音読第17回『娘とわたし』

娘と私、鬼たちは何度も見物に行った。 しかし6ヶヶ原は初めてだった。鬼田へ 行くたびに通っていたはずであるにも かわらず、そこで下者したのは初めてで ある。思うに私は鬼田しへは半分義りの ような形で出かけていたのだろう。最初の 時は確かにあの岩山が珍しく私も人並みに 驚いたものだ。ところが4年ほど前から夏 は追い分けで暮らすようになって鬼田試験 物は半分付き合いのようになってしまった 。初めて追い訳に遊びに来た客との 付き合いである。 もちろんだからおしたちはもう飽きたと いうのではない。私はあのいかにも名所 らしい名所であるところがむしろ好きで ある。あんなところは1度見ればたくさん だという人もいるだろうが私はそうは思わ ない。私は今でも1日中あの不思議な岩山 を眺めていたいとさえ思うくらいだ。天面 3年に朝が吐き出した巨大な腹の山を1日 でゆっくり眺めてみたいものだと思う。 しかしどういうわけか鬼出し見物はいつも 慌たしい。これはいわゆる名所というもの の運命かもしれない。誰でも知っているし 誰でも1度は言ってみたい。しかしだから と言って人々は軽井沢へお吉田志しだけを 見物するために来たわけではなかった。 鬼押し出し見物がいつも泡正しいのはその ために違いなかった。私が半分義りのよう な付き合いというのはその慌たしさのため だ。そして六里ヶ原を私が見落としていた のも同じ理由からに違いなかったのである 。 私だけでなく長女も多分六里ヶ原は初めて だったと思う。少なくとも私と一緒に来た ことはなかった。念のため私は長女に尋ね てみた。そうだろう。うん。だって お父さんおい分けじゃどこにも連れてって くれないでしょ。そんなことないだろう。 石村さんだって登ったし。関さんなんて 昨年だよ。お父さんだって元が幼稚園の 大きい組の時だもん。 関村さんは朝山の南面や西の小山だ。 追い分けから見ると朝の左側にちょうど 横綱麻山の梅原が立ち持ちのような格好に 見えた。しかし小山とは言っても 1668m の高さである。今考えれば長女はよく登っ たものだと思う。関ソンへは合計7名で 登った。私たち親子4人と追い訳に遊びに 来ていた義父義まいの友人という顔れで ある。最もりに4時間かかった。土地の人 は40分くらいで登るらしい。それでも とにかく長女は自力で石村さんへ登った。 隔ばったのは下りである。それもすでに山 を降りて追い分けの草減に入ってからだっ た。私は仕方なく長女をおぶって草原を 歩いた。 長女にはその時の覚われた記憶がどの くらい生々しく残っているだろうか。私に は重たく腹立たしかった記憶が残っている 。この頃の子供は音部のされ方が下手なの ではないか。体重の全てがおしのように 尻りにかかってしまうようだ。もっと しっかり手で肩に捕まりなさいと言うと 両手をこちらの首に負けつけてくるので 苦しくて歩けない。自分が子供だった時は もっとうまく音部されていたのではないか と思う。もっと音部され方がうまかった。 そんな気がする。 随分色々な人に音部してもらった記憶が あった。一体どれくらいの人に音部された のだろうか。私はすぐにそのうちの何人か の顔を思い出すことができた。しかし残念 なことにはあの何とも言えない音部の神味 な感覚までは思い出すことができない。 記憶はあった。しかしもはやその感覚は私 から失われていたのである。私は草原での 長女の重みを思い出し、かつて私自身が誰 かの背中の上で味わった音部の感覚を想像 してみる他はなかった。 思うに誰かを音部しなければならなくなっ た時、すでに人間は自分が音部された時の 感覚を忘れてしまわなければならないのか もしれない。親子というものも多分そうな のであろう。 しかし親子とは言っても息子と娘では随分 違うものだ。少女が生まれてからそれが 分かった。一言で言えば男の子と女の子と の違いであり、これは全く当然すぎる くらい当然な話であろうが、正直なところ 私は長男と長女を1人ずつ持ってみて 初めて自分が本当に父親になったような 気持ちになったのである。 男と女とはそもそもの始まりからこんなに も違ったものであったのか。私の驚きは誠 に平凡ではあるがそんな風なものだった。 ある時、私はそのような自分の感想を1人 の女流作家に話した。彼女は結婚をしてい たが、子供を持たなかったので、私の言葉 には少しばかりの皮肉と優越な気持ちが 込められていたと思う。 ところが、その女流作家の返事は意外な ものだった。彼女は私の言葉になるほどと 関心しなかったばかりではない。それは また随分と奥手なんですね。驚きました。 この返事によって彼女は逆に私をなるほど と関心させてしまったのである。小説家と もあろうものが男の子と女の子を持って 初めて男女の違いを知ったなどとはまるで 嘘のような話ではないか。女流作家の返事 は多分そういうことなのだろう。従がって それ自体はこれまた4国当然の言葉であり 改めてなるほどと関心する方が不思議で あるのかもわからない。しかし私がやはり 関心したのは女流作家の返事がいわゆる 一般論としてではなく私個人に特別なもの として受け取られたからだった。それは こういうことだ。私は7人兄弟の次男だっ た。上から6人が男である。7人目のただ 1人の妹と私はちょうど一回り12歳違っ た。そんなわけで私の家には女友達という ものが全然遊びに来なかった。妹自身とも 年齢が離れすぎて日常的に接することが 少なかった。一緒に遊んだこともないし妹 の遊びに興味を持ったり観察したことも なかった。なるほど。これは自分たちとは 違っている。なぜこんな遊びが彼女たちに は面白いのだろう。そういった疑問や 不思議さえ生じてくる余地がなかったので ある。要するに私は女の子というものを 知らなかったわけだ。 もちろん私も人並みに女性というものに 関心を抱くようになってからは男と女と いうものの違いを痛感させられた。 ただこれほどの違いというものが一体どこ からいつ頃から生じてきたのかその二葉の 部分分岐の発端がどうもよくわからなかっ た。それが自分の長女を眺めることによっ てようやく分かったような気持ちになった のである。その点長男との関係は単純だっ た。私は長男を眺めることによって しばしば自分の子供時代を思い出された。 そしてそこ思い出される自分と今目の前に 眺めている息子とを比較したものだ。喧嘩 の場面においても怪我をした場面において も泣く場面においても母親に叱られる場面 においても運動会の場面においても嘘を つく場面においても歌う場面においても 一緒に風呂に入ってその肉体を眺める場面 においても息子の場合はそれら全ての場面 をかつて私が体験したものを息子は追い 体験しているのだという風に眺めていれば よかった。また同時に私は私で目の前で 眺めている息子を通して私自身の過去を 追い体験していたのである。ところが娘の 方はまるで事情が違っている。彼女の現在 を私の過去の体験の中に見い出すことは できない。長男の場合には自分の過去と どこかで繋がっているという気やすさが あった。よくも悪くも彼は私の過去の一部 だ。未来においても多分そうだろう。 ところが娘の方はそうはゆかない。その 現在もその未来も私には体験できないもの だ。そういう意味で珍しい存在である。 不思議な存在である。私の子供の頃のこと を色々尋ねるのも長女の方だ。お父さんも ご無断やった。ささ作った。ピアノ習った 。お父さんもお父さんのお父さんに叱られ てたの?長男の方はこの種の質問は ほとんどしなかった。するとすれば私にで はなく、むしろ母親の方にかもしれない。 この理屈が理屈ではないにしても何かの形 で長女にも分かっているのだろう。私に 長女の体験を体験することができないよう に。彼女には私の体験を体験することは できない。子供には子供の方法でそれが 分かっているのかもしれない。 六里ヶ原は風が強かった。自動車道路を 鬼押し出しへ向かって左側様。右は木の ないガランとした石コの腹だ。草減でも ない。その石コの腹にポツンと1つ 盛り上がった丘があった。お山の大将俺 1人後から来るもの突き落とせ転げて落ち てまた登る赤い夕日の丘の上。そんな丘だ 。しかし6里ヶ原の丘の上で転げ回って いる子供たちの姿はなかった。みんな車で 素通りしてしまうのかもしれない。丘の上 の風はさらに強く風しに立った私が投げる 草のマリオを容赦なく押し戻した。 六里ヶ原から眺める麻山は随分珍しいもの だった。これは多分朝の東面だろう。私が 最も見慣れているのは追い訳から見る朝の 南面だった。追い分け塾後の球道にある 油屋と本人のちょうど中間あたりから入っ ていく緩い坂道になった登山道が 1000m林道と交差する地点。そこから 眺める朝が私は好きだ。朝山のま、標高 1000mの地点である。ここから眺める が最高ですよ。追い訳の我が家を訪れる 知人をそこへ案内しては私はそう説明した 。それにしても追いで夏を過ごすように なってからまだ4年にしかならない私が 早くも追い分け自慢をするとは。これは坂 国形の話かも分からないが私はそこから 眺められる南真正面向きの朝が好きになっ ていた。何の変哲もない代形である。 和ケツを伏せたようなもんじゃないかと 言えるかもしれない。 確かに小辺りから眺める朝の方が情緒的 だった。西面の裾が長く王引き、山全体が 女性的に見えた。しかし私は何の蹴れも なく真南を向いた男性的な朝山が好きだ。 白園は山頂の向かって右東寄りの辺りから に雲か煙か見うぐらいに立ちのっている。 六ヶ原の朝は小室からの眺めとも違ってい た。ここでは小室からのように円形では なく山はもうすぐ間近に迫って見える。 ここの標は1300mだというから 2542m の朝山頂へは現実では未だはかに遠い。 しかし私はこのままその時代に娘と一緒に 楽ラクと登っていけそうな気がした。 もちろん錯覚に決まっているが、それほど 6里ヶ原の朝はすぐ間近に低く見えたので ある。 山武道の軍落を見つけたのは応募たる原の 中だった。6里ヶから車でどのくらい走っ ただろうか。すでに私には法格が分から なくなってしまっていたが、あるいはつい 村の近くだったかもしれない。朝は 6里ヶヶ原よりもだいぶ遠いて見えた。 お父さん、狐ってが好きなのとこの葉の面 をかぶった長女が訪ねた。さあどうかな? 本当に狐出るのかな?そりゃ出るだろ。 ここに。鈴木原は中央がやや低く、そこに 立つと緩い傾斜面を覆う鈴木が波のように 見えた。そうだな。本当に狐の運動場 みたいなところだな。狐が運動会の?ああ 、ここで。ああ、お父さん、狐って本当は 悪くないんでしょ?ああ、物語じゃ人を 騙したりするけど、この葉のお金を使っ たりな。物語じゃずるし恋役になってる けどさ、本当の狐は可愛いんだよね。私も 娘のようにこの葉の面をかぶってみた。 そして2つの穴から覗くと緩い傾斜面を 覆っている隙の波が大勢の狐どもの尻尾の ように見えなくもなかった。 確かのこの原に煮わしいのはたぬきでは なくて狐だろう。狐の裁判を読んだかな? 王様まで殺しちゃって自分が王様になっ ちゃうんでしょ?ああ、でもあれは物語 でしょ。山道を発見したのはコの葉の面を 外した時だった。まだこの葉の面をつけた まま立っている娘の足元に黒紫色の小さな 粒の一が見えた。ほら、山武道だよ。私が 指刺さすと娘はこの葉の面をつけたまま 足元にしゃがみ込んだ。私は手に持ってい たこの葉の面を娘に渡した。すると娘は その葉を皿にして接せと山ぶどを積み始め たのである。

皆さまいかがお過ごしでしょうか。アーリーバード・ブックスの松崎元子です。私の父後藤明生作品の音読をお届けする当チャンネル、17回目となる今回は『娘とわたし』というエッセイを読みます。これは平凡社の雑誌「太陽」1975年新年特別号(1974年12月発行)に掲載されたものです。お正月にちなんで「日本こども遊び集」という特集が組まれています。この企画は私にとっても記憶に残るものです。というのもエッセイと共に父と私のグラビアが掲載されたからです。当時私はもうすぐ8歳になるころだったと思います。撮影は秋の軽井沢で行われましたが、毎夏訪れる信濃追分ではなく、初めての場所で旅行気分は高まり、宿泊は老舗の万平ホテル、周囲の大人たちにかわいがられ調子に乗ったのもつかの間、撮影は過酷でした。写真家の高梨豊様の容赦ないリテイク指示に従って強風の中何度も風車を持って走り、草で作った鞠を投げ上げ、「もういや」とふてくされたとて聞き入れられるはずもなく。おまけに着せられた服も意に反するものでした。撮影に合わせて何着か母が準備したのですが、私が一番着たかった黒に赤いイチゴの編み込みが入ったセーターは却下され、清楚なブラウスや嫌いだったワンピースを着ることになったのにもテンションが下がりました。今写真を見るとなかなか可愛い服だなとも思えますし、やはり黒い服は避けたかったのだろうとも察しがつきますが、子供というのは些細なことにこだわるもので、なかなか納得できませんでした。
 この撮影には「太陽」編集部チーム、高梨豊様チーム、後藤家と共に草花遊戯指導という肩書で斎藤たま様という女性が同行されていました。斎藤様が作った花冠、オオバコの葉の毬、草の人形、笹舟、風車、お面などが特集で紹介され、それらで遊ぶ私たちの様子が撮影されています。斎藤様は人里離れた自然の中で生活されているとのことで、長い黒髪に素朴な服装で不思議な空気を纏っておられたのをぼんやりと憶えています。母は「あの人は一人暮らしだけど幽霊が一緒にいてくれるので全く寂しくないと言っていた。変わった人だ」と帰宅してから話していました。エッセイの終盤に狐が運動会をするというススキ原のことが出てきますが、おそらく斎藤様がそのようなお話をされたのだと思います。
本文の中で父は
「・・・長女は自力で石尊山へ登った。へたばったのは、下りである。・・・わたしは仕方なく、長女をおぶって草原を歩いた。長女にはそのときの、おぶわれた記憶がどのくらい生ま生ましく残っているだろうか。わたしには、重たく、腹立たしかった記憶が残っている。このごろの子供は、おんぶのされ方が下手なのではないか。・・・自分が子供だったときは、もっとうまくおんぶされていたのではないかと思う。」
と不満をあらわにしながらも
 「・・・ここ(六里ヶ原)の標高は1300メートルだというから、2542メートルの浅間山頂へは、現実ではいまだ遥かに遠い。しかしわたしは、このまま裾野伝いに、娘と一緒に楽々と登って行けそうな気がした。もちろん錯覚に決っているが、それほど六里ヶ原の浅間はすぐ間近かに低く見えたのである」

とも綴っています。あくまで想像のこととはいえ、またもや娘の私と山を登っていこうと考えているのです。きっと途中で歩けなくなり、へたくそにおぶさってくるであろう私と一緒に浅間山を目指すさまを喜ばしいと考えてくれていたとは。親子とは妙縁の極みです。

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