小渕ドリル優子と満州開拓記念碑
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佐高信著『わが筆禍史』
佐高信は小渕恵三首相に対して「私の郷里の山形弁では、オブチのことをオブツと発音する」と週刊誌に発表。
その後、さるパーティで小渕首相に遭遇します。
彼は「あなたのように批判してくれる方も必要だ」」と言って握手を求めてきた。
この行為に対し佐高は、「驚いたし、懐の深さを感じました」とする。
満蒙開拓団 殉難者拓魂 北関東 https://www.asahi-net.or.jp/~UN3K-MN/0815-manmou-a03.htm
より
満州開拓は当時の日本の将来を想定する一大国策として計画実施されたものである 開拓の為の移民は全国
各地から募集され年々多くの日本人が海を渡って行った 支那事変が大東亜戦争に拡大しつつある中のことであ
る 廿楽郡からもこうした時代の要請に呼応して 掛川金蔵を団長とする第九次廿楽郷開拓団が結成されて昭和
十四年満州國北安省通北県九道溝に始めて先遣隊を入植させた 翌十五年には本隊が入り 更に続けて市川
儀太郎を中心とする第十三次月形開拓団 並木実謙を主軸とする第十四次開拓団 内田愛一郎を場長とする報
国農場隊員と 次々に渡満入植してその数は百数十戸の多きに達し 異邦に廿楽郡分郷を形成するに至った
私達団員は 気候 ■■ 民情 言語の■■辺境の地で幾多の辛酸を嘗めつつ ひたすら開拓の業に励み 併
せて北方守護の一翼も荷ってきたのである た■たる昭和二十年八月 突如敗戦の悲運に遭遇してしまった
既に武器類は持ち去られ丸腰のまま不安な日常を過すことになったのである 集団で来襲する土匪との防戦に明
け暮れして 或る者は傷つき或いは散っていった 団員と筆舌に尽くしがたい惨苦の日々がここに始まった ひどい
寒気と飢えと 土匪の脅威に終始さらされ 殊に本国の保護を断ち切られた為 生活は日毎に窮迫して病院続出
全く将来の見込みも立たない不安な状態が続いたが 翌二十一年九月二日ようやく引揚命令が下り 爾来五十三
日間という長いつらい死生の境を彷徨する長旅が続き 辛うじて母国復帰ができ得たのである 内地引揚後は初心
忘れることなく郷党の人々の支援による 大陸に散った拓友の遺志を継いで 他の開拓団引揚者や志を同じゅうす
る人達と共に北軽に入植し再び開拓の鍬を振る者 既に家財を整理渡満した為 各地に新天地を求めて去って行
く者 或いは故郷忘れじがたく生まれた土地に帰る者 とそれぞれの土地で再起のため奮闘を続けているが 然し
共に苦しみ 共に開拓に打ち込んできた私達が■中には 開拓の先駆者としての強い意志と同志的結合が脈々と
流れ 横のつながりは無言のきずなとなり拡がりとなって いつまでも離れることはないのである 茲に開拓に関係
する全員とその他多数各位の協力を仰いで 往時を追憶しつつ犠牲者の冥福の祈りも籠めて記念の石碑を建立
し これを永遠の証とするものである
昭和四十三年十一月八日
報友会満州報国隊記念碑
碑文(表)
戦争は多くの人類を殺傷し、国民の総ての生活を破壊する最大の罪悪である。
第二次世界大戦は激烈を極め、我が国の食糧難は切迫し、祖国の危急存亡に直面した昭和十九年の三月~二十
年四月私たち青少年一四0名は、甘楽郡(二十三ヶ町村)より選抜、満州国に派遣され、満州国北安省通北県九道
講の大平原を開拓して群馬報国農場を建設し、食糧確保と北の守りに砕身の力を尽して奉仕した。
昭和二十年八月終戦後は、異国での敗戦の悲惨さと戦い、この上ない辛酸を受け、これを克服し、六人の犠牲者を
残して(裏面に記す)昭和二十一年十月帰還した。
思えば、私たちの報国開拓奉仕の行為が国際平和共存のための営みであったなら、どんなに誇らしくてすばらしい
業であったろうに・・・
戦争の惨状悲哀は筆舌に表わし難い。私たちは人間として、この世の続く限りどのようなことがあっても、二度と戦
争の罪悪をくりかえしてはならない。このことを永遠の子孫に訴え、恒久平和を祈念してこの碑を建つ。 報友会
慰霊詞(裏)
昭和二十年八月十五日 第二次世界大戦は終幕を告げた。
以来在満日本人の生活は一変した。ソ連軍の侵入と国共両軍の内戦十八回に及ぶ中で暴民の襲撃を受け隊員は
開拓団員と一致協力し、克く戦った。九道溝廿楽郷は団結の力と、掛川金蔵・市川儀太郎両団長の人望(現地人の
信頼)によって難を免れ生きのびることができた。
しかし酷寒零下三十五度と飢えで一日一日が必死だった。二十一年八月北満の日本人送還が始められ通興駅に
集結した日本人は、満人の家に分宿し十五日間待たされた。その頃中共軍の青年労働力の徴発が行われ、廿楽
郷からは隊員の古屋栄作・古屋今朝三の両君が七月中旬徴発されていった。両君は鶴岡炭鉱で強制労働に附さ
れた。二十七年十月栄作君は衰弱した姿で帰国できたが、今朝三君は遂に力尽き還らぬ人となった。なお田中
康夫・神戸堅次郎・山崎きく江・吉田スミ江・佐藤けい子の計六人の隊員が北満の荒野に、尊い生命を犠牲にした。
私たち一同、国の為に殉じた六柱の業績を偲び、慰霊の誠を捧げてこれを彫む。
昭和五十一年五月
併設の木碑
生まれ故郷をあとにして 俺もはるばるやってきた 蘭の花咲く満州へ 人間一匹力(うで)だめし
金もなければ地位も無用 もった情熱が財産さ
昭和十九年食糧危機に備えて満州の荒野開拓 昭和二十年八月終戦 二十一年帰郷
きたかる
http://jinenbito.jp/documents/freepaper2/kitakaru_vol02.pdf
より
北軽井沢に開拓村と呼ばれる地区は四ヶ所あります。
ハイロン、大屋原、甘楽、群高です。また、長野原町には他にもアテロ、下小菅などの開拓地区があります。
ハイロンやアテロというのは、満州での開拓地の名前をそのまま使っています。それぞれの地区の満蒙開拓前の母村は、大屋原は木瀬村、ハイロンは北橘村と南橘村、甘楽は甘楽郡、群高は伊勢崎の名和村などといわれています。
こうした満州・蒙古からの引揚者に与えられたのは、浅間山の東北麓、やせた火山灰地の草原と、雑木林や落葉松林で、熊笹が胸まであるような場所ばかりでした。これらの人々がこの地を選んだのには次の理由がありました。厳しい自然環境を克服するだけの経験を満州農業で得ていたことと、さらに復員後入植を希望する多くの人々を受け入れるだけの土地の広さにあったといわれています。
オブログ≪79回目の夏≫
https://ameblo.jp/obuchiyuko/entry-12863718669.html
より
長野原町の北軽井沢地区は、群馬県内でも有数のレタスやとうもろこしの産地であり、酪農も盛んな地域です。しかしながら、戦後間もない頃は雑木林が広がり、熊笹が胸の高さまであるような場所だったそうです。この土地を肥沃な場所へと開拓したのは、満州から命がけで引き揚げてきた方々でした。
戦前に満州へ開拓移民として渡った日本人は約27万人で、そのうち約8780人が群馬県出身者でした。敗戦の混乱により、約1680名の方々がふるさと群馬に帰ることができずに亡くなられたそうです。今は、北軽井沢地区の大屋原にある「群馬満蒙拓魂之塔(まんもうたくこんのとう)」が、かつての悲惨な歴史を伝えてくれています。
戦争を直接知る世代の方が少なくなり、当時の様子を聞く機会も貴重な経験になってきています。先人からの証言はもちろんですが、各地にある戦争遺構や忠霊塔などから歴史を学び、戦争を決して風化させることがないようにしていかなければなりません。
今日は79回目の終戦記念日です。一人でも多くの方に、先の大戦に思いを巡らせ、平和について考えていただけたら幸いです。
≪長野原町にある甘楽地区≫
https://ameblo.jp/obuchiyuko/entry-12815658109.html
より
長野原町を通る国道146号線に「甘楽」というバス停があります。甘楽郡甘楽町というと、そのバス停からは直線距離で約40㎞も離れているのに、なぜこのような地名があるのでしょうか。
実は、長野原町北軽井沢にあるこの甘楽という地区は、かつて甘楽郡から満州へと渡り、戦後に引き揚げてきた皆さんが大変な苦労をして開墾された土地なのです。満州へは群馬県からも約8780人が開拓移民として渡り、敗戦による混乱で約1680名の方々が亡くなられました。今では酪農が盛んで、レタスやトウモロコシといった野菜がたくさんとれて、美しい高原の風景が広がる中、バス停のすぐ近くにある「満州開拓記念碑」が静かにその歴史を今に伝えています。
今年もまた、終戦の日がめぐってまいりました。こうした戦中・戦後の歴史をきちんと次の世代につないでいくことが非常に重要であり、多くの皆さんに平和の大切さについて思いを巡らせる1日にしていただけたら幸いです。