#87【日本刀専門店 銀座長州屋】第二次長州征伐 四境戦争 芸州口の戦い団長品川清兵衛の刀
皆さんこんにちは 銀座長州屋の深海信彦です 今回はね 慶応二年の長州征伐 聞いたことある? 長州征伐 もちろん! 長州征伐の時に使われた実際にね 使われた刀をね 子孫の方からね その使った人の6代目かな 子孫の方から譲っていただいたんだよ それをね今回お見せしようと思って なるほど 刀は長い歴史の中で ありとあらゆる戦いに 使われてきたと思いますので 実際に誰が何の時に用いたのか 証明できるものはすごく少ないですよね それはないよね ビデオも写真もないんだからね 誰が使って誰を倒したとかね その時の刀がこれだっていうものはね ほとんど残ってはいないよね 童子切安綱とか にっかり青江とか 仇討ちを果たした左夜左文字とか それにあの例のへし切長谷部 岡田切吉房 それに梶原景茂を斬った狐ヶ崎為次など 伝説を交えると かなりの数がありますけど そういう物語はたくさんあるよね まあそういう名物っていうのはたくさんあるけど 昔すぎてね へし切りは室町時代 織田信長だけど 狐ヶ崎となると 800年前の鎌倉時代のものだからね 昔すぎてあんまりこう… これですって言われても現実味はないよね その方がかえって物語性があって 刀の魅力の一つに実際なっています 生々しい事件の使用例は 刀の美術的価値を下げる恐れがありますから このチャンネルでは今まで あまり扱わなかったですよね 事件と凶器という観点からね 刀を論じたくはないよね せっかく何十年 百年以上もかけてね 美術品として認められるようになった刀だからね 特に美術的価値の高い刀を専門に扱うね 我々としてはね事件と刀っていうテーマは タブーだよね それなのに今回は幕末に実戦使用された刀を 取り上げたっていうのは 何か理由があるんでしょうか? 我々はさっき言ったように 美術品としての刀を取り扱ってはいても 刀の歴史そのものに 目を背けてはいけないと思う 平安の昔から刀の美術性は言われてた 平安の昔から 後鳥羽上皇も刀を愛されておられたけど このように 貴族や武士がね 刀を鑑賞する美術性っていうのは 平安時代からずっとあるわけだから 平安から明治維新までは “美”と”用”が求められてきましたが それ以降は”用”は求められず “美”だけの観点から刀は評価されていますよね そうね”用”の時代は 160数年前に終わっているからね 今は”美”だけの時代なんだね その言わば合法的に刀が用いられた 最後の歴史が幕末なんだね まだ160年くらいしか経っていませんので なんだか悲痛な話が出てこないといいんですけど… 160年前だから鎌倉時代の伝説的な話とは
違ってという意味だね じゃあ気をつけながら話すことにするけど 言葉での戦いじゃなくて 武器を持って戦う限り一方を倒すには あるいは一方を救うためには 武器を持ってするしかないよね 正義の剣なんてものは 本当はないのかもしれないけどね それでその長州征伐の時に使われた刀というのは 一体誰が持っていてどのような 使われ方をした作なんでしょうか? 生々しい話となると あんまり気が進まなくなってきたけどね 事実だけは話すね これ拵だけど この2本の刀 刀身はここにあるけどね 幕府の連合軍総勢3万 まあ各説あるけどね 3万が長州に攻め込んできたときに 長州戦争だから 四境戦争とも言ってね 石州口とか小倉口とか大島口とか芸州口とか 4カ所から幕府軍が長州征伐にやってきた その4つのうちの芸州口を守ってた守備隊 これ岩国戢翼団とかなんとかというね 守備隊の隊長を務めた 品川 清兵衛重明 という人がいる その人が持っていたという刀なんだよ その品川清兵衛から守備隊の隊長の 品川清兵衛から6代目にあたる 人から譲られた だからその刀そのもの譲られた刀 そのものやそのことよりも その事実が歴史的にね 非常に貴重だなぁと思ったんで 今回お話するんだけど これらの刀は維新ゆかりのね どこかの本当なら資料館にあれば良いもの だから資料館にでも寄贈しようかなと思って この番組を企てたんだよね 歴史の証言者としての刀っていうことですね 刀そのものよりも歴史の証言者なので 今回取り上げたんだけど 持ってこられた人にとっては 先祖の遺品なのでね 自分が保管しておくのが 義務だと思っておられたそうだよ 後で写真見せるけどね お母さんの月見里君代さんが 「絶対に家にあってはいけないものだ」と 「必ず処分するように」と 言われてたそうだ だからおそらくこの刀のことについて この君代さんよお母さんはね お父さんとかお婆ちゃんからね いろいろ聞かされてたんだね だから自分の代限りで女じゃない? 代限りで処分をしようとして 息子さんに託したんだよ 息子さんがね持ってこられた写真を… 息子さんが持ってこられたんだよ 映像関係のフリーの 映像関係の仕事をしてる人なんだよね そうなんですか 持ってこられた この人が品川和宏さんという人なんだよ 君代さんの息子さんのね この方が歴史的な参考になればということで 持ってこられたんだね 息子さんはそんな歴史のある刀を手放すのを なんとなくためらって 今日まで来たんですよね? それを思い切って処分しようと なんで思われたんですかね? 私も聞いたんだよ この人になんで今頃 処分しようと(思ったのか) 実はお母さんが1年前かな? 亡くなられたんだ だけどお母さんの 「(刀を)処分しろ」というのは そのうち忘れてたかなんか知らないけど しようしようと思ってたか 勿体なかったのか知らないけども 放置してたらしいんだ そしたら最近になって お母さんとこの刀のことがね 二度までもね 夢に出てきたんだ それでね意を決してね うちに持ってこられたってわけだ この方がおっしゃるにはね うちの社名が銀座長州屋なので 何かご縁を感じて訪ねて
こられたっていうことなんでしょうね それもあるだろうね だからその品川清兵衛 私もすごい興味感じたんで その品川清兵衛 この人の6代前のね 品川清兵衛のことをね調べてみたんだよ ある程度資料をその方が新聞の切り抜きとか お父さんの写真とかをね 持ってきていただいて 資料はその人が持ってきて ある程度持ってきていただいたんだけど 清兵衛を調べた 長州 長州って言っても 長州ってのは広くてね 周防と長門の二国を 普通の人は長州って言う 本当は防長二州(周防と長門)なんだけど この品川清兵衛っていうのは防州 つまり周防の岩国藩の人らしい よくわかんないけどね ただ芸州口を守るいくつかの軍事組織があった なんとか隊 なんとか隊って その中のさっき言った戢翼団 難しい字なんだよ 戢翼団の隊長なんだね 戢翼の戢っていう字も 私も見たこともない字だったけど 戢っていうのを辞書で調べたら つくりが矛だから 矛を収めるとか 戦いを止めるとかって そういう意味だね戢っていうのは 翼って言ったら翼を収める つまり戦を止めるという 戢翼団っていう隊の隊長なんだよ 高杉晋作の奇兵隊ほどじゃないけども それほどの規模ではないけども ラストサムライだね 長州を攻める石州口 芸州口 大島口 小倉口の 四境のうち幕府軍の主力が投入された 芸州口を守ってたのはこの戢翼団ですか? 幕府軍は広島城下で一旦集合して 主力だからね 芸州口はね だから長州に宣戦布告してね幕府は 芸州口から攻め込んだ その中も各藩の武士が軍隊を編成して 攻め込んだんだけど その中でも主力は彦根軍 その彦根軍に周防の国を征伐するという 「征周真書」と題する勅書 天皇からの勅書と降伏勧告書 降伏しなさいっていう勧告書を 内容とする文面を持たせてるんだね それでその品川清兵衛っていう方は この刀を持って その幕府軍と戦ったってことですか 私も最初はそう思ってたんだけど 後日の後の話はあるんだけど この品川清兵衛の家に この刀が伝わってきたんだ 遺言で だからその当時の刀であることには間違いない それで品川清兵衛とこの刀 どんなドラマが隠されているんですか? 常に死と隣り合わせで生きていたわけですから 刀だけが頼みですよねその当時は ラストサムライはね いやこれはね…ドラマじゃないんだよ ドラマじゃない!? ドラマじゃない 実録なんだよ だからね実録という表現が さっき言ったように生々しいんであれば 実録物と思ってくれてもいいんだけどね 慶応二年の第二次長州征伐の時の話ですよね この時はすでに坂本龍馬の仲介で 西郷隆盛と桂小五郎との間で 薩長同盟がすでに結ばれていますから 薩摩軍はこの戦いには参戦してないですよね 薩摩軍は本当は萩口を 受け持つ予定だったんだけど 西郷隆盛が参戦を拒否したんだね この話は慶応二年 6月14日の早朝の話だけどね そんなとこまでわかってるんですか? 当然記録は残っている 幕府軍が芸州口から岩国藩領に侵入しようとして 攻勢をかけた最初の戦いですよね 6月14日はね その幕府軍のうち 何万の幕府軍のうち芸州口から攻めたのは 彦根の井伊家の部隊と あと新潟の高田藩とか与板藩ね 後から紀州藩も鉄砲持ってきたけどね 彦根井伊軍 主力の彦根井伊軍は500人だったそう 今の広島県と山口県の地図だけどね 山口県と広島県の境を流れる 小瀬川という小さな川 川幅何メートルあるのかな? 50メートルくらいあるのかな? 写真で見たら そこの対岸に侵略部隊と守備隊が対峙したんだね 迎え撃つ長州軍は 品川清兵衛の軍勢を含めて 何人ぐらいで守ってたんですか? 長州軍っていうのは四境 4つの境を守る兵が 合計1万ぐらいだったそうだ 芸州口には民兵を含めて 2000人が配置されたそうだ 幕府軍は総勢3万だからね 3万に対して数ではとっても 敵わなかったんだけど 前年に長州ってさ 坂本龍馬の紹介とか斡旋で グラバー 長崎のグラバーから 鉄砲をたくさん購入したよね 4千丁だとか3千丁だとかね 鉄砲をたくさん購入した中にイギリス製の ミニエー弾を装着した銃を買ってたんだよ ミニエー弾? ミニエー弾を装着した銃を持ってたんだ 普通の鉄砲の弾って丸いじゃん ミニエー弾っていうのはフランスの ミニエー大尉という人が開発した 先が椎の実みたいに尖った弾 これをね装着したのを ミニエーライフルっていうんだけどね ミニエー弾を装着したライフル銃なんだよ これを持って小瀬川の和木村 山口県の方は和木村 広島県の方は大竹村 大竹村と和木村を小瀬川が流れて その両方で対峙してたんだけど ミニエー銃を持った兵を配備してた 数的には圧倒的な数の幕府軍ですから 負ける気はしなかったでしょうね 幕府軍は負ける気は全然しなかった というのは第一次長州征伐も 長州軍がごめんなさいって謝って 何人もの首を差し出して 和平にしたんだからね だからもう幕府軍は負ける気しない だから上から目線 降伏しなさい 降伏するんだったら 無用の血を流すことはないから 上から目線で「征周真書」 すなわち征周というのは 周=周防国を征伐するという勅書とともに その中には内容としては降伏しなさいと 勧告する使者を遣わせたんだよ 開戦する前にね これは私的な戦いじゃなくて 朝廷の命令によるいわば公式戦だからね 幕府は朝廷の許可を取っているわけだからね そうですね 使者とはいっても 一触即発の緊張した場面で 敵方に身を晒すんですから すごい危険極まりない任務ですよね その征周真書を掲げて 降伏を促してくる使者はね そうですね だからこの役目をこの危険な 役目を引き受けたのが彦根藩 井伊家のね 竹原七郎平っていう武士だったんだよ 彦根藩っていうのはすごく他のやる気のない藩と比べて 意気揚がるでしょう 井伊直弼を「桜田門外の変」で失ってんだから 大老を・・・やられてるから 尊皇攘夷派に対しては ものすごい敵意というか幕府を守るという意気は 全軍の中で彦根軍が一番高かっただろうね 士気はね だからそういう危険な任務も引き受けたか 「赤備」知られる井伊家の武士ですから 当然装束は赤で目立ったものを 着用してたでしょうね 対する 長州軍の支給された 西洋式の黒い軍服とは違って そうそうあるよね 軍服もね 全然違うよね 装束はね でも幕府軍もまちまちだよ 決まった制服ってのはないからね この日は6月14日まだ早朝で 川霧朝霧が立ち込めて 視界は悪かったっということだよ 竹原七郎平は井伊家でも120石取り 中級の家老で400~500石取りだから 次席家老とかでね 120石取りだったらまあまあの中級武士だ 伝令伝達を受け持つ使番という役職なんだ だから使者という役目は慣れていたんだね 竹原七郎平は 周りの状況を 注意深く見極めながら 一歩一歩それこそ命懸けで 川を渡り始めたんですよね そうだね今でも竹原七郎平の 渡渉地点という立札が立ってるよ 今でも160数年経った今でも 小瀬川の畔に立っているのだけど 私は歩いて川を渡ったと思ってるよ 「征周真書」を掲げながら その証拠に竹原は戦争でもないから 兜かぶっていない 烏帽子 陣羽織は当然赤 井伊家だから 赤の陣羽織の下に
井伊家だから 赤の陣羽織の下に 赤の具足着込んでた うちにちょうどそっくりのものがあるね 井伊家の真っ赤なのね 具足を下に着込んでる 軍扇に封書を挟んでって書いてあるものもあるし 本によってはね 手を高く掲げたんだろうね 敵意がないところを見せるために そしてゆっくり川を渡ったと思うんだよ 使者だから 戦争してるわけじゃないんだから そうですよね だけど何かあるんですか?
その途中で だけどその小瀬川 40~50メートルぐらいある小瀬川を 半分ぐらい渡ったところで 戢翼団の鉄砲隊から銃撃を受けてしまうんだよ ミニエーライフルで 精度の良いミニエーライフルで 軍使を撃つのは非道な
行いなのではないですか!? 違反だよね 違反ですよね! だけど長州軍としては使者とは知らなかった 気づかなかったと 後で言ってるのだけどね それで竹原七郎平どうなっちゃったんですか ミニエー弾っていうのは200メーター離れて 火縄銃は命中確率ゼロ ゲベール銃が10% ミニエー銃 ミニエー弾を装着した銃は45%! 確率が200m離れて そのぐらいの確率なんだよね 竹原ともう1人は曽根佐十郎という 竹原より少し禄の低い井伊家の武士なんだね もう一人は従者 3人とも川の中に倒れて 従者の一人は流されたって ある本には書いてあったね 一人は流されたって 使者として慣れているはずの竹原七郎平は なぜ危険回避の手段を取らなかったんでしょうか 使番というのはそういう専門知識を 身につけた人ですよねもちろん う~ん でも井伊軍 彦根軍というのは火縄銃の威力や
射程距離については心得はあるよね 戦国時代からずっと
自分のとこで使ってるのだけど でも最新式のミニエー弾を装着したライフル ライフルって中に螺旋が切ってあるから ライフルと言うのだけど こういう螺旋が切ってあるライフルの射程距離と 命中精度に対する知識は 竹原七郎平も低かったと思う 第一戦争じゃないから 兜かぶってないんだよ! そして具足も伝統的な赤備えの具足でしょ ミニエーライフルはあれ貫通するんだよ 火縄は貫通しないから 竹原七郎平は一応安心してまさか撃ってくるとは思わないという気持ちもあるけどね 具足というのは格式と伝統を示すもので
西洋式のライフルには弱いよね。 そうですね それで戦の常として位のある敵側の武士の
首を切り落として首実験しますよね。 倒したら 戦功を示すものとして総大将とか総督に見せるために それは当然戢翼団の団長の
品川清兵衛の役目になりますよね 首を切り落とす 記述はたくさんいろんな記録に出てくるけど それを切り落としたのは清兵衛かどうか それはそこまでは書いてないけども でもそれに近いことが書いてある本もあるね 切り落としたのを 竹原七郎平が着ていた陣羽織で その首を包んだとかね そういう生々しい記述もあるにはある それがこの刀なんですね これの中身が これだよね 脇差ですか? うん脇差 長いのは 洋式の軍服には合わないからね 下に付いちゃうもん だいたい本当はこんなもんだよ こんなもの これが戢翼団とか民兵の 使うのは こういうものは伝統的な武士の外装と違うでしょ これがズボンを吊った時の最大の長さだよね こういうものが本当は実用的だと思う こういうものは武士の持ち物だから そうですね いかにもですね それがこの刀なんですか これね いい刀だよね なかなかの刀だよ これが切った刀かどうかわかんない これが切った刀かどうかわからない でも品川清兵衛のお孫さんや お孫さん(に当たる)おばあさんね お孫さんっておばあちゃんなんだよ 男いなかったのかな おばあちゃんや清兵衛のひ孫にあたる お父さん この君代さんのお父さんの品川清さんから 当時の話をこれ品川清志さん 品川清さんから当時の話を断片的に聞いていた さっき言った君代さんが亡くなる間際まで この刀の処分を気にかけておられたということは よほどの真実がこの刀に 隠されているっていうことだろうね 品川清兵衛が竹原七郎平を斬った刀だというだけでは 社長はそんなに興味を示す方じゃないですよね そんな話は戦国時代にも幕末にも たくさんあるからね ありますよね! でもそれは事実かどうか分からないでしょ 私がさっき実録モノだと言ったのは その後日本史において これ小さな事実であるけども このことが子孫が今生きていらっしゃって そうですよね~ しかも先祖のことが歴史的な事実であって そしてその刀が残されている! そして未だにそのお墓も残されている 戦跡が歴然として残されているということに 価値を見出した 刀というよりも 小さな歴史の事実が今現在証明されていることに 私は興味を感じた それで小瀬川を挟んだ戦い これは最終的にどうなったんですか だからさっき言ったみたいに 使者を撃ってしまったわけでしょ 色々な本には先鋒として斬り込んできたと 先鋒として攻め込んできたと書いてあるんだよ それでもう銃を構えて待ってる兵隊は もう向こうがパンパン攻め込んできてるから! 川渡って!! 陸続と! だから団長に「団長撃ちましょう撃ちましょう 撃っていいですか撃っていいですか」って 言うわけよ それを「待て」「待て」っていう風に 止めてたのだけど 一旦さっき言ったように火を吹いて 3人倒れたよね 3人しか倒れてないんだよ 3人倒れた しかしもう一旦火を吹いたら戦いは 途中じゃ止まらないよね 最初は互角に戦ってたんでしょ 向こうもゲベール銃ぐらいは持ってるからね 火縄銃と でも長州軍が後方からバーンと大砲撃つわけよ もちろん彦根軍も大砲は持ってるけどね しかしなんて言っても ミニエーライフルに押されまくってんだよね だから芸州領内に (小瀬川に)留まってた彦根軍も 長州軍はあらかじめ小瀬川を渡って 背後に回り込んでた それで小瀬川の対面の長州軍と 回り込んでいた長州軍に挟み撃ちになって 彦根軍は総崩れになって 大島の方の海の方へ逃げていっちゃう だからこの戦いは初戦は 長州軍が優勢に戦を進めたんだね じゃあ品川清兵衛というのはすごい大働きで 大功績をあげたんですね この戦功の第一人者だろうね 芸州口の初戦のね 四境の戦い四つの境の戦いのうちの 小倉口、石州口、大島口は 幕府軍の完敗で終わったそうだ だって主力は芸州口だから 幕府軍の主力が結集した芸州口は 結果的には引き分けなんだよ 最初は勝ったけど 後で西洋式の銃を持った紀州兵が 紀州軍が加勢してきてから 五分五分の戦いになったんだよ しかし宮島 安芸の宮島 宮島で勝海舟と長州藩の広沢平助とかいう 当時の最高幹部が会って停戦が決まったんだ 将軍家茂も亡くなったし いつまでも勤王と佐幕に分かれて戦争する 意味がなくなったんだよ しかし3つ負けて1個引き分けでしょう たった長州って ちっちゃい州に幕府軍が負けたんだから もう幕府の威信は失墜したよね そうですね このことが翌年の大政奉還に繋がった だから一地方の戦いでしょ 江戸から遠く離れた 京都から遠く離れた 一地方の戦いとはいえ この第二次長州征伐が日本に明治維新という 歴史を開かせたという 大きなきっかけになったんだ だから私も面白いなと思った なるほど 井伊家の先鋒…先鋒だと思って 銃殺されたのでしょうね 先鋒と思われたんだね 思われちゃったんですよね 川の中に倒れた竹原七郎平にとどめを刺して 首級をあげた品川清兵衛は いつの時点で先陣を切って突撃してくる 兵ではなくて 『征周真書』を掲げて渡ってきた使者だという
風に気づいたんでしょうか 気づかないから 先鋒として突進してくる敵だと思って 「撃て!」って命じたのは清兵衛だと 思うのだけど しかし倒れた人を 川の中に実況検分に行く ということは敵はそれ以上川を渡って来なかった ミニエーライフルの威力に恐れて 使者以外は実際は渡ってきてないわけ 3人しか死んでないんだから そこで実況検分に行って 陣羽織の下に 古式の甲冑具足を着込んで両刀を指した 二本指しした敵の武士の所持品 これを検査するのは戦の常道だからね 倒れた竹原七郎平の側には当然勅書と 勧告文も落ちていましたから 浮かんでいたでしょうからね 読めばこの人が使者だというのは 分かりますね当然 品川清兵衛は部下に命じて 所持品を探ったら着衣の懐に木牌 戦争に出る人はよく木牌とか
仏ちっちゃいの仏とかをはたみ離さず 兜の中に入れてみたり持って歩くのだけど 木牌から身分と姓名書いてあるんだね 自分はどこも誰で どこで戦死してもいいように そこで39歳という年齢 歳も生年月日も 書いてあった それを清兵衛は知ったんだね さらに懐奥深くからお守り袋を発見するんだよ お守り袋は戦場に出る武士は みんな持っている お守り
戦に出る武士は小さな仏やお守りは 肌身離さず持ってますかね だいたい99%は持ってる そのお守り袋に一通の短い手紙が入ってたんだよ それは撃たれた竹原七郎平 『征周真書』を掲げて川を渡ってきた 兜もかぶらずに 川を渡ってきた竹原七郎平の妻からの 妻?奥さん この手紙の内容はね この手紙の内容はね あなたが出陣してから 後で11歳になる息子が病を得て亡くなったと あなたはいないから あなたの不在のまま 四十九日の法要は済ませましたと 遠い芸術に赴いておられるんだから 遠い芸州に赴いておられるのだから 四十九日だからと言っても
帰って来られないんだよね これは是非もありません お家のために 井伊家のために戦功を立てられて 一日も早く帰ってきてください というような内容だったそうだ 実はこれ後で分かったことなんだけど この時この妻は懐妊してたの お腹に子供がいたの これはその時は竹原七郎平も知ってたか 知らいでか分からないし 手紙の内容にもそういうことは書いてない 竹原七郎平の無事の帰りを待つ妻の思いは 虚しく砕かれましたね いや悲惨な話ですね でも痛恨の極みではあっても戦争ですから 竹原はその時撃たれなくても その後生きて帰れたかは分かりませんよね その時撃たれなくてもね それは戦だから それは品川清兵衛とて 同じことだろう だから清兵衛は 竹原七郎平の妻からの手紙を見て 清兵衛の悲しみは大きかっというのはね 自分にも子供がいて 30日前だか何十日前に自分も 子供を亡くしたそうだ だから長州軍が本陣にしてた和木村の 小瀬川を挟んだ和木村の 曹洞宗の安禅寺というお寺に 曹洞宗の安禅寺というお寺に 3人の遺体を懇ろに葬って 境内に【彦根戦死士之墓】っていうのあるよね 【彦根戦死士之墓】というのを建てて 毎年命日にはお参りしてたそうだ 品川清兵衛という人は長州軍の小さな軍事組織の長ではあっても かなりの権力と財力 そして志を持った人だったんですね ただの民兵の隊長ではなくて 立派な人だったんだね それでこの話で救われるのは 慶応2年の明治100年祭というのが 式典がたくさんあるじゃない この慶応2年の99年後が明治100年記念だったんだね その時にこの彦根戦死士の墓の前で これ(四境戦争から)99年後100年後の 昭和40年の新聞の切り抜き! 昭和40年! その子孫の方たちが現地で行われた慰霊祭で 初めて顔を合わせた 親しく手を取って握手してるでしょ 品川清兵衛の遺族と 竹原七郎平の遺族が100年後99年後に 手を取り合って 互いがその後も親戚付き合いしましょうね という風に仲良くなったそうだ それは本当に救われるよね そうですか 全ては恩讐の彼方ということですよね すごい良い話ですよね ところでこの刀のことは まだ伺っていないんですけども 刀の話?まあね 今の話に比べたら 刀の話なんか 小さいもんだよ でも品川清兵衛の刀ですからね まあね 分かりました じゃあ次回にこの刀のことについて またお話ししましょう はいお願いします ありがとうございました 失礼いたしました
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#竹原七郎平
脇差 銘 津田越前守助廣 延宝九年二月日
短刀 銘 備前國長船住長光造 暦應元年十二月
2025年7月某日―
一人の男性が実家に伝わる大小一腰をご売却にご来店されました。
大小の長い方は脇差で延宝年紀の越前守助廣、そして短刀は長光。外装も中々のものです。
これだけであれば、いつもの、言ってしまえば「ごくありふれた」お買い取の一連の流れとして、そこで終わっていたはずでした。
所持者の方がお刀と一緒にお持ちになられた資料の数々、これこそが実は重要な、意義を持つものだったのです。
慶応二年 第二次長州征伐
今を遡ることちょうど160年前。倒幕の最先鋒の一角だった長州藩を武力で制圧する目的で、徳川幕府は連合軍をかの地へと派遣しました。
戦地となったのは、四ケ所、小倉口、石州口、大島口、そして芸州口。
後にこの四つの戦地から「四境戦争」とも呼ばれるこの一連の戦いにおいて、幕府が決戦の地とみなし、精鋭を配したのが安芸国と周防国の国境、芸州口でした。
国境を流れる小瀬川の芸州側大竹村に布陣する幕府軍彦根藩。対する長州軍は周防国和木村に民兵を中心とした戦力で迎え討ちます。
そして運命の6月14日。
朝霧立ち込める小瀬川を停戦の勅書を掲げて渡って来た彦根藩の使い番、竹原七郎平以下3名に向けて長州軍の最新式のライフル銃が火を噴きます。
川の中に斃れる彦根軍の兵士たち。そしてそれを合図に戦いの火蓋は切られたのでした。
この時、発砲の合図をした人物、民兵組織戢翼団の団長品川清兵衛。
開戦の銃撃を命じた彼こそが、今回の所持者のご先祖様だったのです。
国境の小さな村で上がった幕府の終焉と新時代を告げる時の声。
発砲を命ずる周防国戢翼団団長品川清兵衛と、その銃弾に斃れた彦根藩士竹原七郎平。
邂逅する新時代と旧時代。
その歴史の証人として代々受け継がれて来た大小一腰の刀。
同郷長州藩の出身でもある社長の深海の考察を展開いたします。
お見逃しなく。
解説 深海信彦
アシスタント 今津
編集 今津 寺尾
撮影・音声 一木
監修 高橋 浄久
考証 小島つとむ
#16【日本刀専門店 銀座長州屋】
鎌倉殿の13人 梶原景時に何が起こったか?【国宝 狐ヶ崎為次】
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Wakizashi – Inscription: Tsuda Echizen-no-kami Sukehiro, February, 9th year of Enpo
Tanto – Inscription: Made by Nagamitsu, resident of Osafune, Bizen Province, December, 1st year of Keiou
July 2025 – A man visited our store to sell a daisho (paired long and short swords) that had been passed down in his family.
The longer sword of the pair was a wakizashi by Echizen-no-kami Sukehiro from the Enpo era, and the tanto was by Nagamitsu. The fittings were also quite remarkable.
This alone would have been the end of what could be called a “quite ordinary” sword purchase transaction.
However, the various documents that the owner brought along with the swords – these were what truly held important significance.
Keio 2nd Year – The Second Choshu Expedition
Exactly 160 years ago from now. With the purpose of suppressing by force the Choshu Domain, which was at the forefront of the movement to overthrow the shogunate, the Tokugawa Shogunate dispatched coalition forces to that land.
The battlefields were four locations: Kokura-guchi, Sekishu-guchi, Oshima-guchi, and Geishu-guchi.
In this series of battles later called the “Four Borders War” after these four battlefields, the shogunate considered Geishu-guchi – the border between Aki Province and Suou Province – as the decisive battlefield and deployed their elite forces there.
The shogunate forces of Hikone Domain positioned themselves in Otake village on the Geishu side of the Kose River, which flows along the border. The opposing Choshu forces met them with civilian militia centered in Waki village in Suou Province.
And then came the fateful June 14th.
As morning mist hung over the Kose River, Choshu forces’ latest rifles opened fire on the Hikone Domain messengers – Takehara Shichirohei and two others – who were crossing the river carrying an imperial edict for ceasefire.
Hikone soldiers fell in the river. This became the signal, and the battle commenced.
The person who gave the signal to fire at this moment was Shinagawa Seibei, leader of the civilian militia organization called the Shiyoku-dan.
He who ordered the opening gunfire was none other than the ancestor of today’s sword owner.
The voice of time announcing the end of the shogunate and the dawn of a new era rose from a small border village.
Shinagawa Seibei, leader of the Suou Province Shiyoku-dan who ordered the gunfire, and Takehara Shichirohei, the Hikone Domain samurai who fell to those bullets.
The encounter between the new era and the old era.
The daisho swords that have been passed down through generations as witnesses to this history.
We present the analysis by our company president Fukami, who is also from the same Choshu Domain.
Don’t miss it.
Commentary: Nobuhiko Fukami
Assistant: Imazu
Editing: Imazu, Terao
Filming/Audio: Ichiki
Supervision: Takahashi Kiyohisa
Historical Research: Kojima Tsutomu
#16 [Japanese Sword Specialty Store Ginza Choshuya]
The 13 of Kamakura: What Happened to Kajiwara Kagetoki? [National Treasure: Kitsunegasaki Tamestugu]
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8件のコメント
幕府側の使者として行く時には必ず“口上”をあげで自分が幕府からの使者で有る旨を伝えてから行くモノではないのですか?
清兵衛といえば「たそがれ清兵衛」思い出します。
長く続く家柄は良い事ばかりではないですよね~。田舎に住む人はわかります。
深いお話しをいつもありがとうございます。次回も楽しみにお待ちしています。
私個人的には美的価値よりも歴史的価値を重んじたいと考えています。
刀は歴史を語る。今回も興味深く聞かせて頂きました。ありがとうございます。
今回もまたドキドキワクワクの素晴らしいお話!💕
ありがとうございました!👍
刀は武士とともに戦場に赴くものですから、持ってるドラマも凄まじいですね。
いつもながら素晴らしい動画。
先日とある縁で赤穂浪士の1人が討ち入りに使用したとされる刀を譲り受けました。歴史がいっそう身近に感じました。
ぜひ今度お目に入れられたら幸いです。