【徹底解説】『遠い山なみの光』の「嘘」とは? 50歳越えの大人には分かり過ぎるその「理由」/ノーベル賞作家の原作と映画のどこが・なぜ・違う?/丁寧に語る60分【⚠️後半ネタバレあり】

どうも太郎です。ということで本日はです ね、こちらの作品遠い山波の光という作品 について語っていきたいと思います。で、 この作品なんですけども、え、ノーベル 文学省を受賞されている和夫石黒氏の処女 長編ということで、1982年に出版され た同盟の小説を石川系監督が映画化した ものなんですが、ザックリとある1人の 女性の人生に埋め込まれた1つの大きな嘘 の話なんですね。 主人公のエツ子っていう女性は、ま、 イギリスで1人暮らしをしてる50代の女 の人なんですけども、とある事情で長女を なくしてしまって、で、その後イギリス人 の夫にも先立たれてしまって、で、事女、 もう1人娘がいたんですけども、その事女 も独立して、今は、ま、広い家に 1人暮らしをしてるそういう教遇の女性な んですが、その事情があるきっかけで 里帰りしてくるんですね。で、その頃の 越子っていうのは、ま、30年前のこと。 イギリスに渡ってくる前、戦後間もい時期 、復興の途上にあった長崎に住んでいた頃 の自分の人生にあったいろんな出来事を夢 に見るようになっていて、で、まさにその 頃の話を聞きたいと事女にれて色々語り 始めていく。ま、ところがその語られる 人生の中に、語りの中に重大な嘘があって という話なんですけども、ま、石黒師の 長編デビュー作っていうことなんですが、 ま、この時点からもうすでにかなり作風が 確立されている感があって、ま、静かなと いうか性質な雰囲気の中で薄明明るい浅瀬 をどこまでも歩いていくような、そういう ムードが漂う中で その人生の物語の中に忍ばさた嘘の存在が 明らかになった時点で突然なんというかね 、水面の下に方もない大きな穴が口を 開けるようなそういうすごみのある物語な んですね。ということでちょっと今日はね 、その原作との違いみたいなところも意識 しながらこの嘘の物語の嘘というモチーフ 自体にクローズアップしてお話をしていき たいと思います。ま、とは言ってもその 公開されたばかりの作品なので、ちょっと まずあの前半はネタバレなしで作品の魅力 とか見所についてお話をしていった上で 後半でがっつりちょっとその嘘の内容、嘘 の持っている大きな意味に踏み込んでいけ たらなという風に思います。 ま、ということでちょっとね、改めてあの 、手短近にこの作品の概要を確認しておく んですけども、ま、9月5日公開という ことで、で、原作がもうすでにお話しした 通りか石黒で、で、監督が、えっと、ある 男という作品で日本アカデミー賞を受賞さ れている石川監督ですと。で、ま、1人の 母親、ま、女性の人生の記憶を巡る静かな 嘘の物語っていうね、ま、ある意味すごく パーソナルな感じの1人の人間の中の話 みたいな作品なんですけども、ま、その 一方で戦後80年を迎えた節目の年である 今年、2025年に改めて今振り返るべき 戦後の物語ということでもあって、ま、 主人公の越子が振り返っていく30年前 っていうのが原爆の10日から数年経ない 長崎を舞台にしているっていうこともあっ て物語の中でもそこが非常に重要な要素に なってます。 で、ま、まさに復興しつつあるそのある 意味で生々しい活力、命のエネルギーに 満ちたようなそういう時代の長崎で、ま、 一生懸命に生きていた主人公の女性子って いうのがいて、その長崎時代の越子、海層 の中で描かれる越子を広瀬鈴さんが演じ られていて、ま、彼女がその物語のメイン パートの主人公ということになります。で 、その時代を振り返っている1980年代 のイギリスで、ま、1人暮らしをしてる 50代のやつこう演じてるのが吉田洋さん で、ま、この2人の演技がまずこの作品の 見所とした1つあるかなというところです ね。で、その2人が、ま、長崎のその回層 シーンを通じて越子の反省を描いていくん ですけども、その人生の語りの中に1つ 巨大なというかね、重大な嘘が忍ばされて いるんですね。 で、この嘘っていうのがその単なる事実と 違うことを述べる言葉っていうことじゃ ないんですよね。なぜその嘘が疲れたのか とか、なぜその嘘が生まれたのか、その嘘 が意味しているものは何なのか。で、それ が嘘だとした時に、じゃ事実はどうだった のか、真実は何だったのかみたいな、越子 の人生におけるその嘘の意味って一体何 だったんだろうねみたいな、そういうなん というかね、非常に繊細なというか、深い テーマを扱った話で、で、その物語の深 みっていうところ自体もやっぱりこの作品 の見所の1つとしてはあると思うんですね 。 で、さらにというかですね、あの、ま、 ここが今回の映画家の希望になってる部分 の1つだと思うんですけども、原作の小説 を映画にするにあたってこの嘘っていう モチーフが膨らまされてるんですよね。 あの、原作の方はちょっと解釈の余地は あるんですけど、ある1つの1つの嘘って いう感じなんですけど、よくよく読み込ん でいくとね、そのこれ嘘持ってんのは1人 じゃないなみたいなところがあって、で、 そこをしっかり、ま、掘り下げるというか 、深めるような形で映画版の登場人物全員 が、ま、考えようによってはそれぞれ嘘を 抱えている、隠し持っているみたいな感じ になってるんですね。なので、あの、原作 を読んでる方でもちょっと油断がならない というかね。原作からアレンジされている 部分、追加されている部分がそれぞれの キャラクターの内面を少し掘り下げてる ような部分があって、で、さらにそこに やっぱり嘘があるんじゃないかみたいな、 そういう気がしてくるんですよね。でも それはある意味ただの解釈の問題気のせい かもしれないみたい、そういう不穏な作り になってるのも、ま、本作を映画で見る時 の醍醐みとしては1つあるかなという気が します。 ということでね、ちょっとまず最初になん ですけど、主人公のエツコっていう人物に ついて見ていきたいと思うんですが、 ま、物語の自系列でいうところの今現在 1980年代の閲は、ま、老教に 差しかかった1人暮らしの女性ということ で、ま、夫が残した広い庭のある家に1人 で住んでいて、で、時折り、ま、その30 年前の長崎時代のことを夢に見ている そんな静かな穏やかな暮らしをしている。 で、その回層も含めて、ま、この物語の中 で描かれていく越子っていうのは、ま、妻 であって、母であって、ま、そして当然 1人の女性ってことでもあるんですけども 、夫と私してしまって、さらに娘を1人 失ってしまって、そのアイデンティティっ ていうかね、ま、社会的な属性みたいな ものが剥がれている、そういう状況にある 女性なんですよね。で、ま、それがこの 主人公、越子のなんというかね、特徴 みたいなところではあるんですけど、 それってある意味ね、その誰でもそうって いうかね、普遍的な話なんですよね。 やっぱりずっと生きてて50代とかになっ てくると自分が色々自分の上に乗せてい たり重ねていたりした肩書きだのなんだの 社会的な地位とか属性みたいなものがね、 だんだん剥がれてくるんですよね。ま、で も完全に鋼れ落ちるわけじゃなくって、 その断片みたいなものがやっぱり名残りと して自分の中にも残っていたりするんだ けど、いずれにしてもそうやってね、 剥がれ落ちてってできてったいろんな隙間 を通して、元々の自分自身というかね、 元々の自分が何者だったかっていうものが 自分自身の目にはっきりと見えてくるタイ ミングっていうのがあって、で、ま、 ずっといろんなアイデンティティを保ち ながらね、ま、ペルソナって言ってもいい んですけども、そういうものを持って生き ていた後に急にね、その生身の自分の内心 とか本心とかね、内面に向き合わされる 元々の自分って何だったっけみたいなね、 そういうことがちょっと、ま、過去の選択 とかその結果も含めて急に自分の真後ろに 立ってるみたいな感覚があるんですよね。 これ今振り返ったらなんか見えちゃうな みたいな、そういう感覚が常にあって、で 、普段普通に生きてる分にはね、別に 振り返れなきゃそれでいいんですけど、 やっぱりつい振り返ってしまうタイミング とか、あとやっぱり嫌なく振り返らされて しまうタイミングみたいなものがこう人生 長く生きてるとやっぱそれなりに出てくる みたいな話があって、で、ま、そういうね 、人生の折り返しを超えたタイミングで そういうものと退治するみたいな、そう いう瞬間が来た時に自分の過去の中の何を 語るか、どう語るか、もしかしたらそこに 嘘が忍ばせられることもあるかもしれない 。でも本当にそれは嘘なんだっけ?みたい な。嘘だとしたら誰が誰につく嘘なんだっ けっていうね。ま、そういう意味ではね、 その私もそうなんですけど、ある程度年を 重ねた人が見た時に自分が重なってくると いうかね、自分自身を重ねやすいテーマの 物語だと思うんですね。ま、例えばその 自分の人生をね、振り返って誰か例えば その自分の子供とか自分の娘とかに語る みたいなことがあった時にその時に全く嘘 をつかない自信がありますか?嘘をつか ないとしてもその語ることの全てが本当に 本当のことだったって言えますかねみたい な思い違いだったり記憶の改善だったり 捏造だったりが入ってないですかっていう ね。で、もしそこに何かそういうものが あったとした時にそういうものがある理由 、嘘だの何だのがそこに入ってきてしまう 理由とかとか原因に向き合えますかって いうね、そういうことを頭の片隅に置いて みると結構響く作品じゃないかなという気 がします。 で、もう1つその本作の大きな魅力って いうことで、ま、豪華なキャストっていう のがあるんですけど、ま、今あの主人公の 子を演じてるのが広瀬鈴すさんと吉田洋さ んっていう話しましたけども、この2人が 、ま、それぞれまず長崎パート20代の 越子とイギリスパート50代の越子を演じ てらっしゃいますと。で、2人とも やっぱりそれぞれ魅力的なんですよね。 あの、お二方どちらもそのうちに秘めた強 さを持つ女性を演じることのできる いわゆる強い なんというかね、何かを持ってる女優さん だと思うんですけど、やっぱりそれぞれ強 さの質が違うというかね、それぞれにその 個性的な強さと美しさを、ま、発揮され てるというかね、というものが見えていて 、で、広瀬鈴さんの方はやっぱりその、ま 、若い日々、若き日々のじ、そういう時代 の、しかもあの戦後復興機のね、独特の エネルギ種さのある時代背景っていうこと で、ま、感情を爆発させるようなシーンも 、ま、そういう派手なシーンもあったりし て、それがすごく印象的だったりするん ですけど、あの、個人的にはやっぱり吉田 洋さんのね、狭まいとか佇ままいに憧れる というか、引かれる部分があるんですよね 。 なんていうかこう泣いた水面のような 穏やかな表情をずっと浮かべられていて、 でも泣いた水面っていうのは本当にね、 その周りのものを反射するばかりでその中 っていうのがなかなか見えてこない。そこ が見えてこないみたいな、そういう感じで 。で、その底に沈んでいるもの、沈められ ているものが何なのかっていうのがまさに この音作の確信部なんですけども、ま、 そこちょっとまた後半のネタバレパートの 方でお話ししていきたいと思うんですけど 、この作品のその女優人の演技の過ごさと か魅力とかそういう意味ではもう1人あの 二階道ふさんもやっぱり触れないわけには いかない存在感を放ってるんですよね。 2階度ふみさんが本作で演じてるのは、ま 、長崎時代の越子の前に現れる謎いた親子 の母親側さ子っていう女性なんですけど、 これが本当に印象的な女性なんですよね。 あの、ま、河のおった小屋というかね、 バラック小屋みたいなところにどこからか 流れついた女みたいな、そういう背景の キャラなんですけど、ま、バ違いに美しい 派手な予をしていて、ま、綺麗な シルエットの色鮮やかなワンピースに スカーフを巻いてたりね、あの、作り物の 人形みたいな華やかな姿をしてるんですね 。で、ま、フランクっていうアメリカ兵と 付き合っていて、で、その彼と一緒に アメリカに行くことになってるみたいな、 そういう雲を掴むような話をしてくる キャラクターなんですよ。で、ま、 1950年代のそのエツコの回層シーン っていうのは長崎が舞台なんで、みんな 長崎弁で喋るんですけど、このさち子だけ ま、これも作り物みたいな標準語で喋る キャラになっていて、すごく異質なんです よね。ま、2階道文さんって、あの、 顔立ちも元々ね、人形のように美しいと いうかね、あの、素の存在自体がそんな 感じなので、ま、なんていうかね、その キャスティングの勝利というかね、 キャスティングによる要素みたいなところ もあるのかなっていう気はするんですけど も、ま、そうは言ってもこのさち子って いう女は本当にその芝居かった キャラクター造形なので、それがなんて いうかね、そのちゃんと異質感とか違和感 を残しながらもそれなりに納得がいくと いうかね、しっくりくるような形に着地 できているのはやっぱり、ま、二階道文 さんの存在感とか演技力とかそういう ところもあるんじゃないかなって気がする んですよね。なんかこう片足だけ地につい ていて片足は中に浮いてるって言う んですかね。その夢とうつの境界線上軽く まいで立ってるそういう感じがあるんです よ。 で、ま、その一方でね、その完全に地に足 がついてるというか、すごく現実的で、ま 、とも言えるようなね、ある意味ですごく 世俗的というか生の人間みたいなそういう 感じの存在感を出してるのが、ま、男性 公平さんと三浦友の、ま、父と息子って いうそういうキャラクターの演じ方なん ですが、ま、この2人ってあの観客から 好かれるか嫌われるかみたいな軸で言うと ちょっと損をしてるというかね、あの必ず しもいい役じゃないんですけどそれを きっちりやり遂げていてで演じられている 役柄キャラクターには交換は抱けないけど 演じている役者には100%交換を抱ける みたいなそういう感じになってるんですよ ね。特にあの三浦かさんの方は、ま、本当 にその三浦さん以外の俳優が想像できない ぐらいのレベルでこのまエツ子の義の父親 であって個人的な御人でもあると募という 老師を完全に演じ切っていて、ま、あの 登場シンはちょっとね、あの苦傷して しまうぐらいの現れ方をしてくるんです けど、後半その彼とその元教え語がある 意味で対決するシーンみたいなのがあるん ですが、その辺りはね、あ 現代の我々から見るとね、何が正しいのか 、どっちが正しいのか、ある意味分かり きっているようなそういう明題というか 議論なんですが、あの時代に生まれて育っ て自分の信情、信じたものに従って いろんな決断を重ねてきた結果としてそこ に立っている1人の人間だったらどう かっていうね、そういうことにすごく紳摯 に向き合った演技をされていて、かなり 見応えがあるんですよね。ま、そこにも やっぱりね、その三浦友の演技を通じて 何かの嘘がその背後にあるようなそういう 気配がだんだん浮かび上がってくるような 感じになっていて、 ま、そういう意味ではその松下平さんとね 、三浦と友勝さんそれぞれ見応えある演技 されてるんですけど、あともう1つその さち子、謎の親子の方の娘がさ子の娘で あるマリ子っていう女の子、ま、公役の 鈴木みおさんっていう方がやってるんです けども、ま、なんて言うんですかね、あの 芝居者というかね、演技の鬼みたいな キャストが並んでるそういう大人たちに 混じって頑張ってたので、ちょっとお名前 は覚えておこうかなっていう気はしました 。 ということで、ま、キャストが 素晴らしかったですって話をしたんです けども、もう1つの大きな、ま、ポイント としてあるのが1980年代のイギリスと 1950年、ま、戦後の長崎を王冠すると いうか、生きする物語自体の大きな二重性 というかね、二重構造だと思うんですよね 。で、そもそもそういう大きな二重構造と いうかね、その2つのものが並び立って その間に何かがあるみたいそういう形と いうか構造が示唆されてるんですけど、 もっと見ていくとメインの舞台になってる 1950年代の長崎自体もある意味その、 ま、大きな転換機っていうことでね、教会 戦場にあるんですよね。2つのものの間に ある世界というかね。ま、復興に向かって いるその人々の生々しいエネルギーとか どんどん経済が発展していって社会も 変わっていくっていう明るい希望とまだ なお鮮明に残ってる後輩と死の記憶が 波打ち際で攻め合ってるみたいなね。ま、 時代が変わっていく中で古い時代から出 られない人もいるし、もっと言えばね、 その古い時代の中で死んでしまった人もい て、で、それと混じり合って共存する形で 、今新しい時代に生きている人たちの中に も まさにそこから出ていこうとしてな何とか もがえてる人もいるし、ま、軽やかに 新しい世界に踏み出していく人もいる みたいな。でもそういうね、あの明るい 希望とか光と共に語られるような新しい 時代にもやっぱり新しい時代なりのその 厳しさとかいびさみたいなものがあって なんとかこう白と黒の2色で塗り分ける ような単純な話じゃないんですよね。で、 そういうことを描かれている、ま、そう いうことを描いている舞台の長崎自体が、 ま、原作でもちらっとなんというかね、 ほのめかされてはいるんですけども、その 海と山の間にある狭の場所なんですよね。 場所自体がそういう属性を与えられている とか、そういう属性を持った場所がビッグ されていて、で、謎の親子のね、さチ子の 住まを住まについても場所が川辺の家で、 ま、川向こうとこちら胃岸と滋願を隔立て ている場所で、そういう構造的な高という かね、その辺りのその繋がりというか 重なりを映画はきっちりとその投集する形 で映像的にもそのドアの手前と向こうとか ね、窓のこちらと向こうとかそういうこと を丁寧に繰り返して見せてくるんですね。 川辺のシーンを見ると常にそのこちらと あちらを結ぶ橋が映っていてでも本当に川 に近づこうとすると立ち入れ禁糸の鎖が 渡してあってねそれを超えていくみたいな で超えると今度3橋があったりボートって いうか小舟があってやっぱりそのある意味 で向こう側に渡っていくためのデバイスが 用意してあってでもドラマ自体はこちら側 でもあちら側向こう側でもなくてその接点 のまさにその場所で起こるようになって るっていうね、 ま、あとその同じ家の中の違う部屋で部屋 の仕切りをまたいで会話が続いていくとか ね。でもその会話の中で相手の部屋に入っ ていくタイミングとかがあったりみたいな 、そういうすごく細かい映像言語の 積み重ねみたいなものがあって、で、そう いうのは私元きっと嫌いじゃないんです けど、あのこの作品についてはそのテーマ とかね、物語自体の構造をなぞるような形 になっていてすごく良かったです。 で、その絵を作ってるのがね、その ポーランドのピオトルニエミス キっていう撮影監督で、で、この方、あの 、元々石川Kさんのポーランド留学時代の お友達っていうことで、あの、松岡まゆ さん主演の三バとエ来という作品でも コンビを組んで制作されてる方なんです けども、すごく独特のタッチがあるんです よね。あの、ま、元々日本の方じゃないん で当然ね、その日本人離れしてるっていう 言い方は当たらないんですけど、ちょっと 他では見ない独特の絵作りというか、 なかなかあの、個性的なんですよね。で、 あの、これはその撮影後のプロセス、 いわゆるポストのカラーグレーディングっ ていうところもあって、必ずしもその撮影 だけの話じゃないんですけど、色合いとか そのちょっとね、その商歩の総天連色 みたいな重向きもちょっと感じさせるよう な、そういうノタがつけられていて、 イギリスのシーンは結構抑えたになって いるのに長崎のシーンは少し現実離れした 部分もあるような、そういう色合いになっ てるところもあって、で、こういうのも やっぱり映言語なんですよね。で、この辺 はね、あの、個人的には、あの、ちょっと さち子の喋り方と通じるところがあって、 意図的に演出としてそうされてるのは もちろん分かるんですけど、若干くどくも 感じられるというかね。あの、私自身は そのもう少しそのなんて言うのかな、その ほめかしのさらに一歩手前みたいなね、 そのぐらいの方が原作的には合ってる気も するんですけど、ま、こうなってる理由も 分かるというか、ちょっとこの辺はまた あの後半のネタバレパートで少し深く語っ てみたいと思うんで、ここではこのぐらい にしておくんですけども、とまでそのそう いうね、独特の個性のある美しい映像で いろんな教会戦場上にいるいろんな人たち が、ま、1人1人 思わせぶりにというかね、いろんな眼 みたいなものも匂わせながら こう繊細に描かれていく。ま、主人公の エ子自身そのね、夫に先立たれて娘を1人 なくして残った1人の娘も1人立ちして しまって1人暮らしをしている。そういう 教遇にある1980年代のエツ子で、その エツ子が振り返っていく、今まさに母親に なろうとしている妊娠中の1950年代の 越子 で、ま、さ子についてもね、その川向こう とこちら側の狭に住んでいて、で、 いろんなところでその橋を渡るシーンで あったりね、橋の向こうが見えるシーン みたいなものが挟まれていく。 で、もっと見ていくとその戦争が終わって 自分も父親になろうっていうタイミングで 社会的な出世を間近に控えた。まさにその 人生のその転換点にいる越子の夫の次郎 っていうキャラクター、松下平さんが演じ てる次郎もそうだし、時代と共に価値観が 変わっていく大きな流れの中でどこにも 行けずに立ち止まっている定年退職した 次郎の父親小方とかね。ま、あと、あの、 1980年代のイギリスパートでもう1人 出てくる、ま、エツ子の事女、エツ子と イギリス人の夫の間に生まれた事女の2期 っていうキャラクターも、ま、ある意味で ちょっと教会戦場上にいるというかね、 転換点に立っているキャラクターとして出 てきていて、ま、あの、ま、これを口いっ ていうのは多分違うんですけど、すごく 丁寧にね、全部そういう風に配置してある んですよね。で、その一部はその映画版の 追加要素っていうとこで、 だからこの作品、その映画版についてはも 作品全体の構造としてね、イギリスと長崎 でその30年っていう時を超えて祈願と願 を生きする物語になっていて、その中で誰 もが何かの何らかの境界線上に立たされて いるみたいな。で、その境界線っていうの はその教会のこっちと向こう側でそれを 超えた時点で自分のアイデンティティ、 自分自身の本質的な何かが書き換えられて しまう避けようのない運命が待ち構えてる みたいな、そういう致名的な教界線なん ですよね。で、これもちょっと後で話そう と思ってるんですけど、本当にこの物語 ってね、そのアイデンティティというか、 自己決定性というかね、エージェンシ、ま 、行為主体性みたいな話も含めて自分が 自分をどう定義するか、何を選んで自分と なすかみたいなそういう話でもあるんです よね。で、そのこと自体がまだ揺いでいる 不かな瞬間の話っていうかね。 ま、ということでちょっとね、あの、少し な的な話になりすぎてしまったんで、 そろそろちょっと前半のまとめに入りたい んですけども、ま、とりあえずあのこの 作品について個人的に一言言っておきたい のは原作がとにかく素晴らしいっていう ことなんですよね。あの、映画とは、ま、 1番大きなテーマである嘘の扱いが ちょっと違っているんですけど、なんて いうかその透明なの上にね、時々が立っ てるようなずっとそういう淡々とした静か な物語が続いていて、最後にポタりとね、 何か人しく色が違う液体が落とされる みたいな。で、落ちたそれがだんだんとね 、糸を引くようにいろんな方向に広がって いって、混じれ合ったり重なりあったりし ていくみたいな。それがポタって落ちた 瞬間にね、ゾクっとするみたいな、そう いう嘘の垂らし方がされてる作品なんです よ。 で、ま、そういう意味ではね、その嘘が 垂らされた瞬間に色々重なり合って解釈が 立ち上がるっていうそういう 不思議な物語なんですけど、不思議な物語 というかね、油断のならない物語なんです けど、そのいろんな解釈が可能とかね、 そういう小説とか映画って割とよくあるん ですけど、そのそうやって出てくる可能に なってくるいろんな解釈があって、で、 それぞれ矛盾するような可能性がね、 重なってくるというかね、同時に存在して 広がいく感じなんですよ。そのどの解釈を 取っても矛盾は消えないというかね。だ からどの解釈も正解にはなりえない中で それがぶわっと広がって重なって矛盾して いるそれぞれが全部一緒に見えてくる みたいなよくわからない3次元的な広がり になっていく 何か1つのシナリオというかねその解釈を 正解として選び取るんじゃなくて矛盾した まま全部が同時に浮かんだり消えたり 重なったりするみたいなそういう作品だと 個人的には感じてるんですね。本当に ちょっと 恐ろしい作品がいいんだなみたいなところ あるんですけど、その上で本作は映画家に あたってかなり大胆なアプローチを取っ てるんですね。ま、ある意味でその原作の その先に踏み出そうとしているみたいな 言い方もできるし、ま、あるいは原作とは 違う方向に行こうとしてるみたいな、そう いう言い方もできるしみたいな。ま、ただ そこにね、すごく明確な意図があるんです よ。その戦後1980年っていう節めの年 に長崎を舞台にした作品を新たに世に 送り出すにあたっての姿勢というかね、 覚悟みたいなものがそこにあるんだろう なっていうのが伝わってくるんですよね。 ま、なるほどっていうかね、納得して しまうというか。ま、ということでね、 ちょっとこの映画家においてその嘘と記憶 っていう話あるいはアイデンティティとか そういう話がどう結びついていくのかで その中でその1つの解釈から浮かび上がっ てくるメッセージは何なのかみたいな ところはちょっと是非あの劇場で皆さん それぞれ確かめていただきたいと思います 。 ということでね、あの、もう少し話をこっ からむしろ本番みたいな感じで進めていき たいんですけど、ネタバレありでちょっと 話をしていきたいと思うので、あの、この 作品のネタバレを踏まずに作品を干渉する つもりでいらっしゃる方はちょっと一旦 ここで止めていただいて、ま、劇場でご覧 になっていただいた後で戻ってきて いただけたらなと思いますので、ちょっと よろしくお願いします。 ま、ということでちょっとね、原作との 比較も含めながらの話になるんですけど、 あの、ま、前半の最後にも言ってるんです けど、原作って本当にいろんな解釈が できるんですね。具体的に何が嘘だったの か、そもそも何もかも嘘だったのかみたい な。で、それによってそのどの解釈を取る かによって立ち上がってくる物語の影も 変わるし、なんならその複数の解釈全部が 折り重なって立ち上がってくる。もう何と も得体の知れないともないものっていうの がね。 そのこの作品の全体像になっていくという かで、それがやっぱりこのま遠い山の光 っていう作品の原作の方の最大の魅力だと 思うんですけど、今回の映画家はそれを ひっくり返すというかね、あの1つの解釈 に全振りしていくんですね。 原作だと、ま、最後にその嘘が立ち上がる 瞬間、ま、ちょっとね、ある会話の中で さりげなくさらっと言われる1つの言葉な んですけど、その嘘が見えた瞬間にわ、 これ何にもわかんなくなったぞみたいなね 、そういう風になるんですけど、そこを 映画では、あ、こういうことなんですね。 そういうことなんですねっていう方向に 収束させていくんですよ。 で、ま、ちょっとね、あの、これ本当に ガチのネタバレっていうか確信そのものの 話をするんで、ちょっとあの、間違えて 聞いちゃってる方は今のうちに本当に一旦 停止して、一旦ちょっと映画館に急いで 行ってきてからまた戻ってきて欲しいん ですけどいいですかね?あの、本当にガチ のネタバレですけど、本当のネタの話に なっちゃいますけど、あの、いいですか? 言ってしまうと、あの、映画版はもう ものすごく明確に謎の親子さち子とマリ子 は越え子とその娘稽古子そのものだっ たっていう話になっていくんですね。 あの、ま、夢に見て思い出した30年前の こと、30年前に出会った2人の、ま、 親子、さち子とマリ子っていう親子って いう話自体が全部嘘なんですね。立ち子の 話として語られるいろんな場面は越子自身 の記憶であって、ま、あるいは後悔であっ て、もしくは憧れだったり理想だったり、 潜在的な欲求だったりするんですね。 映画においてずっと語られてきた長崎の 回層シっていうのはある意味全て嘘って いう、そういうひっくり返され方をする。 で、原作の方がすごいのは、ま、もう ちょっと微妙というかね、すごくさやかに すっと会話の中に忍び込まされる1つの 矛盾っていうかね、あの、これまでの話と 違う言葉が全てを一瞬で、あふやにして しまうそういう恐ろしさで、で、不穏な 雰囲気を残したまま語られずに終わって しまうというかね、閉じなかった輪がいく つも残るんですよ。 そこになんというかね、恐ろしい可能性と 想像が忍び込んでくるというか、忍び行っ てくるというかね。その残酷な妄想とか 推測が忍び込めるような隙間が空いていく 。で、その原作を読んでる立場からだと、 ま、映画初見の人がこの展開をどう思うか ちょっと正直分からないんですよね。あの 、驚愕のド返しみたいに感じられて素直に 驚いてわ、すごいって思えるのか、それと も戸惑うのか。 ま、もちろんね、その小説版も、あの、 この映画が撮ってる解釈は採用できるん ですよ。ていうか、ま、多分小説の中でも 1番、あの、分かりやすいって言ったら あれですけども、1番 メジャーなというかね、可能性の大きい 解釈はこの映画版のそれなんですけど、 それ以外の解釈が一切成り立たないような 形っていうかね、その正解を提示するよう な形でこの映画版では出されてしまって いるので、それ以外の解釈は存在できない んですよね。 ま、いずれにしてもね、その映画版も小説 版もこの嘘っていう大きな仕掛けが、ま、 物語の構造上のポイントというかね、1番 大きな確信のとこなんですけども、 物語の意味的に改めてそこを見ていった時 に、その仕掛けとしてストーリーっていう エンターテイメントの娯楽としての仕掛け としては確かにそこがメインのポイントな んですけど、じゃあそのポイントって どういう意味をね、主人たちにあるいは キャラクターにとって持ってるのか一体何 のための嘘でそれは何を表してるのか何を 意味してるのかっていうのはやっぱり映画 でも小説版でもね共通して大事になって くるポイントだと思うんですよね。 なので、ちょっとね、改めてそのエツ子、 1980年代のエツコの話に戻っていき たいんですけども、 あの、 今映してるのは50年代の子なんですけど 、それを振り返ってるね、80年代の越子 がどういう人物かって言うと、ま、夫に 先立たれてしまって、長女を失って、事女 は1人立ちして出ていってしまって、1人 になった女性なんですよね。ま、残酷な 言い方をすると、妻っていう存在の残子で あって、母という構造の残骸であって、ま 、今でこそね、その女性のあり方、生き方 にはいろんな形があるっていうことが言わ れていて、ま、全然ね、話が違ってきてる 、社会的に違ってきてるってのはある んですけど、これ舞台が1980年代なん ですよね。こんな時代に、ま、ロール モデルとかね、その名文化された理想とか ビジョンとかがない中で自分は何者なのか みたいな、もっと言うとその自分は何者 だったのかっていうね、過去系の問いを 突きつけられるタイミングに来ている女性 なんですよね。 そこに嘘が出てきたっていうね。で、この 吉田洋さんが演じてるエツ子っていう50 代の女性は、ま、おそらくその夫の残した 財産があって、仕事をしてるわけでもなさ そう。おそらく多分その庭の定理をして 人生を振り返る以外にやることもないって いう、そういう状況でもうどこにも逃げ場 がないんですよね。 何も考えずに死んだように生きることが できるならいいんですけど、 なんというかね、ちゃんとこう知性もあっ て意思もあってしっかり自分を見つめる ことのできるそういう能力を持ってしまっ てるがゆえにそういうことも多分でき なくってもう過去に向き合うしかない みたいなそういう存在なんですよね。で、 ま、労に差しかかってそういう厳しい形で 自分の人生に向き合った時にそこから目を 背けることすらできない時に人はどうする んだ、どうなるんだっていう、そういう ところがこの作品の土台というかね、その 基盤としてあるんですよね。 でもその一方でもう1つあるのが全ては 過去のことっていう話なんですよね。その どんなに輝かしい光に満ちた一瞬があって も、どんなに恐ろしい闇に飲まれてしまっ た一瞬があっても、それはもう昔のことで やり直すことも当然できないし、帰って くることもないっていう話もあってね、 その実際に起こった出来事の記憶も今朝見 ただけの夢ももう同じものでしかないって いうかね、同じことでしかないんですよね 。そこに触わないというか。で、そういう 話がね、その大前提としてある物語 っていうのがこの作品のポイントだと思う んですけど、結局 そのそういう現実と認識の相対化とかね、 ペルソナを作り上げて客観視したりとか 虐待化したりとかそういうことをした ところで結局最後は自分がそれをどう思う かっていうとこに戻ってきてしまうって いうかね。そのなんというか本当の底の ところというかボトムのところがこの吉田 洋さんが演じてるエツ子が向き合ってる ポイントでその吉田洋さんが表現してる 素晴らしい演技だと思うんですけどやっ てるとこなんですよね。 で、ま、これをね、その映画とか作品とし て預にはね、味わう分にはいいんですけど 、自分の人生我が身を振り返って考えると なかなか怖いことだったりするんでね、 ちょっと気をつけていきたいというかね、 ちょっとしっかり映画の話の方に重心を 置いていきたいんで、ちょっとなんとか こう気をつけてね、越子の方に話を戻して いきたいんですけど、あの、本作の越子の 嘘の背景にはやっぱりいろんなものがある んですけど、やっぱり1番大きいのは娘を 自士で失わってしまあったことに対する 罪悪感、責任感みたいなものがあって、娘 をイギリスに連れてきてしまったことが 最終的に娘の命を奪ってしまったんじゃ ないかっていう思いで、それに向き合う ために、ま、外部化した、虐待化した かつての自分の姿っていうのがさ子なん ですよね。ま、映画版の解釈で言うと 夢の中でその30年前の記憶が 浮かび上がってくる時にそこですり替え られるそのもう1人の自分の姿というかね 、直視できない自分と大事にしてあげ たいかわいそうだった自分その2人がま それぞれ越子とさち子という形でてか さち子とエツ子という形で現れてくる。ま 、ちょっと意地悪な言い方すると自己嫌悪 とかね、自己批判と自己連、自己愛が それぞれ長崎の回層の中のさち子とエツ子 を作り上げていて、で、ちょっとね、その さチコの方を見ていきたいんですけど、 ま、改めて考えるとなんですけど、その さち子っていう女性が持っているいろんな 要素がね、A子自身のいろんなものの投映 であったり、自己評価であった りっていうことは、ま、すごく納得のく形 で分かるようになってるんですよね。奔法 で、ま、挑発的というか挑戦的でね、物じ しない勇敢な女性自由に自分の希望だとか 欲求を表現することができる。とても スタイリッシュ美しくて、ま、あったかも 本当にね、劇の中の主人公のような芝居 がかったある標準後のセリフを喋る。紅茶 を注ぐ所も美しいみたいな。いろんなね、 ファッション的な要素も含めてこうありた いっていう憧れの対象なんですよね。で、 この映画を見ててね、そのさち子のセリフ 回しに違和感を覚えた方って結構多いん じゃないかと思うんですよね。わざと らしいというかね。ちょっと現実離れして いてリアリティが少し薄いというか、それ こそ昔の症状漫画に出てくるお嬢様みたい な雰囲気のあるセリフになっていて、でも それはその脚本の書き方とかセリフ回しが おかしいとかいうことじゃなくて、まさに そうあるべきものとして意図された形とし てそうなってるんですよね。越子が憧れた 姿が具限化してないといけなくて。 で、もうその一方で憧れだけではなくって 他のものも投映されていてさち子はま、 特に小説の方見るとね、すごく顕著なん ですけどやっぱり愚かで軽ハずみでもあっ てアメリカに行く、アメリカに行けば マリコは何にだって慣れるみたいな、そう いう地に足のついてないようなことを無 責任に放つ存在でもあって、すごく啓迫な ところもあるんですよね。しかもどうも ちょっと自分の子供に対して愛情が薄い。 子猫を見ても可愛いと思わない。動物に 対して可愛いと思わない。で、 こういう部分がね、そういう属性が、ま、 これもやっぱりあの、原作ではすごい健な んですけど、かなり批判的に描かれている 気配があって、見ている側がね、ちゃんと そのこの人物に対して心理的な抵抗という か、摩擦を感じるように作られていて、 その部分がまさにそのエ子自身の自己権語 とか自己批判が統映されてる部分なんです よね。 で、ま、エツ子とさち子が2人で画面に 映るシて、ま、同じ色合いの服を着てい たり、あるいは黄色と紫みたいな捕食の 関係みたいな服を着てることもあったりで 、全然単純な造形になってないというかね 、自己統映としてすごく複雑な形になって いて、で、ここにそういう肉付けができて いるのは原作から映画化するにあたって 解釈を1本に絞って、ま、色々明確に色を 濃くしていったことのメリットというかね 。その元々捉えどのないなんというか暴爆 としたというかね霞のようなさち子の存在 に実材の質量とか重みみたいなものが 加わって捉えどは相変わらずないんだけど も、ま、肉体を持っていることでちょっと 不思議な存在感が増すというかね、 ちょっと魅力が増してる形になってるかな とは思うんですよね。 で、そのね、その投映された1人の人格 っていう器の中に収まりきらないような 複雑なものがこうさ子という複雑な 、ま、アバターって言うんですかね。 ペルソナと、ま、若き日のエツコ地震って いうもう1つのアバター、ペルソナ、もう 1つの自己統映が長崎のシーンのケーブル カーのあの展望台のシーンでね、1つ 大きな希望の光の中で合流していく、融合 していくみたいな。そこがある意味その エツコの人生のクライマックスとして描か れてるんですよね。 ま、このシーンですね。あの、 温暖は目覚めなくっちゃ。そうよ、エツ子 さん。希望は希望ならたくさんあ るっていうそういうセリフがあるんです けど、ま、この希望ならたくさんあるの。 希望ならっていうね、わざわざ限定する ような言い回しにまた含みがあるような気 がするんですけど、やっぱりすごく美しい シーンなんですよね。本当に光の中に2人 が溶けているみたいな、そういうシーンで それぞれいろんなものを投映されて色々 内放しているかつ必ずしもそれが善なる ものばかりではなくてね、必ずしもそれが 愛すべきものばかりでもない2人の姿に光 が重なっていって、やがて全部が光に包ま れて、ある意味その許されていくというか ね、受け入れられていくみたいな すごく美しくてハッピーなシーンではある んですけどただこの映画版が原作と共有し てるのがそこからの転落っていうことでも あるんですよね。 ま、こういう光の中でね、女は何立て できる。これから目覚めていくっていう、 そういう話をしているんだけれども、何で もできるはずのその新しい夜明けを迎えた 世界でなんだってできたはずの女性、ま、 そういってアメリカを目指したさ子、 イギリスに向かったいつの人生が実際に どうなってったか。 ま、ちょっと改めて整理しとくんですけど 、その、ま、長崎の回層シーンがね、越後 の自己統映ていったものだとすると、ここ で描かれてる若き日のえ子自身もまた本当 のね、1950年代の実際にそうであった エツ子の姿とは多分違っていて、ここで 描かれてる越子にはやっぱり越子自身の 思いとかね、いろんなものが反映された 記憶というか、改変っていうわけではない かもしれないんですけど、多分客されてる ものなんですよね。何かが投映されている 。夫である次郎に対して秘密を抱えつつ、 ま、海外しく彼の身の周りのことをこなし ながら義の父が尋ねてきたらお弁当も用意 して、でもその義リの父との間にも語られ てない何らかのエピソードがあるような 気配もあって、で、さらにもっと不穏な モチーフがどんどん重ねられていくんです よね。足に巻きついた蔦とかね、いつの間 にか手に持っていたロープとか。アメリカ に行きたくないって言って逃げ出した マリコに追いついたエツ子がその手になぜ かロープを持っていてで最終的に結局長崎 を離れてイギリスに渡った後娘の稽古は 最終的に首を釣って死んでしまう稽古を その運命に導いてしまったのは自分だと 思ってるみたいなね。 すごくこうね、この光のシーンからの コントラストの激しい暗い結末というか 運命が待ち受けてるんですけど、でもじゃ この作品は越え子が自分自身をさばいてる のか50代になってね、1980年代 イギリスでかつての自分を振り返ってる エツ子が自分自身をさばいてるかっていう そういうわけでもないと思うんですよね。 ま、あの、子供に対して愛情の薄いさ子の 姿にはもしかしたら自分の子供を愛しきれ なかった越子自身の開根とか自己悟とか いろんなものが反映されてるかもしれない んですけど、でも長崎の記憶の中では越え 越子はマリ子を心配して守っていつでもい てで、最後に思い出した路面電車の中、 マリ子もちゃんと幸せそうに笑っていて、 それを外からこの50代のやつ子が見て るっていうそういう描写もあるんですよね 、なんというか、親が持つ子供に対する思 いってのはやっぱり一面的なものじゃな いっていうのはあって、 そういうことを抱えているキャラクターと いうかね、そういうことに向き合っている キャラクター、ま、もちろんね、その稽古 しなせてしまったのは最終的にやっぱり 自分自身の決断だったっていう断罪のよう な思いはあるんですけど、でもだからと 言ってね、その女はもっと目覚めなきゃ 希望ならたくさんあるって言って、光に 満ちた希望を信じたあの展望台のシーンが 嘘だったかっていうとこそんなことは やっぱりなくてそれはやっぱり美しいもの として描かれていてね、それが否定され てるわけではないと思うんですよね。で、 そういう意味ではそのイギリスのシーン、 稽古の部屋の前に置かれてるピアノの コンクールのトロフィーとかもね、劇中で は語られていないイギリスにわってからの 稽古の人生のある側面を覗かせてはいると 思うんですよね。 ま、夜の射敵でね、発酵を当てて持ち帰っ た記憶がやっぱり美しい思い出であるよう にイギリスでもイギリスにおいても やっぱりそういう何かの光のようなものが あったのかもしれないみたいな。ま、 もちろんね、その夜で当てた箱っていうの は極めて不穏な思い出の象徴として イギリスの越子の家に残り続けてはいるし 、トロフィーにしても廊下に飾られてはい ても稽古自身が自分の部屋に飾ったものと いうわけでもないみたいな、そういう断 みたいなものはやっぱり匂わされてはいて 、暗くて重たくて辛いもっていうのは ちゃんとあるんだけども、それだけでもな いっていうかね。で、そういういろんな ことを思った時にその全てを受け止めて 受け止めきって見せているその老齢の越子 を演じている吉田洋さんの佇ままいって いうのがすごく効いてくるんですよね。 もう悲もあって後悔もあってもしかしたら 定感もあって、でもそのどれでもない みたいななんかこうね記憶が高みのように 襲いかかってきても多分ただそこに立って それを見つめていられるようなそういう 感じ自分の人生を受け止めることのその 覚悟の重さみたいなものがしっかり対現さ れているというかね。で、こういう姿を 見せられるとね、やっぱりその振り返って 自分がこの先同じように人生を振り返った 時のこともちょっと考えたりはしますよね 。ま、自分の記憶だってね、何かしら嘘が 混じってるかもしれない。で、それが嘘だ と分かった時にね、こんな風に静かに ソファーに座ってね、紅茶を飲みながら 対善としてられるかっていうね、ま、激道 の人生を生きてきた越子の、ま、あの人生 を過ごしてきた後の姿としてあれだけの 輝かしい希望があって、でもそれが最終的 にたどり着いた冷たくて重たい結末って いうのもあって、その2つの上で、ま、 ああ、やって座ってるこの表情、吉田洋 さんの佇ままいっていうのは本当に 素晴らしい演技だなと思います。 ま、ということでね、ちょっとあのメイン のところの話はできたので、ま、全体を 通じでちょっとあれこれ思うところを ポツポツと語っていきたいと思うんです けど、あの、ま、この作品基本的にその 原作と比べてあらゆる要素が分かりやすく て直接的になってるんですよね。その なんて言うんですかね。原作が持っている 文学作品としての魅力を消してしまってる 部分は正直あると思うんですけど、その 代わりに今我々が考えなければいけない ことがより強く伝わるようになってると いうか、ま、原爆の話、被爆の話、差別の 話、そういうものが本当にしっかり前に 押し出されてある中で、ま、もう1つ、 あの、原作よりちょっと強いニュアンスに なってるのが三浦智さんが演じてる小方の 話だなって思うんですよね。あの、ま、 小方がかつての教え語である松田王と話を するシーンっていうのはこの作品のもう1 つのクライマックスのようになってると 思うんですけど、この部分がね、その 信じること、希望みたいなものも含めて 何かを信じることと信じたことの結果の話 としてね、越子のメインのプロットとも 重ねられてるような気がするんですよね。 心から信じたものに向かって突き進んだ なら、やっぱりどの結果といつか向き合わ なければいけない日が来る。必ずしも信じ たそれが幸せな未来にはつがっていかない 。 ただあの小方の方のこっちの話は決着し ないんですよね。小方の中では何もほぐれ ないというかね。昼休みが終わって チャイムが鳴ってしまって時間はまた進み 始めてしまう。大型には何も残らない みたいな、ま、父と息子の話っていう文脈 になると思うんですけど、大きくは やっぱりこう父と息子の話と母と娘の話が ある意味ちょっと対象的になってる部分だ なっていう気もしていて、 ま、父であるその大方と息子の次郎の間の 関係性っていうのは、ま、映画の中ではね 、ちょっとこちらもすごく分かりやすく なってる部分ではあるんですけど、原作の 方はもう少しニュアンスよりというかね、 あの、そんなに明確に示されてはいない 部分もあって、なんでっていうそのね、 圧歴とかね、そういうものの原因っていう のは名文化されてはないんですけど、ただ 原作の方読んでて思ったのはその父と息子 っていうのはね、対立してもある意味お 互いを切り離せる分ちょっとまだ救いが あるというかね、勝った、負けたって言っ て決着がつくんですよね。あるいは負けた ことにしてもういいよって言って 切り捨てることができる。でも母と娘の方 はなんとか逃げられない感があるというか ね。本当にその父と息子は将棋であれ議論 であれ買ったり負けたりでいいんですけど 母と娘の間にはそもそも勝負にもならない 、勝負にもできないそういう何かがあって 女の方は必然的にいろんなものを引き受け てかなければならないみたいなそういう 感覚が 漂ってる気がして、ま、もちろんある一面 の話でしかないので、現実の父親と息子と かね、現実の母親と娘の間にはいろんな ものがいろんな形がありうると思うんです けど、この物語でかれてるものは例えば2 期が息子だったら描き用がないと思うん ですよね。ま、映画の方はね、その2期も 妊娠してるみたいなそういう話を持ってき て、またすごく分かりやすくしていて、ま 、そこまで行くと個人的にはちょっとやり すぎ感があるんですけども、ま、男同士の 方はね、ある意味そのお前らが戦争始めた けど間違ってたよな。俺らは違うやり方で やるわみたいな。そうやって未来に進んで いこうとする人々がいる方で女の側にはね 、脈々と何度も繰り返されるっていく話が あって、そこに簡単には立ちきれないと いうか、整理のつかない部分があって、 そこでやっぱり嘘が必要になってくる ところがあるかもなみたいな、そういう ことも思うんですよね。ま、あの、この辺 男も女もある意味をみんな嘘ついてるん ですけどね。ま、そんなことをちらっと 思いましたと。 ま、あともう少しあのちょっとね、 ポツポツ気になったところ、個人的に ちょっとランダムに抑えていきたいんです けど、まずあのタイトルの遠い山の光って いう言葉ですね。で、これは原作では割と 明確に示されていて、エチコが住んでいた 団地から見える稲沢の山なんですね。ま、 ケーブルカーで行くところ。ま、遠くから 眺めるとその美しいその山波に、ま、実際 にケーブルで行ってみるって話の中で遠く から眺めたその美しい景色、その思い出の 中には、ま、越子とさ子が希望の光を見た あの一瞬っていうのがあって、時を経て また振り返った時に遠くから眺めるように 思い出すその景色の中にはやっぱり美しい 光がある。そういう話なんですよね。ま、 あの、言葉にしてしまうと野望というかね 、この物語のその色々重たくて苦しくて 暗くて辛いものみたいなものも全部踏まえ た上ででも遠くから山波を眺めるようにし て振り返った時にその景色はやっぱり 美しくてそこにやっぱり光があるような気 がするみたいな。作品全体の方向性を決定 付ける言葉だと思うんですよね。これは やっぱり肝だと思うんですよ。この タイトルでなければこの作品はやっぱり ここまで受け入れられない。受け入れられ なかったんじゃないかなみたいな。 ま、あと、あの、全然細かいところで、 えっと、1950年代の長崎のシーンで 映画のポスターが映る場面がありますよね 。あの、黒沢キ監督の生と小や筋郎監督の お茶漬けの味とそれからアメリカ映画の3 セット通り。とりあえずこの3つは目に 入ったんですけど、あのこの遠い山波の光 っていう作品に関しては昔その原作を読ん だ時にあの川りの辺りの地域が水けが悪く てあちこち1連中水が溜まっててぬカルみ まみれでみたいなそういう描かれ方をして いてでそこでちょっとねあの生きるを 思い出したんですよね。あの生きるは皆 さんご存知の通りその黒沢明監督の作品で 亡霊に差しかかって嫁名宣告をされて しまったというかね。ま、たまたまそれを 知ってしまった主人公が自分の人生の意味 を考える。で、その中でその水きの悪い 土地の水きをな何とかするみたいなそう いう話が出てくるんですけどその辺 やっぱりちょっとね連想の意図が引いて あるのかもしれないなていう気がするん ですよね。ま、もっと言うとその原作を 書いてる小説原作の数石っていうのはこの 生るっていう映画作品が、え、2022年 にイギリスでリメイクされてるんですけど 、そのリメイク版の生きるリビングって いう作品で脚本を書かれてるんですよね。 この辺の符号はちょっと抑えておきたいか なという気がします。で、ちなみにあのお 茶漬けの味とサンセット通りの方は私は 眉間なんですけども、ま、お茶漬けの方は あの派手な生活を従がる奥さんと地味で 面白みのない素朴な夫がっていう話だった と思うんですよね。で、賛成党りはかつて 一斉を風備した大女優が年置いてなおその 輝かしい日々を忘れられないでいて、ま、 ある意味過去に縛られていてっていう話で なので、ま、やっぱり何か引っ張ってきて ある感じはちょっとするんですよね。なん でちょっと眉間のこの2作についてもいつ か見てみようかなっていうのは思いました ね。ま、あとそういう連想で言うと、あの 子供の頃のさチ子、ま、もしくはエツ子が 読んでいたディケンズのクリスマスキャロ ルっていうのは出てきますけど、これも 老人が過去と現在と未来を見せられ るっていう話で、この辺も対応取れてるな みたいなのはあります。ま、これは ちょっと原作にも絡まなんでね、映画か 云々ってことではないんですけども。 それからもう1つ、あの、ロープの話です よね。あのこの作品において1番不穏な モチーフなんですけど、原作よりも少し 越子の周りの影を濃くしている感じがある と思うんですよね。あの、次郎が戦争で 片方の手の指を失っていてっていう映画 独自の設定とも絡むんですけど、ネクタイ を結んであげるシーンがあって、それと もう1つ、ま、大事な会議に出かける次郎 の靴の紐を結んであげるシーンで、ま、 校舎の方はね、ちょっとセリフもあって なかなか強いシーンになってるんですけど 、これ単にその女性が男性に従っていう ところをなんていうかね、ビジュアルに 示してる。そういう立場に置かれてる エツコっていう話だけではなくって 肝上のものを閉めるっていう行為として2 回繰り返されてるのはやっぱりそこに意図 があるような気がするんですよね。ま、 元々その足に絡まったつとかね、ロープ みたいなのはその自殺した娘の死に方に 対するを意図して出してある要素なんです けど、この映画家ではその越子が日常の中 で抱えていたまた別の要素にもひょっとし たら重ねてあるかもしれないみたいな、 そういう気がしてくるんですよね。で、 そういうのは嫌いじゃないというかね。ま 、ついでにね、その靴紐に絡んで言うと 自分で靴紐を結んで出かけていく大型って いうシーンもあったりして、ま、指を失っ たんで自分では靴紐も結べない次郎の大避 ってのもちょっと複雑な並べ方になってる んですよね。その次郎と小方の関係性も 踏まえたりすると。 ま、あの、ネクタイとか靴紐を結ばせる低 感な夫っていうのはある意味ステロタイプ でもあるんですけど、次郎の場合は戦争の 結果そもそも自分ではそれもでき、それが できないっていう要素が足してあるので、 ちょっと感情的に複雑になるような感じに なっていて、 で、それに対して自分はどうも戦争に行か なかったっぽいお方がね、自分で靴紐を 結んで出かけていく。で、この辺りのね、 ちょっと人筋縄ではいかない感じにして あるのが、ま、なんかこう悪くないかな みたいな気はちょっとしました。 ま、そういう感じでね、ちょっとこの作品 映画家に対して本当にいろんなものを 足し込んであるんですけど、ま、原作がね 、好きだったなっていう立場からすると なかなかやっぱり複雑な思いも正直あるん ですよね。 あの、ま、原爆が投化されたその当日に たくさんの子供たちが死ぬのを間の当たり にして何もできなかったエツ子が開根と 自績の思いを爆発させるシーンとかね、 すごく美しい映像で捉えられていて、 素晴らしい演技であるとも思うんですけど 、それがあることで それがどうしたのって言ったら言葉は悪い んですけど、物語全体の中でね、越子に ついて描かれているものが少しぼやける だけのような気がするんですよね。あの、 余計とまでは言わないんですけど、必要 ない要素というかね。長崎シーンの最後の 方で越え子が次郎に私がもし被爆してたら 結婚してなかったって聞くシーンもね、 あるいはその小方を見送る駅のシーンで 私たちも変わるんですっていうセリフとか ね。ま、戦後80周年のこの節目に改めて 語るっていう観点で、ま、本当にね、 改めて追加で語りしてる部分っていう、 そういう感じの要素なんですけど、で、 その80年っていうこの節目で改めてって いう層の文脈では必要な要素というかね、 重要な要素であるってことは同意するん ですけど、元の原作の流れからすると やっぱり異物感というかね、付け足し感は 否めない気がしてしまうというか。 原作のエツ子の方はある意味その必要最低 限というか必要最小限の要素で十分に複雑 で陰営影のあるキャラクターになってるの にそこにそういうね外部的なメッセージを 込めることでむしろちょっと散らかった 印象になってしまってるというかね。ま、 演じてるのがね、広瀬鈴さんなので、ま、 あの目の光とかね、あるいは逆にあの目に ハイライトが入ってない姿とかを見せ られると、ま、納得はしてしまうんです けども、ま、ちょっとあの文句みたいな話 になってきてるんですけど、とにかくその この映画家は原作とはちょっと評価という かね、価値観の軸が違うというか、ま、 やっぱり1982年の作品を2025年の 今改めて語るならっていうね、そういう 問いの立て方からスタートしてるんですよ ね。ま、原作はあの終戦から40年経って ない時代に書かれた作品であって、終戦 から作品の誕生までよりも作品が生まれて から現在までの方がよっぽど遠く離れてる 。実際に戦争を経験した人たちももう ほとんどいなくなってしまってる。そんな 中で原作に忠実な形で映画を作ったら むしろ1980年代にあの作品が人々に 伝えたものを伝えられないかもしれない みたいな、それは非常に妥当な疑問だとも 思うんですよね。 ただ結果としてその原作が持っていた厳な 気配というかね、曖昧さとか加疎さみたい なものをガッと大胆に塗りつぶしたような 形の映画になってるっていうのはあって、 そこについてやっぱりちょっと個人的には モヤモヤと思うところもあるんですけど、 その一方でその塗りつぶしてるね、筆と 絵の具が広瀬すず、吉田洋、2階道、三浦 と友かずっていうんじゃ、ま、もう参り ましたっていうかね、納得せざるを得ない という ま、ということで、ちょっと何ともね、 はれの悪いというかね、モヤモした話には なってしまうんですけど、ま、その モヤモヤ感もね、ある意味原作が持ってい たテストにひょっとしたら近いかもしれ ないなっていうことで、ちょっと乱暴に 閉めたいと思います。ま、このチャンネル は基本的にあの映画を応援するっていう スタントスでやってるんですけど、たまに はこのぐらいニュートラルな会があっても いいかなということで、ま、もしあの共感 いただけたんであればその高評価ボタンと かね、チャンネル登録とかよろしくお願い いたします。あとこういう話も含めてね、 メンバー限定で少し踏み込んだ話もして たりするので、もしよかったらちょっと このチャンネルちょっと応援してやっても いいよっていう方は、ま、月額わずか 90円からご用意してますんで、 メンバーシップの方、ま、参加ご検討 いただければなという風に思います。 ということで、え、最後までお付き合い いただきましてありがとうございました。 また次の魔でお会いしましょう。お相手は 私、クラッションシラマの太郎でした。 バイバイ。 [音楽]

広瀬すず・二階堂ふみ・吉田羊・三浦友和の超豪華キャストでカズオ・イシグロの長編デビュー作を映画化した石川圭監督の『遠い山なみの光』をディープに語ります。一体「何」が嘘で、原作とどこが、なぜ違うのか、そしてその背景まで、しっかり説明していきます。後半はネタバレありで核心に踏み込みすのでご注意ください🙇‍♂️

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本動画の章立ては以下の通りです:
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0:00 イントロ 〜この動画で語ること〜
02:32 映画『遠い山なみの光』の概要
06:16 主人公・悦子という妻/母/女
10:11 キャストの魅力・広瀬すず・吉田羊・二階堂ふみ・松下洸平・三浦友和
16:30 舞台の二重構造が作る、二層構造の物語
27:32 ⚠️ネタバレ⚠️ その「嘘」とは何なのか?
32:30 ⚠️ネタバレ⚠️ 人生を「回想」する女・吉田羊の悦子
37:26 ⚠️ネタバレ⚠️ 「回想」される女・二階堂ふみの佐知子
47:39 ⚠️ネタバレ⚠️ 原作との対比
57:29 ⚠️ネタバレ⚠️ 個人的結論〜おわりに
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このチャンネルは映画ポッドキャスト Crush on Cinema! の別館として、観てきた映画などについて気軽にざっくり語っていくフリートークコンテンツです。ご感想やご意見ご要望はぜひお気軽にお寄せください!チャンネル登録もお待ちしております!

#遠い山なみの光 #カズオイシグロ #石川慶

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©️2025 A Pale View of Hills Film Partners

1件のコメント

  1. 2回観ましたが、納得の解説でした。仰せの通り、映画化で、非常に分かり易くしているので、見解の分かれるところが無いのですね。原作者も参加の映画なので、正解なのでしょう。

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