の立場です。2つ目、凡布の 成仏には仏の下子と物折への真が不可欠で あると認識すること。これはとにかく 不事 その仏というものを尊重しない全 を批判 する日連仏法の立場がこの仏の下種と物折 への真 ね。これを不可欠とするのが日連物 で3番目信言批判ですが気当や原世リアを 教えの中心に据えないことね。 ま、総加学会も孤独という原理役を、ま、 ある意味解いてきたのは事実だけども、 じゃあそれが中心化と言えばそうじゃない よとね、単なる原世役の進行宗教じゃない んだとそこは光戦で一生成仏っていうね、 そういう崇高な目的を持った。ま、その上 での人々を救う1つの方便として 原セリアクという面を解いたのは事実とは 言えるけども、本来の日連仏法はそういう 気当や原は教えの中心ではないんだと。 で、今度は立、立っていうのは権力と結ん だ高的偽善者戦増場までなも立の特徴と いうか立っていうのはもうはっきり言って 極楽旅館のことだからね。いわゆる極楽 旅館が鎌倉幕府の権力者と決託して大主任 を迫害したというね。ま、それが鎌倉時代 の立の本質ですからね。 それを批判する日仏法はそういう権略者と 決託した高徳的偽善者にならないことと いうのが日連仏法の立場であるのに今の 原田学会はっきり言ってねうん。権力と 決託して ね現在の極楽寺旅館みたいなことばっかり やってんだよね。 で、この支集の批判 は裏を返せば保険協力1年仏法の特徴を 表してると言えるとね。うん。 で、ちなみに池田先生はね、さっきも言っ た通りなんだけども、日連仏法をね、自力 との一致を解き、その力に基づく人間変革 と現実変革を解く宗教であるという風に 位置づけてるわけですよ。遠。 の一方でね、新言の持つ積極的な意味をね 、現実の変革に勇気を持って満進して いけるところと述べているわけで、信言 暴告がなんでこういう積極的な意味になる のかっていうのちょっと説明がいると思っ たので説明しました。おそらくね、柔術に よる原世役を解く信言は年物のような原世 否定ではなく、これは元世皇帝なんですね 。また前収のような瞑想による個人の内目 の悟りでも立のような開立によるセルフ コントロールでもなく事術によるものとは いえ現実のこの世界における変革を重視し ているていう点があるんですね。 で、信言についての現実の変革に勇気を 持って満進していけるっていう表現と日連 仏法についての自力と他力の一致を解き その力に基づく人間変革と現実変革を解く 宗教という表現とはよく似ていますが、 これは元々日連仏法がね、天台密教対密 をベースにしてるところに祝いしていると 。天代密教は言い換れば補ケ鏡を根本と する信言州とも言えるんですね。 第2教を根本とする信言州が統密 空海の密境ですよ。それに対して補鏡鏡を 根本とする密教信言州が対密で大人には その対密の流れの中で生まれた仏法です からね。ま、あの、 信言の現在的 意義っていうか積極的な意味とね、遠、 補鏡、事連仏法の積極的な意味とは、ま、 共通するところが出てくるわけですね。 はい。さて、最後にです。鹿の格減の 最歴史化のとして現在の品の町の腹田しこ をブラに当てはめて考えてみたいという ことで結論的には谷川天マこれはま谷川と か谷川だけじゃなくて宮 体原る誠一郎親子こういう東内バスって なんかこう前種っぽい人が多いよね。谷側 なんか特に過去との整合性なんかどうでも いいんだみたいなもう自分が教祖快素とし て新しい周波を作るみたいなことを言って ますんで、そういう過去の仏、過去の歴代 会長とかをもう全く無視してんのが谷側 ですよね。 ま、谷側はまさに全点がね、 師匠より自分が偉いと思ってるのが前週 ですからね。増場マの極みなんです。 ま、この谷川、宮田、原田、親子って言っ たのはもう天マでしょうね。で、佐藤浩司 暴国はもうこれ言うまで浩司の生き方自体 がもう原世役 大地の男です。信言なんです。で、実際 問題ヒが姿で色々やってきたことが今日本 をこんなに貧乏にし日本という国を傾けて るって意味でもひまさに暴国当たってん じゃないのんでひ国につがるやらとしては 議員とか面 カブラこの議員とか本面カブラっていうの は特徴はひと同じで宗教0宗教よりも政と 利権 政治と利権つまり原世役だよねを得ようと してんのが議員とか本面幹部でありその 代表的なのがひしなんじゃないですか。 で3つ目国族っていうのはこれねさっき 言ったけど 放ども放っていうのはあの弁護士に対する 別ですけどね。で、こいつらはとにかく 仏法より六法なんですよ。これ全部何々 より何々っていうね、師匠より自分が谷川 天磨でしょ。宗教より政治と利見がひし 暴国でしょ。社は王妃社とか弁護士どもは 仏法より六法ね。で、こいつらがまさに 国族でなんか本当に権力との決託癒着って いうかもうすごかったからね。絶大な 政治権力に近づいてほんでもって自分たち に逆らう人間をばっさばっさ処分していっ たのが法務室やひロら 放どのやったことじゃないですかね。ま、 そういう意味で国族は当たってると思い ます。 じゃあ他の職員はどうかというと、もう 無限時刻でしょうね。思国以外の職員は もうみんな諦めてゴング上土してますよね 。本来職員なんだから心境法獣で見分く法 は重たいんだから大承人の商法3大会長の 商法が壊されそうとしてる時に命を惜しま ず立ち上がってそいつらを倒さなきゃいけ ないんじゃないの ところがね自己保針 は軽く身は重たいんですよねんでもって 自分たちが うまい汁吸ってるのもいるだろうけど大半 の職員はみんな諦め物 的な愛音が 品の持ちはなり響いてんじゃないですかね 。 でこのが立についてっていうことはさっき も申し上げましたけど 認証は立史と呼ばれたんですね。鎌倉時代 現在利士と呼ばれてんのはこのなんですよ ね。総加学会顧問立団主席立史ひよりって これ台湾即会のホームページに出てたやつ ですね。 それでここで今日私がお話したいことは 、ま、私流の鹿の格減の最歴史っていう ことは終わるんですが、実はね、皆さんに 是非この不遍性の内容っていうね、補正的 な生き方とは単なる独自な生き方じゃなく て、そこには不遍性という不遍的な内容が 含まれちゃなきゃいけない。その普遍的な 内容ってのは一体何なのかっていうことを ずっと お送りした崎武夫のね、作、心理論、存在 論、実践論、その実践論というところに 入ってますので読んでみていただけたら いいと思うんですけども、そのね、最終的 に 岩崎竹夫が至った この結論がね、すごいんですよ。僕はもう 学生時代高校読んで偉い感動した覚えが あります。それはね人間の有限性という この章の中の 人間の有限性の自覚っていうこっから最後 まで 今からざっと読んできますのでちょっと 聞いてくださいね。我々が今行為の原理の 不遍性を求めようとする時、もはや今まで のようなやり方を取ることができないこと は言うまで。1つ目が人間を包み込む不縁 的なものを見い出そうとすること。神とか 理法とか宇宙と生命の根源の法とかね、原 とか宮は言ってますけど、そんな人間を 包み込む不遍的なものを見出そうとする ことによって 不遍性を 求めようとすることはそれはもうでき なかったというんですね。全というものを 行為の原理の良さと考えずそれ自体善なる ものとして考えるとそうするとそういう 人間を包み込む普遍的な理法とか神とか そういったものを全と見なそうという考え 方になるんだけどもそういう生き方は 失敗したっていうわけ従来の倫理学は我々 自自身において善なるものを求めようとし たが故えに超越的なものを善と考える理想 主義的倫理学ね。法とか神とかもう1つは 現実的なものを全と考える現実的な倫理学 とはこんなものであるとか歴史とは共産 主義と進んでいく歴史の方向性を持ってる から我々は共産修行実現する方向を前とし なきゃいけないみたいなね 人間とか歴史とかについて現実質的にこう 考えてみて人間の方決めようというこの どっちも失敗したっていうわけね。 で、どうしてこれが失敗するかって言うと 、この人間の認識の有限性っていうね、 そういうこと。人間は神と違ってこの瞬間 に絶対確実な心理を知ることっていうのは できないんだと。人間にはそうした認識 能力はないと。だから 自分にはこう思われるという経験的所与 から出発してね、だんだんだんだん仮説 実験証明でより工事の心理へ到達 していくしかない。ただその工事の心理と えどもあくまでも貢献皇帝のリスクをしっ て仮説を立ててるところから 確実とは言えないんだよね。 絶対に確実な非心理から出発して不確実だ けども今のところは心理と認めようという 正しい仮説心理の仮説へと進んで いくしかないのが人間なんだっていうね。 うん。 で、その人間の 有限性というものを自覚してね、そこに 徹底していくことから 本当の意味での普遍的な原理が出てくるん じゃないのかっていうところで、ここなん ですよ。世界がいかにあるかが神秘なので はなく、あること自体が神秘なのだって ここが重要なね。このように言うと我々は 一見いかにも有なことを主張してるように 思われるかもしんない。人間はむしろ次第 に人間の力に自信を持ち、人間自身の意義 を確信するようになってきたのではないか と言われるであろう。確かに金星の思想は 人間が事故の持つ有限性を忘れて人間を 絶対的なものと考えるという立場に立って いたと言える。道徳の根拠となるべき不縁 的なものを人間を超えたものに求めようと する試みね。法とか神とか理性とかね、 そういったものに求めようとしたんだけど 、それが限界にぶつかったのは人間が事故 の認識の有限性を自覚したためであったと ね。人間が軽重的なものを認識することが 不可能である以上、人間は人間の立場で 認識しうるもの、理解しうるもので満足し なきゃいけない。これがね、金星初島に おける思想の 天候、コペルニクス的展開って呼ばれてる もんなんですね。で、人間の理性を信頼し てそこに道徳的根拠を求めようとしたり、 あるいは人間にとって捉えうる現実の法則 を文じたりしたのはこの点の自覚に基づい てると見ることができる。この意味で金星 の思想はそれ以前の思想に比べて人間の 自覚の深回りを示していると言わなければ ならない。それは人間の認識が有限的な ものであるということ。従って人間は人間 を超えた普遍的なものを捉えることができ ないことをはっきりと自覚した。ま、これ は1つのシンポですね。これ人間の本性4 番目。人間の認識の性の自覚と 金星が人間の時代であると言われるのは まず何よりもこの意味においてであると 言わなければいけないとねえ ところが人間は人間の認識の有限性という ことを深く考えずにむしろ人間を超える刑 的なものの考察を捨てることによって人間 こそこの世界を支配するものであるかの ような錯覚を思ったのではないだろうか。 宇宙の理法もあるいは神というような超越 的存在者も共に人間にとって捉えられない ものであるとすれば今こそ人間は人間以上 のものを認める必要はないのであり人間は 人間自身に自信を持っていけば良いと考え たのではないだろうか。そしてこのような 思い上がりが現代に至るまで続いてきて いるのではないのだろうかとね。で、この 思いを除長したのは言うまでもなく、自然 化学の成功であったと。自然科学の成功は 人間が刑的な考察をさることによってなし を消けられたものである。金世以前の自然 の探求はね、一般的に言って自然現象の奥 に軽重的なものを捉えようとした。なぜっ て言うと、なぜこうなってんだろうね。 どうして、なぜどうしてっていうホイを 通ったのが近世以前の自然探球だったんだ よね。だから自然の奥には宇宙の理法が 支配してるとか、自然の奥には神の力が満 てるとかね。 これに対してね、金世の自然科学はもはや 決してこうした自然現象の奥にある刑状学 的な本質を捉えようとするのではない。 それはあくまでも自然のあり方をそれが 人間に対して現れるがままに捉えようと するのであると 一般に金世以前の自然探求がなぜにって いうね、という問を立てたのに対して金世 の自然科学はhowいかにどのように いかにハウ という問いを立てると言われるがまさに ただ自然現象はいかにあるかということ のみを問うことが自然科学の特徴なんだと 。で、このような考え方の転換によって 自然科学は成功した。しかし考えてみれば 自然科学が成功したのは人間の認識の有限 性を自覚した。だから人間は自然現象に ついてなぜにということを問うことはでき ないんだとね。怖いて問うことはできない んだとね。 え、でき、人間にできるのはどのようにし てハウだけなんだっていうここにこれは 人間の認識の有限性の自覚って言えるじゃ ないですかね。怖いという問に対して 答えることができないんだね。 で、確かに今日の驚くべき技術文明が自然 科学によって作り出された。しかしこの ことはただ人間が自然法則を発見すること によって自然現象の過程を変えていくって いうことに過ぎない。 人間は決して自らが自然法則を作り出す ことはできないし自然法則を変化させる こともできない。なぜそれが存在するかを 我々は問うことができないんだとね。我々 にとって可能なのはただこの自然法則を 利用して自然自身を働かせることなので あるということで自然と生命の神秘性って いうとこ行く。人間が自然の支配者となっ たというような考えがいかに謝ったもので あるか。自然科学は人間が事故の認識の 有限性を自覚して初めて謙虚な態度を取る ことによって初めて成功したね。という ことから全ての事実は我々にとって神秘的 なものであると言わねばならない。なぜ あるか?あるっていうことに対する神秘。 自然は神秘性を称えたまま我々の前に存在 してるのであると。その神秘性を解くこと は人間には不可能なのであるね。それは 人間の能力を超えているね。自然科学は 人間がこのことを自覚した時初めて成立し たとね。 で、これは自然科学のみではなくてね、 自然のみならず全ての存在は神秘であると 言わなければならない。人間は自ら いかなるものも想像すね、いかなる存在も 想像することはできない。一切のものの 存在を人間はただ事実として認めるほない 。あらゆるものの存在は全て人間にとって 脅威の対象であるとね。えー、うん。 現実世界は人間の作り出したものではなく 、我々にとってはその存在自体が神秘で ある現実世界のうちに生まれてその中で 生きてるということなんだとね。で、人間 が現実的世界のあり方を科学的に明らかに 知るのもまさに、ま、人間の登記っていう ね、 ものなんだけど、この人間の登記は決して 絶対的なものではない。それはどこまでも 現実世界のうちに投げ込まれながらの登記 。人間っていうのはね、この現実世界に 投げ込まれるわけですよ。火登期投げ込ま れるね。で、投げ込まれただけの存在 かって言うと、投げ込まれた状況の中に あって自分自身を 未来へ外へ世界へ投げていく、登記して いく 非登性の登期というのが人間の特徴だって いうこう考え方があるんだけどね。うん。 で、人間は自然科学の成功によって、あか も人間自身が世界の主者であるかのような 思い上がりをしてしまったと。そして人間 を絶対的と考え、人間の欲求は本質的に 肯定されるべきであり、満足されるべきで あると考えられたとね。で、このにして 人間が謙虚さを取り戻す時、そこに我々は 行為の原理の不遍性を見い出すことが できるんじゃないかっていうことで、人間 の生の尊重という行為の原理、全てのもの の存在は人間にとって神秘であるね。で、 ここにね、道徳の根拠を見い出して売ると 、我々は全ての人間の存在の神秘さを思わ なければならない。1人1人の人間の聖の 不思議さに触れなければならない。そう すれば我々は全ての人間のせが絶対に 掛けがえのないものであること。人間が 一度生まれた以上、それぞれの人間のせと いうものが2度と存在しないものである ことを知ることができる。こうしてここの 人間の聖の尊厳をおじるということが我々 の行為の原理として導かれてくると人間の 聖の尊重という行為の原理ね。ここにこれ が普遍的な原理。的な生き方のせの内容 ですよね。うん。 生命の神秘が科学によって解明されるで あろうか。人間が生命を想像するってこと は果たして可能であるか?科学がいつの日 かタンパ質から生命の発生する家庭を解明 することができたと仮定してみよう。その 時明らかになったのは何であろうか。それ はただタンパク質にどういう条件が与え られた時にそこから生味が生じているかと いうことに過ぎない。従って、もしも人間 が実験室の中で生命を作り出せるように なったとしても、それは人間が生命を想像 するってことではない。生命は自然その ものの働きによって想像される。人間が 成しうるのはただタンパク質にそこから 生命が生じてくるような条件を与えてや るってことに過ぎないと。で、このように 人間の力を、力の限界を自覚する時、人間 の性というものがいかに神秘的なもので あり、1人1人の人間の性が掛けえのない ものであるかを感じ取ることができる あろうというね、我々は次第に人間自身の 自覚を深めてきたのであり、それによって 同時に普遍的な自覚へ高まってきたので あると、その不遍的な自覚への高まりが 人間の有限性の自覚に導かれてくるとする ならばこの自覚こそ最も不便的なもので ありここに考えられる道徳原理は不遍性を 用ると考えられるとね というようなことを述べた上でね、今度 基本的な人権の尊重ですよ。 第1に注意すべきはこの人間のせの尊重と いうことは事故の生命を何者にも増して 愛積するというようなことではないと。 むしろね、他人のために自分が犠牲になる ぐらいの 問題になっている人間の正の尊重とは事故 のせの尊重であるよ、むしろ他人のせの 尊重でなければならない。我々は事故の死 を覚悟してもなすべきことはなさなければ ない。しかしそのすべきこととは何かって ことでね、 それは全ての聖の尊重っていうことであり ね、一切の聖の働きの基礎である生命を 尊重すべきであるということになるわけ ですね。それは他人の生命 も尊重されるべきであり、むしろ他人の 生命 こそ尊重すべきという言い方になるわけ ですね。で、第2人に中備すべきはこの 人間の聖の尊重ということこそ基本的人権 の尊重という人想を初めて真に基礎続け うるもの意外と難しいんだよね。なんで 全ての人が人権持ってるかって説明つか ないんだよ。だけどもこの生命の重 1人1人の人間の掛けがえのない生命ということの実感その実感 1 人1人の人権を重するっはねけられるんですよっていう岩崎竹のね最初に岩崎竹を紹介した東大の最終講義そこでこのね重 [音楽] の原理からね、真食意の3号、真っていう のは心の内面、精神の自由で、思想の自由 でしょ。これが1番重要なんですよ。その 次が口。言能の自由はその次2番目に大切 ね。で、真体体は行動の自由。天気の自由 ね。この3つ、真意の3つをね、同じ価値 、同じだと並べるところにいろんなおかし さが起こってくると、1番重要なのは心、 思想、心情の自由。 その次が言論の自由。3つ目がそういう 行動の自由ね。こういう除列があるんだっ ていうようなね、話とかこの基本的人権の 尊重っていうところはそういう話に行き、 そう考えることによってどんな法律が考え られるかその法律に基づく教育のあり方 ってのはどういうものになるかというよう なことがね、岩崎竹夫の東大における最終 講義であったわけですけどね。ま、今日は もうそこまで行きませんけど、 ちょっとこの 鹿の格減 の最歴と岩崎 倫理学の問題。これちょっと僕はどうして もやりたかったので、今日はエマネル トットの話にはもう入れませんけど、ま、 あれは次回また時間作ってやって 1回目と2回目と3回目セットにして1つ の動画作ればいいんでね。今日はちょっと 変則的ではありましたけど、鹿の格減の 最歴鹿岩崎竹夫の倫理学の視点 からっていうことでね、もう僕が学生時代 に思いついてからだからもう40年前、 45年ぐらい前 思いついたことを、ま、今回ちょっと 無理やりこじつけた面もあるかもしれませ んけど ね。やっぱり宗教の累計っていうのは人間 の生き方の累計にダるはずだから絶対に 重なってくる面はあると僕は思ってたん ですね。うん。 どうですか?なかなか面白いと思いません ? これ僕だけが面白いと思ってんのかな? 今日僕が言いたかったことの 最終結論はここだよね。 これ この対応関係瞬間的楽の追求は新言州で これはひし永続的解楽の追求は信言立集で 立国族だからやひ運命合っていうのは まさに年物で 特に法年は木晴らしによる不幸の暴却診断 は運命への定官による絶対的な心 立目ね。で、努力の原理っていうのはもう 自力で前収ね。 集でも相当集は思考努力臨州は仏とか師匠 の存在否定する独自性を目指す 非構個性的な生き方でこれら4つが偏った 宗教であるのに対してねこの4つの偏りを 正し遠円満な形にしたのは不縁性を目指す 個性的な生き方としての日連仏法とね 、その不遍的な不遍性とは生命の尊重で あり、基本的な人権の尊重であったって いう、ま、こういう 鹿の格減の、ま、最力歯科を僕なりにやっ てみたということです。今日は遅くまで ありがとうございました。これで終わり ます。 [音楽]

「『四箇の格言』の再歴史化とその現代的な意義」
――谷川天魔、ヒロシ亡国、八尋国賊、余の職員無間地獄!

平成十五年(二〇〇三)、『御書の世界』第1巻(聖教新聞社)で、創価学会が、四箇格言は「特定宗派を攻撃したものとして捉えてはならない」「時代の変化を無視して、ただ批判を繰り返して唱えても、かえって大聖人の御心に背くことになりかねない。それでは、ドグマ(教条)になってしまう」などと言い出して、他宗批判を一見やめてしまったがことが、マスコミ等でも話題になった。本当に邪宗批判を止めてしまったのか?
 ここでは、『御書の世界』から 「四箇の格言」の意義を述べた箇所や山上弘道氏の「日蓮の諸宗批判——『四箇の格言』の再歴史化の前提」
(※法華コモンズのHP https://hokke-commons.jp/ で無料公開中)
などをテキストに、四箇格言成立の経緯や各宗の本質などについて考えてみたい。
 そして、最後に、「律宗」というものの現代的意味を再考するとともに、池田先生の築かれた創価学会をものの見事に破壊した師子身中の虫である今の信濃町の本部職員らを四箇の格言にあてはめてみたい。

信濃町四箇格言
谷川天魔・・・・・・宮田、原田親子ら
ヒロシ亡国・・・・・議員や方面幹部ら
八尋国賊・・・・・・法匪ども
余の職員無間地獄・・諦め、欣求浄土

また、ここ数回のテーマである岩崎武雄の哲学の実践論(倫理学)を学び、そこでの個性的な生き方や普遍性の内容が仏法から見ると、どう捉えることができるのか、考えてみたい。四箇の格言と意外に共鳴しあうから面白い。乞うご期待!

【この動画の資料】
https://drive.google.com/drive/folders/1dj-2v6hpSqeLUYLL-MTpwLYC2ZXyms-Q?usp=drive_link

講師 波田地克利
1958年山口県生まれ。創価大学大学院修士課程修了。1991年2月創価学会金褒章受章。元聖教新聞社企画部副部長。
学会最強の論客にして対宗門の急先鋒。第二次宗門問題渦中において創価新報の日顕宗キャンペーンなどを担当し、宗門の謗法を徹底的に破折した。
2014年、谷川佳樹、佐藤浩、八尋頼雄、北林芳典、竹岡誠治らの悪事を糾弾したことで除名される。
現在は教学研究会にて、戸田第二代会長が学会内の出現を予言され、その通りに現れた仏法破壊の師子身中の虫、師弟違背の僭聖増上慢を呵責すると共に、当会のスローガンでもあり、池田先生が心ある同志に託された「自身と学会の目の覚めるような発迹顕本」を目指す為の論陣を展開する。

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1件のコメント

  1. 波田地さん、今の、原田創価学会を、解散させる方向には〜!!もっていけないものでしょうか⁉️もう、これ以上〜存在させる意味なさそうです❌🔚。

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