四天王の息子で大戦でも大活躍!も、20日で亡くなったはかなき痔ん生【信長の野望・新生】
とある大名家の四天王の息子として大戦で活躍したにも関わらず、勝利からわずか20日で亡くなった信長の野望に登場する日本の戦国武将をクイズ形式で紹介します!慢性的な病気を患っていましたが、四天王の息子であるがゆえに大戦では病養できず、無理がたたって亡くなってしまいました。
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●榊原康勝(さかきばら やすかつ)
榊原康勝(さかきばら やすかつ、1589年~1615年)は、江戸時代初期の武将で、徳川四天王の一人・榊原康政の三男として生まれました。彼は上野館林藩10万石を継いだ第2代藩主であり、その生涯は短くも波乱に富んだものでした。
康勝は徳川家康の信頼厚い榊原康政の息子として生まれましたが、家督を継ぐ運命は必然ではありませんでした。長兄・大須賀忠政は母方の大須賀家へ養子に出され、次兄・忠長は早世したため、父の死後、わずか17歳で藩主となりました。
しかし、康勝が家督を継いだころ、館林藩の財政は逼迫しており、義父である肥後国主・加藤清正がたびたび財政再建の助言を行ったと伝えられています。
康勝は若くして徳川家のために戦場で活躍しました。1614年の大坂冬の陣では、佐竹義宣の窮地を救う戦功を挙げます。そして翌年の大坂夏の陣では、若江の戦いで豊臣方の猛将・木村重成と戦い、さらに天王寺・岡山の戦いにも参陣しました。
しかし、これらの激戦の代償は大きく、康勝はすでに患っていた腫れ物(痔)が悪化してしまいます。『難波戦記』によれば、冬の陣で腫れ物が破裂し、大量出血しながらも戦い続けたとされます。この献身的な姿勢が、周囲からの敬意を集めた逸話として伝わります。
大坂夏の陣後、康勝は京都で腫れ物の悪化により26歳で亡くなりました。その死は館林藩に後継問題をもたらしました。康勝には庶子の平十郎(勝政)がいましたが、家臣らが「嗣子なし」と幕府に報告したことから、康勝の甥である大須賀忠次が家康の命により榊原家を継ぐことになりました。この結果、大須賀家は断絶し、榊原家の名跡が保たれることになります。
一方、平十郎勝政は幼少期に家臣の策略に翻弄されつつも、最終的に1,000俵の旗本として幕府から認められ、その子孫が旗本榊原家を興しました。
康勝の後継問題には、家康の深慮が影響しています。徳川四天王の血統を絶やさないための判断であり、家臣の策謀や幕府の統制強化も絡む複雑な状況でした。康勝の死は早すぎたものの、彼の武功と血筋は徳川家の歴史に刻まれ、次世代に引き継がれていきました。
康勝の墓所は館林市の善導寺にあり、その法名「心光院殿長誉了英大禅定門」は、彼の誠実で勇敢な生涯を物語っています。短いながらも情熱的な生涯は、武将としての名誉と家族の運命の象徴と言えるでしょう。
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1件のコメント
25歳ぐらいと早く亡くなったので、康政の子としての活躍がもっと見たかったです。それにしても痔が原因だからを痔エンドは上手ですね笑