ロクリアン正岡 弦楽四重奏曲第6番「ピカソ流」第3曲/全4曲
日本現代音楽協会主催
2024年11月28日のフォーラムコンサート第1夜 東京オペラシティリサイタルホール
第一ヴァイオリン/迫田圭 第2ヴァイオリン/加藤綾子 ヴィオラ/亀井庸州 チェロ/北嶋愛季
多くの人はかなり若いうちに少なくとも一度はなぜ自分は佐藤隆なのか?白石桂子なのか?と思ったことがあるだろう。それは単なる「どうして俺(私)は俺(私)なのか?」という同語反復ではなく、どうして自分Aは“この自分a”に生まれたのかというように本来の自分と現実の自分の違いに目の止まった必然的で貴重な瞬間なのだ。そこから考えれば何が何でも現実の自分(達)の保身に終始するというのも愚かしい。無駄な争いごとの多くはここから発する。現実の自分の背後に本来の自分があるという意識が強まればこの現実の自分/心身以前の“魂”が信じられるというものだ。そして当然、前世も来世もである。私が絵画をこよなく愛し優れた絵画に同化しようとするのも本来の魂をより強烈に実感したいからなのだ。
今回、その愛の対象はピカソの多くの人にとって最悪の絵画であろう「梳る裸婦」。ピカソ絵画の異形さを愛せない人はいまだに少なくないだろうがこの絵画と来たら(11月中旬現在ネットで閲覧可能)!古典には秩序主義的な、現代にはカオス主義的な絵画が多い中、ピカソの異形絵画のすばらしさはカオスと秩序の合体にあるが、この絵画にあってその度は最高潮に達している。野球監督がサッチーこと野村沙知代を愛してやまなかったのもそこが魅力だったからではなかろうか?
本楽曲もそこに力点を置き、8分余の第一曲においては常にカオスと秩序のがっぷり四つを心がけた。
この楽曲中、特に第一曲はピカソの上記の「梳る裸婦」をモデル/テクストにしている。著作権の関係上その絵画を貼り付けることはできないが、幸いなことにネット上にはその全画面が閲覧できる期間が長いようだ。
第2曲、第3曲はピカソのそのほかの絵画に見られる自由奔放な即興的明るさで息抜きをしたが、第4曲ではこの絵画の裸婦がそのまま現実の女になった如き野村沙知代氏の報道された姿を表現してみた。ただし、「梳る裸婦」にはあった抑圧感が取れた分、タガが外れた強女の思い上がりがここでは強調されている。
なお、同絵画についてぜひとも引用したいのは、
1940年の8月にピカソは疎開先のロワイヤンカラパリに戻り、戦いの終わるまでパリにとどまった。ナチスは彼の作品を「退廃芸術」と断定したが、アメリカに亡命する気はなかったのである。ここに当時のピカソの言葉がある。
「私は危険を好むものではない。しかし、暴力を避けようとは思わない。私はここにいて、ここにとどまる。私を立ち去らすことの出来るただ一つの力―-それは私が立ち去りたいという欲望だけだ。」
独房のような小さな空間、緑と紫の不気味な死の色調、その中に空間からはみだしそうな大きな裸婦が一人、彼女はそれでもなお身だしなみを整えようとする。強靭な右足の造形。独房の中で彼女にまだ梳る余裕があるならば、画家も絵筆をとらなければならない。
この強い文は美術評論家の故坂崎乙郎氏のものー集英社刊 現代世界美術全集 14より