【実話の物語】年金14万円、日本での暮らしは厳しい…70歳女性が生き抜く方法【70代 一人暮らし】
私はかつてこの部屋で静かに人生の幕を 下ろすと決めていました。それなのに今私 は南の島への旅立ちを準備している自分が います。自分でも信じられないことです。 温かくゆっくりとしたナレーションが響き ます。こんにちは皆さん。今日も私たちの チャンネルにお帰りなさい。 今日は1つの物語をお聞かせしたいと思い ます。70歳の女性が人生の最後の章で 下した勇気ある決断の物語を時には私たち は最も予想外の瞬間に人生を変える選択に 直面することがあります。それでは星の 明子さんの物語を始めましょう。の明子 70歳。私の名前です。結婚してから45 年間夫の剣郎と共に歩んできました。賢郎 が真金高速で突然このよう去ってからもう 2年と3ヶ月が経ちました。意思は言い ました。苦しまずに行ったのですから幸せ な最後でしたよと。でも私には賢二次郎が 最後に何を思っていたのか分からないまま でした。私たちが住んでいたのは地30年 の古いマンションの4階にある2DKの 部屋でした。エレベーターはなく毎日階段 を登り下りするのが私の唯一の運動でした 。拳郎が生きていた頃はその階談目になり ませんでした。 彼と手をついで上がる階段はまるで雲の上 へ向かうかのように軽やかでした。でも今 は違います。買い物袋を両手に持って階段 を上がる時行きれがひどくなりました。2 階まで上がると1度立ち止まり3階でまた 息を整える。拳郎がいたらきっと荷物を 持ってくれたでしょう。 そんなことを考えると胸が締めつけられる ような思いがしました。朝は毎日6時半に 目を覚まします。け次郎がいた頃と同じ 時間です。でも隣のベッドには誰もいませ ん。私は1人分の布団を整え、1人分の 朝食を作ります。け次郎は納豆が好きでし た。私は卵焼きを作るのが得意でした。今 でも週慣で2人分作りそうになって途中で ガに帰ることがあります。キッチンで1人 分の味噌汁を作りながら私はよくけ次郎と の会話を思い出していました。あき子、 今日は何をするんだい?いつものスーパー に買い物よ。気をつけて行っておいで。 そんなもない会話がどれほど大切だったか を今になって思い知らされました。テレビ のニュースを見ながら朝食を取るのも毎日 の週慣でした。最近のニュースは暗いもの ばかりでした。高齢者の孤独士、認知症の 問題、年金制度の不安。まるで私たちの ような年齢の人間に対する警告のようでし た。賢郎がいた頃はそんなニュースを見て も他人ごとのように感じていました。でも 今はそれが明日の自分の姿かもしれないと 思えてなりませんでした。午前中は掃除を します。2人で住んでいた頃と同じように 全ての部屋に掃除機をかけます。でも け次郎の所斎だった部屋は今でも手を つけることができませんでした。彼の本、 彼のペン、彼が最後に読んでいた新聞が そのまま残されています。まるで彼が ちょっと散歩に出かけただけですぐに帰っ てくるかのように掃除をしているとよく け次郎の思い出の品者に出会いました。彼 が大切にしていた満年室2人で旅行した時 の写真結婚記念日に送ってくれた ネックレス。それらを見るたびに涙が溢れ そうになりました。でも泣くことはでき ませんでした。1人で泣いてしまったら そのまま立ち上がれなくなりそうで怖かっ たのです。午後になると近所のスーパーへ 買い物に出かけました。け次郎がいた頃は 彼の好きな魚や肉を選ぶのが楽しみでした 。今日は何を作ろうかと考えながら食材を 選んでいました。でも今は1人分の食材を 選ぶのがこんなにも寂しいものだとは思い ませんでした。スーパーで働く若いレジの 女性はいつも親切でした。星野さん、今日 もお疲れ様です。何気ない言葉でしたが、 それが私の1日で唯一の会話になることも ありました。家に帰るとまた静寂が待って いました。時計の針の音だけが時間の経過 を教えてくれました。私の月収は年金の 14万円でした。剣事郎の厚生年金と私の 国民年金を合わせても決して裕福とは言え ない金額でした。でも2人で住んでいた頃 は工夫次第で十分に暮らしていけました。 賢郎は家計のやりくりを私に任せてくれて いて、私もそれを誇りに思っていました。 家計簿をつけるのが結婚以来続けている 習慣でした。食費に3万円、高熱費に 1万5000円、通信費に5000円。 この他の生活費を合わせても月に9万円 程度で生活できていました。残りの5万円 は貯金に回していましたが、最近はその 貯金の意味が分からなくなっていました。 何のために貯めているのか、誰のために 残しているのか。剣事郎がなくなった時、 生命保険金として800万円が支払われ ました。彼が私のために残してくれた最後 のプレゼントでした。そのお金は定期預金 に預けてありましたが、私はそれに手を つけることができませんでした。それは け次郎との最後の繋がりのような気がした からです。娘の里よは東京で家庭を築づき 、2人の子供を育てていました。月に1度 電話をくれるのが私にとって唯一の楽しみ でした。でも電話での会話はいつも表面的 なものでした。体調はどう寂しくない? 何か困ったことはないの?私は大丈夫よと 答えていましたが本当は毎日が孤独で辛い ことを伝えることはできませんでした。 里吉には里よしの生活があります。夫の 転勤で東京に住むことになり、私を神戸に 残すことを申し訳なく思っているのは 分かりていました。母親を1人にしてと 彼女は時々言いました。でも私は若い家族 の負担になりたくはありませんでした。 それが私の最後の意地でした。夕方になる と1人分の夕食を作りました。け郎が好き だった魚の煮けを作ることもありましたが 、1人で食べると味けないものでした。 テレビをつけてバラエティ番組を見ながら 食事をしましたが、笑い声が急遽に響く だけでした。け次郎がいた頃は番組を見 ながら一緒に笑っていました。あの頃の 笑い声が恋しくてなりませんでした。8時 になると布団に入りました。け次郎がいた 頃と同じ時間です。でも眠りに着くまでの 時間が長くなりました。暗闇の中で天井を 見つめながら考えることが多くなりました 。このまま1人で年を取っていくのだろう か。いつまでこの生活が続くのだろうか。 もし私が病気になったら誰が面倒を見て くれるのだろうか。そんな不安が頭を よぎるとなかなか眠れませんでした。剣郎 の隣で眠っていた頃は彼の値息を聞き ながら安心して眠ることができました。今 は静寂が恐ろしく感じられることもあり ました。もし私がこのまま眠ってしまって そのまま目を覚さなかったら誰が気づいて くれるのでしょうか?ある日の午後いつも のように郵便受けを確認すると1枚の パンフレットが入っていました。調子には 笑顔の高齢者たちの写真と高齢者向け有料 老人ホーム桜の里という文字が大きく印刷 されていました。私はそれを見た瞬間心臓 が早金を打つのを感じました。まだ早いと 思いながらもなぜかそのパンフレットを 捨てることができませんでした。リビング のテーブルの上に置いたまま日に日に 見つめる時間が長くなっていきました。 最初は1日に1度見るだけでしたが、 だんだんと朝食の時、昼食の時、夕食の時 と1日に何度も手に取るようになりました 。パンフレットには清潔で明るい個室の 写真が並んでいました。ペット、デスク、 小さなソファ、ミニキッチン 全てが新しく介護が必要になっても安心し て暮らせる設備が整っていました。食堂で は栄養バランスの取れた食事が提供され、 レクリエーション活動も充実していました 。専門のスタッフが24時間体制でケアし てくれるのです。入居費用は1000万円 、月額利用量は20万円でした。健二次郎 が残してくれた保険金と私たちの貯金を 合わせれば何とかなる金額でした。でも私 にとってそれは人生の全てを継ぎ込むよう な大きな決断でした。1度入居したらもう 後戻りはできません。パンフレットに移っ ている高齢者たちは皆幸せそうに笑ってい ました。でもその笑顔が本物なのか、それ とも演技なのか私には判断がつきません でした。本当に幸せなのか、それとも現実 を受け入れて諦めの境地にいるのか。私は 自分がそこに移っている姿を想像してみ ましたが、どうしてもピンと来ませんでし た。老人ホームでの生活は確かに安全で 快適でしょう。でもそれは自分の意思で 決められることがほとんどない生活でも ありました。 時間、食事の時間、入浴の時間、就寝時間 、全てが決められたスケジュールに従って 進んでいきます。私はまだそんな生活を 受け入れる準備ができていませんでした。 でも現実問題として1人でこのマンション に住み続けることの限界も感じていました 。最近階段を上がるのがきつくなったこと 、思い物袋を持つのが辛くなったこと。 夜中に体調が悪くなった時の不安。もし 転んで動けなくなったら誰が助けてくれる のでしょうか?そんなある日、隣の部屋に 住む田中みさんが訪ねてきました。みさん は私より5つ年下の65歳でいつも明るく 活動的な女性でした。夫をなくしてからも 趣味のダンスを続けたり、ボランティア 活動に参加したりして勢力的に活動してい ました。私はいつも緑さんのエネルギーに 関心していました。星野さん元気にしてる 。みさんは明るい声で挨拶しました。最近 お顔を見ないから心配していたのよ。み さんの優しさが身に染みました。け次郎が 亡くなってからこうして心配してくれる人 がいることがどれほどありがたいことかを 実感していました。みさんは手に小さな 察しを持っていました。星野さん、これ 面白いわよ。友人から借りたんだけど、 読み終わったら返してくれればいいから。 そう言って私に1冊のガイドブックを 手渡してくれました。表紙に青い海の写真 が印刷され、退職者向け長期待財座。生活 費は日本の半分という文字が踊っていまし た。フィリピンへの移住を紹介するガイド ブックでした。私はその場でパラパラと ページをめくってみました。青い空、白い 砂浜、緑豊かな自然の写真が続いていまし た。そして何より実際に現地で暮らして いる日本人の体験団が詳しく載っていまし た。その時はまさかこの小さな察誌が私の 人生を大きく変えることになるとは思って もいませんでした。みさんが帰った後、私 はそのガイドブックをリビングのテーブル に置きました。老人ホームのパウフレット の隣に2つの選択肢が全く異なる未来を 示していました。1つは日本で安全に、 しかし的に過ごす。もう1つは遠い国で 自分の意思で切り開く未の人生。その夜私 はガイドブックを手に取りじっくりと読み 始めました。ページをめくるたびに見た こともない世界が広がっていました。 を通して温暖な気構、豊かな自然、 フレンドリーな人々。そして何より多くの 日本人がそこで第2の人生を送っていると いう事実でした。山田太郎さん、仮名68 歳年金月額12万円でマニラ公外の コンドミニアムで快適な生活を送っている 。家賃は2本円で4万円、食費は2万円 程度。残りの6万円で十分な生活ができ、 月に1度は日本料理レストランで食事を 楽しみ、たまに国内旅行もしているという 。佐藤花子さん亀73歳セブ島で5年間 暮らしている。小学校に通いながら現地の 友人を作り、毎日が充実している。医療費 は日本の3分1程度で定期検診も受け られる。何より毎日が新鮮で生きがいを 感じているという。私は1つ1つの体験団 を丁寧に読みノートにメモを取りました。 の取得方法必要な資金現地の生活費医療 体制安全対策 調べれば調べるほどそれが決して夢物語で はないことがわかりました。現実的に可能 な選択肢の1つだったのです。でも同時に 現実の厳しさも見えてきました。言葉の壁 、文化の違い、1人で異国の地で生活する ことの困難さ、失敗した時のリスク。もし 病気になったら、もし騙されたら、もし 帰国したくなったら、そんな不安も頭を よぎりました。私はリビングのテーブルの 上に老人ホームのパンフレットと フィリピンのガイドブックを並べておき ました。2つの異なる人生の選択肢。1つ は安全で快適だが受動的な日々。もう1つ は不安だが濃動的で新しい可能性に満ちた 人生。拳が生きていたらきっと反対した でしょう。危険だ。言葉も通じない。医療 体制も不安だと。でも賢次郎はもういませ ん。私には誰に遠慮することもなく自分で 決断する自由がありました。同時に全てを 自分で決めなければならない責任もあり ました。その夜私は久しぶりにけ次郎の 写真に向かって話しかけました。あなたが いたら私はこんなことを考えなかった でしょうね。2人で静かに年を取って、 いつかは老人ホームに入って、そして静か に人生を終えていたかもしれません。でも 今は自分で決めなければならない。あなた も私が自分らしく生きることを望んで くれるはずよね。け次郎の写真は何も答え てくれませんでしたが、私には彼の声が 聞こえたような気がしました。あき子君の 好きにしなさい。君が幸せならそれでいい んだ。翌朝、私は決心しました。まずは 情報を集めてみよう。何も知らずに諦める のは剣次郎にも自分にも申し訳ない。私は け次郎が使っていた古いパソコンを起動さ せました。彼が亡くなってからほとんど 触れることのなかったパソコンでした。 キーボードに指を置くとけ次郎の指の ぬくもりがまだ残っているような気がし ました。彼はこのパソコンで何を調べてい たのでしょうか?どんなことを考えていた のでしょうか?私はフィリピン移住年金 生活という言葉を組み合わせて少しずつ 検索を始めました。最初はキーボードを 打つ指も震えていました。こんな年齢に なって新しいことを始めるなんて無謀 すぎるのではないか。でも画面に現れる 情報の1つ1つが私の心に小さな希望の日 を灯していました。私にもまだ新しい人生 を始める可能性があるのかもしれない。 フィリピンにはSRRV という特別な退職者向けビザがあることを 知りました。スペシャルRESID RET Sリザの略で50歳以上で一定の条件を 満たせば取得できるビザでした。日本の 年金を受け取りながら現地で生活でき、何 度でも出入国が可能。そして何より多くの 日本人が実際にそのビザを取得して フィリピンで新しい人生を始めていました 。私は手帳にメモを取りながら1つ1つの 情報を整理していきました。ピザの取得 条件必要な書類審査機間費用 申請には1万ドル約150万円 の予が必要でしたがこれは帰国時に変換さ れるお金でした。つまり実質的な費用では なく保証金のようなものでした。次郎が 残してくれた保険金を使えばその予宅金を 用意することも可能でした。そう思うと彼 が最後に私にくれたプレゼントが新しい 人生への扉を開く鍵になるかもしれないと 感じました。でも情報を集めれば集める ほど現実の厳しさも見えてきました。ピザ の取得は簡単ではなく、様々な書類が必要 でした。健康診断所、無罪証明書、財産 証明書、そして何より現地での生活は日本 とは全く違う環境でした。治安の問題、 医療体制の違い言葉の壁インターネットで 調べると成功団だけでなく失敗団も数多く 見つかりました。詐欺にあった話、領気に なって高額内料費を請求された話文化の 違いに適用できずに帰国した話。そうした 体験談を読むと不安が募りました。 でもそれらのネガティブな体験談でさえ私 の興味を削ぐことはありませんでした。 なぜならそこには自分で選択した人生が あったからです。たえ失敗したとしても それは自分の意思で踏み出した結果でした 。法人ホームで過ごす安全で快適だが受動 的な日々とフィリピンで迎えるかもしれ ない不安だが的な人生 私の心は次第二校舎に傾いていきました。 夜遅くまでパソコンの前に座り様々な情報 を収集し続けました。フィリピンの気構 食事銃交通事情医療制度 知れば知るほどそれが遠い異国の話では なく現実的な選択肢として見えてきました 。多くの日本人が実際にそこで生活し、第 2の人生を送っているのです。1週間が 過ぎ、私はみさんにガイドブックを返しに 行きました。みさんは私の表情を見て何か を感じとったようでした。星野さん何か 決めたことがあるの。その時のみさんの マざしはまるで私の心の中を見かしている かのようでした。私は少し迷いましたが、 正直に話すことにしました。実は フィリピンへの移住を考えているのだと。 みさんは一瞬驚きましたが、すぐに理解を 示してくれました。いいじゃない。やって みなさいよ。私たちの年齢になったらやり たいことをやらないと後悔するわよ。でも 準備はしっかりとね。安全第一よ。みさん の励ましの言葉が私の背中を強く押して くれました。同じような教遇の人からの 理解と応援がどれほど心強いものかを実感 しました。もしかしたら私の決断は間違っ ていないのかもしれない。そんな気持ちが 芽えました。その日の夜、私はもう一度 け二次郎の写真に話しかけました。あなた はきっと心配するでしょうね。でも私は あなたが私によく言っていた言葉を覚えて います。人生は1度霧りだから後悔の内容 に行きなさいって。私にもまだ新しい扉を 開く権利があるはずです。最後の冒険をさ せてください。け次郎の写真は相変わらず 何も答えてくれませんでしたが、私には彼 の微笑みが見えたような気がしました。 きっと彼も私の決断を応援してくれている に違いありません。翌日から私の行動は 大きく変わりました。ただ情報を集める だけでなく具体的な準備を始めました。 まずはパスポートの更新。私のパスポート は有効期限が切れていました。次に健康 診断の予約。リザ申請には健康診断所が 必要でした。そして戸籍等本や住民表など の必要書類の準備。1つ1つの手続きを 進めていくうちにそれが現実身を帯びてき ました。これは単なる夢や空ではなく実現 可能な計画になりつつありました。 パスポートの申請書に記入している時、私 の手は震えていました。でもそれは恐怖 からではなく興奮からでした。娘の里よし にはまだ話していませんでした。きっと 反対されるでしょう。母親が1人で海外に 住むなんて危険すぎる。何かあったらどう するのと。でも私にはもう引き返せない 気持ちが芽えていました。これは私の人生 です。最後の章は私自身が書きたいのです 。夜中に目が覚めた時、私は自分の決断に 恐怖を感じることもありました。本当に これでいいのか?もし失敗したら里よしに 迷惑をかけることになるのではないか。 もし体調を崩したら1人で異国の地で対処 できるのか。こんな不安が次々と頭を よぎりました。でも朝になると再び希望の 光が見えてくるのでした。古いパソコンの 前に座り、フィリピンの青い海の写真を 見つめながら私は小さくつやきました。 もう1度だけ新しいことを始めてみたい。 け次郎見守っていてください。私はきっと あなたに誇れるような人生を送って見せ ます。私の人生の最後の冒険が静かに 始まろうとしていました。70歳の私が 選んだ道は誰も予想していなかった方向 でした。でもそれは間違いなく私自身の 意思で選んだ道だったのです。これから 待ち受ける困難もきっと乗り越えられる はずです。なぜならそれは私が自分で選ん だ人生だからです。田中みさんから借りた ガイドブックが私の心に巻いた後心の種は もはや止めることができませんでした。 翌日、私は朝食もそこそこにけ次郎の古い パソコンの前に座り込みました。昨夜は 興奮のあまりほとんど眠れませんでしたが 、疲れを感じる糸間もありませんでした。 日本人、高齢者、フィリピン、移住という 文字を検索窓に打ち込むと驚くほど多くの 情報が画面に現れました。 個人のブログ、移住支援会社のホーム ページ、体験団を集めたサイト、私が知ら なかった世界がそこには広がっていました 。賢郎が生きていた頃、私たちは海外旅行 すらしたことがありませんでした。新婚 旅行も熱みでした。それが今70歳になっ て海外移住を考えているなんて自分でも 信じられませんでした。1つ1つの最当 丁寧に読み進めていくうちにSRRV という4文字が頻繁に出てくることに 気づきました。スペシャルRESID R Sリザの略でフィリピン政府が退職者向け に発行している特別なビザでした。私は 新しいノートを取り出し重要な情報を 書き止め始めました。SRRVには2つの タイプがありました。1つはSRRV クラシック、もう1つはSRRV SMIL。私のような年金受給者には SRRV クラシックが適していました。年金を証明 できれば予は1万ドル約150万円 です済みます。 金がない場合は2万ドルが必要でした。 よ宅金という言葉に最初は戸惑いました。 でも詳しく調べてみるとこれは実質的な 費用ではありませんでした。フィリピンの 指定銀行に預けるお金で帰国する時には 全額変換されるのです。つまり保証金の ようなものでした。この仕組みを理解した 時、私の心は少し軽くなりました。拳郎が 残してくれた保険金は800万円ありまし た。それに加えて私たちが長年コツコツと 貯めてきた貯金が400万円。合計 1200万円の中から150万円をよく金 として用意することは決して不可能では ありませんでした。 むしろ老人ホームに入居するための費用を 考えればはるかに現実的な金額でした。 年齢の条件も確認しました。50歳以上で あることが必要でしたが70歳の私には 十分にクリアしていました。健康状態に ついては指定された項目の健康診断を 受ける必要がありました。最近の健康診断 では特に問題はなかったので、この点も 大丈夫そうでした。でも1番重要なのは 日本の年金を受給していることでした。私 の場合月額14万円の年金があります。 これがフィリピンでの生活の基盤になるの です。ガイドブックによると14万円が あればフィリピンでは十分に生活できる どころか日本よりもゆりのある暮らしが できるということでした。興味深かったの はSRRV保有者の得典でした。 フィリピンに何度でも出入国できること、 現地で働くことも可能なこと。として 何よりフィリピンの永住権に近い扱いを 受けられることでした。つまりいつでも 日本に帰ることができるし、フィリピンで の生活になれたら長期間滞在することも できるのです。私は次に実際にフィリピン で生活している日本人の体験団を読み始め ました。田中一郎さん仮65歳の体験団が 特に印象的でした。奥様をなくした後、 1人で神奈川県の自宅にいることに限界を 感じ、思い切ってセブ島に移住したという ことでした。田中さんの月の生活費は約 8万円でした。家賃が3万5000円、 食費が2万円。高熱費や通信費などを含め て8万円以内で収まっているということ でした。残りの年金で時々日本に一時帰国 したりフィリピン国内を旅行したりして いるそうです。何より毎日が新鮮で現地で できた友人たちとの交流が楽しいという ことでした。もう1つ印象的だったのは 山本花子さん。 加盟72歳の体験団でした。ご主人と一緒 にマニラ公外に移住し、2人で月16万円 の年金で快適に暮らしているということ でした。日本では考えられないような広い コンドミニアムに住み、メイドさんを雇っ て家事を手伝ってもらい、週末には高級 レストランで食事を楽しんでいるそうです 。でも全てが良いことばかりではありませ んでした。失敗団や苦労話も数多く 見つかりました。言葉の問題でトラブルに なった話、詐欺に愛そうになった話、病気 になって高額な医療費を請求された話。 そうした体験談を読むとフィリピンでの 生活が決して楽なものではないことも理解 できました。 特に気になったのは医療の問題でした。 フィリピンの医療水準は日本ほど高くあり ません。私立病院は設備も良く英語での コミュニケーションも可能ですが、費用は 高額です。効率病院は安いですが、設備や 衛生状態に不安があります。多くの移住者 が海外旅行保険や現地の医療保険に加入し ていることがわかりました。また治安の 問題も無視できませんでした。フィリピン は日本ほど治安が良くありません。特に 女性の1人歩きは危険な場合があります。 でも体験談を読む限り常識的な注意を払え ばそれほど心配することはないようでした 。多くの日本人が実際に安全に生活して いるのですから、昼食の時間になっても私 はパソコンから離れることができません でした。簡単にお茶漬けを作って食べ ながらさらに情報を収集し続けました。 フィリピンの気候は年中温暖で日本のよう な厳しい冬がありません。これは関節痛に 悩む私には朗報でした。最近寒い日になる と膝が痛むことが多くなっていたのです。 食事についても詳しく調べました。 フィリピン料理は基本的に米を就職とし、 魚や鶏肉が中心です。味付けは多少異なり ますが、日本人の口にも合うということ でした。また日本色レストランも多く日本 の食材を扱う店もあるので時々は懐かしい 味を楽しむこともできそうでした。銃環境 についても調べました。多くの日本人は セキュリティがしっかりした コンドミニアムに住んでいました。クール やジムなどの共容施設があり、24時間 警備員が上駐している物件が人気でした。 家賃は立チア設備によって大きく異なり ますが、月3万円から8万円程度で日本で は考えられないような広い部屋に住めると いうことでした。午後になっても私の探求 は続きました。次に調べたのはリザの申請 手続きでした。これが1番複雑で重要な 部分でした。必要な書類は滝に渡り、準備 には相当な時間がかかりそうでした。まず 必要なのは健康診断所でした。フィリピン 政府が指定する項目の検査を受け、意思の 診断書を取得する必要があります。これに は強ブレト元、血液検査、尿検査などが 含まれていました。私は最近健康診断を 受けたばかりでしたが、SRRV用の診断 所はベッド取得する必要がありました。次 に無罪証明書です。これは警察署で発行し てもらえますが、取得には時間がかかり ます。また戸籍等本や住民表、年金受給 証明書なども必要でした。これらの書類は 外務省での認証を受ける必要があり、 さらに在日フィリピン領館での認証も必要 でした。手続きの複雑さに少し気が遠く なりました。でも1番大変なのは実際に フィリピンに行ってからの手続きでした。 現地の退職長 という期間で面接を受け指定銀行に予を 納めアイリーカードの発行を受ける必要が ありました。この一連の手続きには最低で も1ヶ月はかかるということでした。 つまりフィリピンに移住するためにはまず 1ヶ月程度フィリピンに滞在する必要が あるのです。ホテル台や食事代を考えると それだけでも相当な費用がかかります。で も多くの人はこの期間を現地の生活体験と して活用していました。実際に住む場所を 探したり、現地の生活になれたりするため の貴重な時間でした。夕方になって私は ようやくパソコンから離れました。頭の中 は情報でいっぱいでした。SRRVの取得 は確かに可能でした。でも手続きは複雑で 時間もお金もかかります。により実際に フィリピンで生活することの現実的な困難 も見えてきました。でも同時に希望も 膨らんでいました。多くの日本人が実際に フィリピンで新しい人生を始めているの です。彼らにできることが私にできない はずはありません。年齢も体力も似たよう な条件の人たちが実際に成功しているの ですから、その夜夕食を食べながら私は 自分の気持ちを整理しようとしました。 フィリピン移住は確かに魅力的でした。 温暖な気構、低い生活費、新しい出会いと 体験。でもリスクも無視できませんでした 。言葉の問題、文化の違い、医療や治安へ の不安。私は再びリビングのテーブルに 置かれた2つの選択肢を見比べました。 老人ホームのパウフレットとフィリピンの ガイドブック。どちらも私の将来を決める 重要な情報でした。でも今日1日情報を 集めた結果、私の心はフィリピンに向いて いることがはっきりしました。なぜ でしょうか?それはフィリピンでの生活に は自分で選択する自由があったからです。 住む場所も生活スタイルもこういう関係も 全て自分で決めることができます。法人 ホームでの生活は確かに安全で快適 でしょうが、自分で決められることは限ら れています。でも決断を下すにはまだ情報 が足りませんでした。インターネットで得 られる情報には限界があります。実際に フィリピンがどんな場所なのか、本当に 自分が住めるような環境なのか、自分の目 で確かめる必要がありました。その時私の 頭に1つのアイデアが浮かびました。お 試しという言葉をいくつかのサイトで 見かけていました。いきなり移住するので はなく、まず短期現地で生活してみて自分 に会うかどうかを確かめるのです。多くの 移住支援会社がそうしたサービスを提供し ていました。私は再びパソコンの前に座り 、お試しについて詳しく調べ始めました。 期間は1週間から1ヶ月程度。滞在先は 家具のコンドミニアムや長期滞在型ホテル 、現地での生活サポートや病院や銀行の 案内なども含まれていました。費用は期間 や内容によって異なりますが、1ヶ月で 20万円から30万円程度でした。これは 理想的でした。きナリー10を決断するの ではなく、まず実際に現地で生活してみる 。語学校に通ったり、医療機関を見学し たり、スーパーで買い物をしたり現地の 日本人コミュニティと交流したり、そうし た体験を通じて本当に自分がフィリピンで 生活できるかどうかを判断するのです。私 は特にセブ島に興味を持ちました。 フィリピンで2番目に大きな年で多くの 日本人が住んでいます。語学学校も多く 日本人向けのサポート体制も整っています 。気候も年中温暖で海も美しくリゾート地 としても有名でした。デブ島での1ヶ月お 試し10プログラムを提供している会社を いくつか見つけました。その中でも フィリピンライフサポートという会社の プログラムが魅力的でした。滞在先はセブ 市内のセキュリティがしっかりした コンドミニアム。日本人スタッフが現地で サポートしてくれて、生活に必要な手続き や施設見学なども手配してくれます。費用 は1ヶ月で25万円でした。この中には 宿泊費、朝食、空港送迎、現地サポート 費用などが含まれていました。航空圏代は ベッド必要ですが、往復で8万円程度でし た。つまり総額33万円でセブでの1ヶ月 生活を体験できるのです。これは決して 安い金額ではありませんでした。でも老人 ホームの入居費用が1000万円以上する ことを考えれば自分の将来を決めるための 投資としては妥当だと思えました。何より 実際に体験してから決断できるという安心 感はお金に変えられない価値がありました 。私は興奮を抑えきれませんでした。これ なら私にもできそうです。 ナリーするのは勇気がいりますが、1ヶ月 の体験なら挑戦できそうでした。もし合わ なければ帰ってくればいいのです。でも もし気に入ったらそのまま移住の準備を 進めることもできます。でも同時に不安も 湧いてきました。70歳の私が1人で海外 に行くなんて大丈夫でしょうか?言葉は 通じるでしょうか?体調を崩したらどうし ましょうか?そもそも飛行機に乗るのも 何十年ぶりです。でもそんな不安を上回る 期待感がありました。新しい場所で新しい 人々と出会い、新しい体験をする。70歳 になってからそんな冒険ができるなんて 考えただけでワクワクしました。け次郎が 生きていたらきっと止めたでしょう。でも 賢次郎はもういません。私には自分で決断 する自由があるのです。その夜私は なかなか眠れませんでした。頭の中で背島 の青い海の映像が繰り返し浮かんでいまし た。温かい太陽の下でヤシの小影を歩いて いる自分の姿を想像しました。現地の人々 と片言の英語で会話している場面も 思い浮かべました。それは今の私の生活と は全く違う世界でした。翌朝私は決心して いました。 セブ島でのお試しに申し込もう。まず健康 診断を受けてパスポートを更新して必要な 準備を整えよう。そして1ヶ月間セブで 生活してみよう。それから最終的な決断を くだそう。朝食を食べながら私は里よしに 電話をかけるかどうか迷いました。娘に 相談すべきでしょうか?でもきっと反対さ れるでしょう。母親が1人で海外に行く なんて危険だと。私は電話を置きました。 まず自分で体験してから結果を報告しよう と思いました。代わりに私はみさんの ところへ行きました。ガイドブックを返す という口でしたが、本当は自分の決断を誰 かに聞いてもらいたかったのです。みさん は私の話を最後まで聞いてくれました。 すごいじゃない?星野さん。私だったら 怖くてできないわ。でも星野さんなら きっと大丈夫よ。1ヶ月なら冒険として 楽しめそうね。気をつけていっ てらっしゃい。私も応援してるから。み さんの励ましが私の背中を大きく押して くれました。同じような年齢の女性からの 理解と応援ほど心強いものはありません でした。その日の午後私はフィリピン ライフサポートに電話をかけました。電話 に出たのは親切な女性スタッフでした。私 の状況を説明するととても理解のある対応 をしてくれました。70歳でのお試しは 珍しくないそうです。むしろ慎重に準備し ている主が評価できるということでした。 来月から開始されるプログラムにまだ空が あるということでした。私は思い切って 申し込みをしました。デポジットとして 10万円を振り込み、残りの費用は出発前 に支払うことになりました。航空権の手配 も依頼しました。電話を切った後、私は 自分がやったことの大きさに気づきました 。本当にセブに行くことになったのです。 1ヶ月間全く知らない土地で1人で生活 するのです。でも恐怖よりも期待の方が 大きくなっていました。その夜私は久し ぶりにけ次郎の写真に長い時間を話しかけ ました。あなたはきっと心配するでしょう ね。でも私はあなたが私に教えてくれた ことを実践しようとしているのです。人生 は1度切り後悔の内容に行きなさいって。 私にもまだ新しいことに挑戦する権利が あるはずです。1ヶ月後私はセブ島の空の 下に立っているでしょう。青い海を見て 温かい風を感じて新しい世界を体験して いるでしょう。これが私にとって人生最後 の大冒険の始まりになるかもしれません。 私の心はもうセブ島に向かって飛び立って いました。70歳の新しい挑戦がいよいよ 現実のものとなろうとしていました。出発 の日が近づくにつれ、私の心は不安と期待 の間を激しく揺れ動いていました。デブの 航空権が手元に届いた時、それは単なる 神切れではなく、新しい人生の扉の鍵の ように思えました。でも同時に70歳の私 が本当に1人で海外に行けるのか深刻な 疑問も湧いてきました。出発の1週間前、 私は関西国際空港まで下見に行きました。 で1時間以上かかる道乗りでしたが、当日 迷わないよう実際のルートを確認しておき たかったのです。空港に着くとその大きさ に圧倒されました。剣事郎と一緒に国内 旅行をした時に利用した痛み空港とは 比べ物になりません。案内表示は日本語と 英語で書かれていましたが、私には英語の 部分はチンぷンカン粉でした。空港内を 歩きながら、私は自分の決断の重さを 改めて感じました。明らかに私より若い人 たちが慣れた様子で手続きを済ませてい ます。スーツケースを引いて殺と歩く中年 のビジネスマン、大きなバックパックを 背負った若い旅行者たち。その中で70歳 の私が1人でセブ島に向かうのです。でも 出発前日の夜私の決意は固まっていました 。荷造りをしながら私は賢郎に話しかけ ました。明日私は1人でフィリピンに行き ます。怖いけれど楽しみでもあります。 あなたがいてくれたらきっと止めた でしょうね。でも私は自分の人生を自分で 決めたいのです。見守っていてください。 出発当日の朝、私は5時に目を覚ましまし た。飛行機は昼の瓶でしたが、興奮と緊張 で眠れませんでした。簡単な朝食を済ませ 、最後にもう1度荷物を確認しました。 パスポート、航空権、海外旅行保険、現金 、クレジットカード、上備役リストを作っ て何度もチェックしました。みさんが 見送りに来てくれました。星野さん気を つけていってらっしゃい。きっと素敵な 体験になるわよ。1ヶ月後のお土産話を 楽しみにしているから。みさんの笑顔が私 の最後の迷いを吹き飛ばしてくれました。 関西国際空港での手続きは思っていたより 複雑でした。チェックインカウンターで パスポートと航空権を提示し、荷物を預け ました。若い係員の女性が親切に説明して くれましたが、専門用語が多くて理解する のに苦労しました。登場ゲートの番号、 登場開始時間、到着予定時刻、1つ1つ目 もを取りながら確認しました。復刻審査で はかかりに旅行の目的は何ですかと聞かれ ました。観光ですと答えましたが、心の中 では人生の新しい賞を探しに行くのですと 言いたい気持ちでした。パスポートに スタンプを押されると私は正式に日本を 出国したことになりました。もう後戻りは できません。 登場ゲートで待っている間、私は周りの 乗客を観察しました。フィリピン人と思わ れる家族連れ、日本人の若いカップル、 1人旅らしい中年男性。みんなそれぞれの 理由でフィリピンに向かうのでしょう。私 のように人生の大きな決断のために旅立つ 人は他にいるでしょうか?飛行機に登場 すると客室乗務員が親切に座席まで案内し てくれました。窓際の席を希望していたの で雲の上から景色を見ることができました 。離陸の瞬間私の心は紅用しました。これ が私の新しい人生の第一歩なのです。約3 時間半のフライトは私にとって人生で最も 長く感じられた時間でした。機内食を食べ ながら私はこれから始まる1ヶ月間のこと を考えました。本当に大丈夫でしょうか? 言葉が通じなかったらどうしましょう? 体調を崩したらどうしましょう?でも そんな心配を上回る期待感もありました。 セブマタ国際空港に到着した瞬間、私は別 世界に足を踏み入れたことを実感しました 。飛行機のドアが開くと日本とは全く違う 空気が流れ込んできました。湿度が高く 温かくそして何とも言えない甘い香りがし ました。鼻の香りでしょうか?それとも 果物の香りでしょうか?それは確実に神戸 では買いだことのない匂いでした。入国 審査ではかかりが英語で質問してきました 。H ロングWil Spa 滞在するのかという意味だと思い mon と答えました。 POS v 訪問の目的は何かと聞かれ と答えました。かかりは私のパスポートを 見て少し驚いたような表情をしました。 70歳の日本人女性が1人でフィリピンに 1ヶ月滞在することはやはり珍しいの でしょう。物を受け取って到着ロビーに 出るとフィリピンライフサポートの スタッフが私の名前を書いたプレートを 持って待っていました。私はアンドの息を つきました。田中と名乗る30代の日本人 男性で現地在住歴が8年ということでした 。あき子さんお疲れ様でした。セブ島へ ようこそ。これから1ヶ月間私たちが サポートさせていただきます。空港から コンドミニアムまでの車での移動はまさに カルチャーショックの連続でした。道路は 日本とは比べ物にならないほど混雑してい ました。車、バス、タクシー、そして派手 に装飾されたジープニーと呼ばれる乗り物 がクラクションを鳴らしながら生き勝って います。歩道には露点が立ち並び、 色取り取りの果物や食べ物が売られてい ました。全てが生命力に溢れ エネルギッシュ種で時には少し混沌として いるように見えました。日本の生前とした 街並になれた私には最初は少し圧倒され ました。でも同時にこの活気ある雰囲気に 何か引かれるものも感じました。ここには 確実に生きているという実感がありました 。滞在先のコンドミニアムはセブ市内の 比較的高級な地区にありました。24時間 セ力機があり、ロビーも清潔で立派でした 。私の部屋は15階にある1ベッドルーム の部屋でリビング、キッチン、バスルーム がついていました。窓からは背節内の景色 が一望でき、遠くには海も見えました。 部屋は家具や家電製品が意識揃っていて、 すぐに生活を始められるようになってい ました。冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、 テレリ、日本とは違うメーカーのものでし たが、使い方は大体同じでした。ベッドは キングサイズで1人で寝るには贅沢すぎる ほどでした。田中さんは私に基本的な説明 をしてくれました。建物の設備、周辺の 店舗、緊急時の連絡先、そして何より重要 だったのは安全に関する注意事項でした。 夜間は1人で外出しない。貴重品は肌見 話さず持つ、知らない人についていかない 。当たり前のことばかりでしたが、異国の 地では特に重要なことでした。その日の夜 、私は1人でコンドミニアムの部屋にい ました。窓から見える夜景は美しく、背節 内のとりがキラキラと輝いていました。で も同時に深い孤独感も感じました。天治郎 がいたらこの景色を一緒に見て今日の 出来事について話し合ったでしょう。でも 私は1人です。これから1ヶ月間孤独と 向き合っていかなければなりません。翌朝 私の新しい生活が始まりました。朝7時に 気象し、シャワーを浴びて朝食を取りまし た。コンドミニアムの1階にカフェがあり 、簡単な朝食を提供していました。パンと コーヒー、それに南国のフルーツ。 マンゴーとバナナは日本で食べるものより 甘くて美味しかったです。午前中は田中 さんが市内を案内してくれました。まずは 近所のスーパーマーケット。日本の スーパーと比べると品揃えへは異なります が、基本的な食材は手に入りそうでした。 野菜や果物は驚くほど安く、肉類も日本の 半分以下の値段でした。でも日本の食材、 例えば醤油や味噌は値段が3倍から4倍し ていました。次に病院を見学しました。 ドクターズユニバーシティ病院という私立 の総合病院で設備は日本の病院と遜あり ませんでした。英語を話すや看護師がいて 日本人の患者も定期的に受信していると いうことでした。医療費は日本より安い ですが海外旅行保険は必須だということも 確認できました。午後は語学校を訪問し ました。日本人向けの英語学校がいくつか あり、私のような高齢者でも通るクラスが ありました。基礎的なA会話から日常生活 で必要な表現まで個人のレベルに合わせて 指導してくれるということでした。修業料 は月額3万円程度で日本のA会は教室より 安く感じました。その日の夕方、私は 初めて1人でコンドミニアム周辺を散歩し てみました。最初は不安でしたが、地元の 人々が規作に挨拶してくれるのに驚きまし た。 ブッ N 片言の英語でしたがコミュニケーションが 取れることがわかりました。子供たちは 特に人なこく日本人だと分かると興味深層 に見つめてきました。3日目の夜突然の 停電が起こりました。コンドミニアム全体 が真っ暗になり、エアコンも止まりました 。私は少しパニックになりました。日本で は停電など滅多に経験しません。どうし たらいいのか分からず、部屋の中で方に くれていました。その時隣の部屋から ノックの音が聞こえました。ドアを開ける とフィリピン人の中年女性が立っていまし た。手にはロソを持っていて、私に笑顔で 話しかけてきました。英語が話せない私と 日本語が話せない彼女でしたが、 ジェスチャーと単語だけで何か コミュニケーションが取れました。彼女は 私にロソを分けてくれました。そして自分 の部屋に招待してくれました。彼女の家族 、夫と2人の子供たちも親切に迎えてくれ ました。電気が復旧するまでの2時間、 私たちは言葉の壁を超えて交流しました。 家族の写真を見せ合い、お互いの国につい て片言で話し合いました。天気が復旧した 時、私は深い感動を覚えました。言葉が 通じなくても人の心は通じ合えるのです。 この家族の優しさはお金では買えない貴重 な体験でした。フィリピンの人々の温かさ を身を持って感じた瞬間でした。1週間が 過ぎ、私は次第偽での生活に慣れてきまし た。朝は近所のカフェで朝食を取り、午前 中は語学学校に通い、午後は市内を散索し たり、コンドミニアムのプールで泳いだり しました。日本では考えられないような 贅沢な生活でした。小学校では私と同じ ような教遇の日本人と出会いました。60 代の山田さんは退職後にセブに移住して3 年になるということでした。最初は言葉の 壁に苦労したけれど、今では現地の友人も でき、充実した毎日を送っているそうです 。70代の佐藤さんは奥様と一緒にセブで 生活していて、日本にいた時よりも健康に なったと言っていました。でも良いこと ばかりではありませんでした。言葉の壁は 想像以上に高く簡単な買い物で目すること がありました。また日本とは異なる生活 習慣に戸惑うこともありました。時間の 概念が曖昧で約束の時間に遅れることが 普通でした。また水道水は飲めないので常 にミネラルウォーターを購入する必要が ありました。2週間目に入ると私は現地の 日本人コミュニティとの交流を深めました 。毎週日曜日に開催される日本人会の 集まりに参加しました。年齢も職業も様々 な日本人が集まり、セブでの生活情報を 交換していました。医療機関の情報、お すめのレストラン、安全内道手段、生活費 の節約方法、実際に住んでいる人たちから のせの情報はとても貴重でした。この中で 私は特にマリアーという現地の女性と 親しくなりました。彼女は語学学校で日本 語を学んでいて、私は彼女から英語と タガログ語を教えてもらい、彼女には日本 語を教えるという関係でした。マリアは 30代で2人の子供を持つシングルマザー でした。日本で働いた経験があり、日本 文化に深い理解を示してくれました。 マリアは私を彼女の実家に招待してくれ ました。セブ公外の小さな家でしたが、 家族全員で温かく迎えてくれました。 手作りの料理をご馳になり、フィリピンの 家庭の雰囲気を体験することができました 。子供たちは私をおばあちゃんと読んで しってくれ、私も孫ができたような気持ち になりました。3週間目になると、私は セブでの生活にすっかり慣れていました。 朝起きると窓から見える青い空と海が私を 迎えてくれます。日本の冬の寒さを忘れ、 1年中温暖な気候の心地よさを満喫してい ました。関節痛も柔ら、体調も良好でした 。でも同時に現実的な問題も見えてきまし た。生活費は確かに日本より安いですが、 日本と同じような生活水準を維持しようと するとそれなりの費用がかかります。 また日本の味が濃しくなることもありまし た。日本色レストランもありますが、値段 は日本の2倍から3倍します。医療の問題 も気になりました。私立病院は設備が良く 英語でのコミュニケーションも可能ですが 、費用は高額です。法律病院は安いですが 、設備や衛生状態に不安があります。健康 内は問題ありませんが、もし重い病気に なったらどうでしょうか?また長期間日本 を離れることの寂しさも感じ始めました。 里よしとの電話での会話が唯一の日本との 繋がりでした。文字差があるため連絡を 取るタイミングが難しく会話も短時間で 終わってしまいます。日本のニュースや 友人の近況も気になりました。4週間目に 入ると私は重要な決断の時期が近づいて いることを意識するようになりました。 このままセブに残って本格的に移住するか 、それとも日本に帰国するか。1ヶ月の 体験期間の終わりが見えてきたのです。私 はこの4週間の体験を振り返ってみました 。確かにセブでの生活は魅力的でした。 温暖な気構、低い生活費、フレンドリーな 人々、新しい出会いと体験。 日本では味わえない解放感と自由があり ました。でも同時に言葉の壁、文化の違い 、医療や安全への不安も現実として存在し ました。最後の週末、私はセブ島内の 小旅行を押しました。幕タ島のリゾート エリアを訪れ、美しいリーチで1日を 過ごしました。大海、白い砂浜、ヤの木、 まさに南国の楽園でした。海辺の レストランで新鮮なシーフードを食べ ながら私は自分の心と向き合いました。 ここは確かに美しい場所です。でも私に とって本当の住かになるでしょうか?毎日 が観光地にいるような日常的な感覚でした 。 それが1年、2年と続いたらどうでしょう か?新戦は薄れ、現実的な問題が大きく なってくるかもしれません。でも一方で 神戸での生活を思い返すとそこには大きな 空虚感がありました。毎日同じことの 繰り返し、人との関わりの少なさ、将来へ の不安。セブでの1ヶ月間、私はそうした 空虚感を感じたことがありませんでした。 毎日が新鮮で常に何かを学び、誰かと 関わり、新しい発見がありました。最後の 夜、私はコンドミニアムのベランダから 夜景を眺めながら深く考え込みました。 この1ヶ月間は間違いなく私の人生で最も 刺激的で充実した期間の1つでした。でも それは一時的な体験だったからかもしれ ません。もし本当に移住したら日常の現実 が待っているでしょう。でも同時に私は1 つの重要なことに気づいていました。この 1ヶ月間私は1度も孤独を感じたことが ありませんでした。日本で感じていた深刻 な孤独感とは無縁でした。言葉が通じなく ても文化が違っても人との繋がりがあり ました。それは私にとって何より大切な ことでした。 翌朝、私は最終的な決断を下していました 。この体験は私にとって貴重な財産になり ました。でもまだ完全に移住する準備は できていません。もう少し時間をかけて 考え、準備を整えてから決断したいと思い ました。空港に向かう車の中で私は田中 さんに感謝の気持ちを伝えました。この1 ヶ月間本当にお世話になりました。おかげ で貴重な体験ができました。田中さんは 笑顔で答えました。あき子さんのような方 ならきっとセブでも充実した生活ができる と思います。もしまた来られる時はいつで もサポートします。飛行機に登場する前、 私は振り返ってセブの空を見上げました。 青い空、白い雲、温かい風全てが私に別れ を告げているようでした。でもこれは永遠 の別れではありません。私はきっとまた 戻ってくるでしょう。今度は観光客として ではなく、新しい人生を始める住人として 関西国際空港に到着した時、私は日本の冬 の寒さを懐かしく感じました。でも同時に セブの温かさも恋しく思いました。私の心 はもうセブ島の一部になっていたのです。 この1ヶ月の体験が私の人生を大きく 変えることになるとはその時はまだ完全に 割り返していませんでした。セブ島から 帰国してから3ヶ月が経ちました。神戸の 冬は例年よりも厳しく、毎朝暖房をつけて も部屋が温まるまでに時間がかかりました 。でも私の心はまだセブ島の温かい太陽の 下にありました。あの1ヶ月間の体験は 単なる思い出ではなく私の人生を変える 天気となっていたのです。被告後すぐに私 は里よしに電話をかけました。お母さん1 ヶ月も連絡が取れなくて心配していたのよ 。私は嘘をつくことができませんでした。 実はフィリピンに行っていたの。里よしの 驚きの声が電話の向こうから聞こえました 。フィリピンって何をしに?私は1ヶ月間 の体験を詳しく話しました。里よしの反応 は予想通りでした。危険じゃなかったの。 隊調は大丈夫だったの。なぜ事前に相談し てくれなかったのと心配と不安の言葉が 続きました。でも話を最後まで聞くと少し 理解を示してくれました。 お母さんが元気になったならそれでいい けれど、今度は事前に相談してね。みさん も私の帰国を心まちにしていました。星野 さんお帰りなさい。顔色がとても良くなっ たわね。南国の太陽のおかげかしら。私は みさんにセブ島での体験を詳しく話しまし た。みさんは私の話に熱心に耳を傾け、 時々質問をしながら私の決断を応援して くれました。でもセブ島での体験を語れば 語るほど私の心は再びあの島に向かってい ました。神戸での生活は以前よりもさらに 退屈で空気に感じられました。デブ島で 感じた生きる活力、人との温かい交流毎日 の新鮮な発見 それらが全て恋しくなりました。私は再び 剣事郎の古いパソコンの前に座り、 SRRV得 のための具体的な手続きを調べ始めました 。今度は体験のためではなく、本格的な 移住のためです。 ヶ月間の実体験があるため以前よりも はるかに現実的に計画を立てることができ ました。まず必要な書類を整理しました。 健康診断所、無罪証明書、戸籍等住民表、 年金受給省名称。これらの書類を外務省で 認証を受け、さらに在日フィリピン領館で も認証を受ける必要がありました。手続き は複雑でしたが、1つ1つ着実に進めて いきました。1番大きな決断は予宅金の 1万ドル約150万円 を用意することでした。次郎が残してくれ た保険金を使うことに最初は躊躇があり ました。でもこれは賢郎が私の将来のため に残してくれたお金です。私が幸せになる ために使うことを彼もきっと喜んでくれる でしょう。書類の準備に2ヶ月かかりまし た。 診断を受け直し、警察署で無反罪証明書を 取得し、市役書で各種証明書を取得しまし た。外務省での認証手続きは特に時間が かかり、郵送でのやり取りに数週間を用し ました。でも1つ1つの手続きが完了する たびに移住の道が現実身を帯びてきました 。そしてついに私は2度目のセブ域の航空 券を購入しました。今度は片道航空券です 。もちろんいつでも日本に帰ることはでき ますが、今度は本格的な移住のためです。 出発予定日は4月の初め。セブ島は換期で 気候も良い時期でした。出発の1週間前、 私は神戸のマンションの整理を始めました 。45年間の結婚生活で蓄積された思い出 の品ジナを1つ1つ仕訳していきました。 拳郎の服や持ち物はすでに整理してあり ましたが、私自身のものも相当な量があり ました。里吉が手伝いに来てくれました。 母で一緒に荷物を整理しながら私たちは 多くのことを話し合いました。お母さん 本当に大丈夫なの?何かあったらすぐに 連絡してね。里よしの心配は理解できまし たが、私の決意は固まっていました。家具 や家電製品の多くはリサイクル業者に 引き取ってもらいました。 との思い出が詰まったシジナを手放すのは 辛いものでしたが、新しい人生を始める ためには必要なことでした。私が フィリピンに自賛するのはスーツケース3 個分の荷物だけでした。そして4月5日の 朝、私は再び関西国際空港に立っていまし た。3ヶ月前とは違い、今度は1人の旅行 者ではなく、新しい国の住民になるための 旅立ちでした。みさんと里吉が見送りに来 てくれました。お母さん体に気をつけて。 何かあったらすぐに連絡してね。飛行機の 中で私は自分の決断を振り返りました。 70歳でのこの決断は周りから見れば無謀 に見えるかもしれません。でも私には確信 がありました。セブ島での1ヶ月間の体験 がその確信を与えてくれたのです。西武 マタ国際空港に到着すると3ヶ月前と同じ ように田中さんが迎えに来てくれていまし た。き子さん、お帰りなさい。今度は本格 的ですね。私たちも全力でサポートします 。田中さんの言葉が心ずく感じられました 。今回の滞在先は前回と同じ コンドミニアムでしたが、今度は長期契約 です。1年間の契約で月額家賃は4万円 でした。日本では考えられない広さの部屋 がこの価格で借りられるのです。SRRV 取得の手続きは予想以上に複雑でした。 まず退職長 で面接を受ける必要がありました。担当官 は英語で質問してきましたが、フィリピン での生活計画、健康状態、経済状況などに ついて詳しく聞かれました。田中さんが 通訳として同行してくれたので何とか 乗り切ることができました。次に指定銀行 で金の手続きをしました。150万円を アメリカドルに了解し、フィリピンの銀行 口座に預けました。この瞬間、私の移住 計画が正式にスタートしたことを実感し ました。これで後戻りはできません。医療 検査も受けました。ブレント血液検査、妙 検査など日本で受けた検査をフィリピンで も再度受ける必要がありました。結果は 良好で健康上の問題はありませんでした。 70歳という年齢を考えれば上場の結果 でした。全ての手続きが完了するまでに約 1ヶ月かかりました。その間私は前回の 体験を生かしてセブでの生活基盤を整え ました。語学学校に正式に入学し、週3回 英語のレッスンを受けることにしました。 また現地の日本人コミュニティにも積極的 に参加しました。そしてついに私の SRRVカードが発行されました。 スペシャルRESID R s このカードが私のフィリピンでの新しい 人生のパスポートでした。退職庁の担当官 から手渡された時、私は深い感動を覚え ました。70歳にして私は新しい国の住民 になったのです。正式にフィリピンの居住 者となった私は現実的な生活設計を立てる 必要がありました。月収14万円の年金で どのような生活ができるのか。これが最も 重要な問題でした。まず重費ですが コンドミニアムの家賃が月額4万円でした 。これに管理費水道高熱費を加えると月額 約5万5000円になりました。日本では 同じような広さの部屋を借りようとすると 少なくとも10万円以上はかかるでしょう 。次に食費です。私は基本的に自炊をする ことにしました。地元の市場で野菜や肉、 魚を買うと日本の半分以下の価格で購入 できました。特に熱帯果物は驚くほど安く 、マンゴーやパパイやバナナなどを毎日 食べることができました。月の食費は約 2万5000円程度に抑えることができ ました。ただし日本の食材は非常に効果 でした。醤油や味噌、米などは日本の3倍 から4倍の価格でした。そのため日本料理 は月に1度程度の贅沢として楽しむことに しました。電気代は日本より高く、特に エアコンを使用する時期は月額1万円を 超えることもありました。でも1年中温暖 な気候のため暖房費は一切かかりません。 通信費は携帯電話とインターネット料金を 合わせて月額5000円程度でした。交通 費についてはタクシーの利用が中心でした 。フィリピンのタクシーは日本と比べて 非常に安く市内の移動であれば1回あたり 300円から500円程度でした。これ なら安心して移動することができます。 その他の生活費として医療保険料、生活用 品費、娯楽費などを含めて月額2万円程度 を見込みました。合計すると月の生活費は 約12万円から13万円になりました。 つまり14万円の年金収入に対して生活費 は約12万円から13万円。残りは1万円 から2万円です。これは決して余裕のある 生活ではありませんが、工夫次第で十分 やっていける金額でした。何より日本で 老人ホームに入居することを考えれば はるかに自由度の高い生活でした。私は 毎月の家計簿をつけることにしました。 収入都市を詳細に記録し、無駄な出費を 削減するよう心がけました。また緊急時に 備えてある程度の貯金も必要でした。病気 があるいは日本への一時帰国のために少し ずつでも貯蓄をしていく必要がありました 。フィリピンで安全かつ合法的に生活する ためには3つの重要な柱がありました。 まず第1は安全対策です。夜間の1人歩き は避ける。貴重品は肌見話さず持つ。信頼 できるタクシー会社のアプリを利用する。 これらの基本的なルールを守ることで リスクを最小限に抑えることができました 。第2はビザの維持です。SRRVを維持 するためには毎年1回のアニレポートの 提出が必要でした。退職長で簡単な書類を 記入し、年間手数料として360ドル 約5万5000円 を支払います。この手続きを怠るとビザが 無効になってしまうため絶対に忘れては いけません。第3は年金の受給です。私は 日本の大手銀行が発行する国際キャッシュ カードを利用しました。このカードがあれ ばフィリピンのATMから直接日本の口座 から現地通貨を引き出すことができます。 合わせとの変動はありますが、安定した 収入源を確保することができました。また 日本とフィリピンの間には素税条約がある ため、適切な手続きをすれば年金所得に 対する重税を避けることができます。これ により日本でもフィリピンでも所得税を 支払う必要がなくなりました。生活を 初めて3ヶ月が経った頃、私は月々の収支 が安定してきたことを実感しました。 14万円の年金で確かにフィリピンでの 生活は可能でした。それは贅沢な生活では ありませんが、計画的で工夫に満ちた生活 でした。何より嬉しかったのは小さな贅沢 を楽しめることでした。 日本では節約のために我慢していた タクシーの利用もここでは気軽にできます 。毎日新鮮な熱帯果物を食べることも日本 では考えられない贅沢でした。時々高級 レストランで食事をすることも計画的に 予算を組めば十分可能でした。でも最も 大切だったのはお金では買えない豊かさ でした。温暖な気候のおかげで体調が良く なり、新しい友人たちとの交流で心も豊か になりました。毎日が新しい発見に満ちて いて生きている実感を味わうことができ ました。 ヶ月が経った頃、私は里よしに詳しい生活 状況を報告しました。家計簿を見せながら 具体的な収支を説明しました。お母さん 思っていたよりもしっかりと生活できて いるのね。でも健康だけは気をつけてね。 里よしの心配は続いていましたが、理解も 深まっていました。みさんにも定期的に 手紙を書いていました。星野さんの手紙を 読むと本当に充実した生活を送っているの がわかります。私も老後の参考にさせて もらっているわ。みさんからの返事はいつ も励ましと応援に満ちていました。1年が 経った頃、私は初回のアニレポートを提出 しました。 退職長での手続きは簡単で、担当官の生活 状況に満足しているようでした。健康状態 は良好でフィリピンでの生活にも完全に 適用していました。私の新しい生活は数字 の上では14万円の年金で成り立ってい ました。でもその数字の背後には計画性、 工夫、そして何より新しいことに挑戦する 勇気がありました。70歳という年齢は 決してハンリキャップではありませんでし た。むしろ長年の人生経験がこの新しい 挑戦を支えてくれていました。フィリピン での生活は決して完璧ではありません。 言葉の壁、文化の違い、時には孤独感を 感じることもあります。でも日本で感じて いた深刻な空気感や将来への不安はもう ありませんでした。毎日が私自身の選択で 満ちていて、自分の人生を自分で コントロールしている実感がありました。 気づき 14万円限ら収入でも工夫と計画があれば十分に豊かなできる。そして何より上に大切なのは自分生きる自由だということを私は思っました。こそが 70 歳で始めた私の新しい人生の最も大きな収穫でした。 フィリピンでの生活が2年目に入った頃、 私は自分の選択に完全に満足していました 。毎朝窓から見える青い空と海が私を迎え てくれ、1日が始まることへの期待感で胸 が踊りました。語学学校での英語も少し ずつ上達し、マリアとの友情も深まってい ました。隊長も良好で日本にいた時よりも むしろ健康になったような気がしていまし た。でもそんな平穏な日々はある突然に 破られました。午後11時頃、私は激しい 複われました。これまで経験したことの ないようなまるで福部を鋭いナイフで刺さ れるような痛みでした。最初は食当たりか もしれないと思いましたが、痛みは時間が 経つにつれてさらに激しくなりました。 1人で異国の地で病気になるという私が 最も恐れていた悪夢が現実となったのです 。痛みで意識が猛とする中、私は必死に 日本人サポートサービスに登録していた 私立病院の緊急電話番号を探しました。手 が震えてなかなか正確にダイヤルできませ んでした。電話に出たのは日本語を話せる フィリピン人スタッフでした。症状を説明 するとすぐに救急車を手配してくれました 。でも救急車が到着するまでの30分間は 人生で最も長く感じられた時間でした。 1人でベッドに横たわりながらもしかし たらこのまま死んでしまうのではないかと いう恐怖に襲われました。セブドクターズ ユニバーシティ病院に到着すると意思や 看護師が迅速に対応してくれました。英語 での説明は完全に割理解できませんでした が、痛みの場所や症状から急制中水の疑い があると診断されました。すぐに詳しい 検査を受けることになりました。CT検査 の結果、中水円が確定し、しかもすでに 炎症がかなり進行しているため緊急手術が 必要だと告げられました。でもその時私の 最大の恐怖が現実となったのです。手術前 に病院の事務スタッフから手術費用の外産 を提示されました。緊急手術、麻酔入院 費用、薬などを含めて総額約60万円が 必要だと言われました。しかも手術前に デポジットとして30万円を支払う必要が あるということでした。もし支払いができ なければ手術を受けることはできないと 冷たくられました。私の頭は真っ白になり ました。日本の国民健康保険は海外では 適用されません。30万円という体金を すぐに用意することなどできるでしょうか ?痛みと不安で混乱している中、私は1つ のことを思い出しました。出国前に加入し た海外旅行保険のことです。私は年間 12万円という高額な保険料を支払って 海外移住者向けの医療保険に加入してい ました。当時は高い出費だと思いましたが 、万が一のことを考えて加入したのです。 まさにそれが今回の命綱となりました。 保険少々を自賛していた私は両院スタッフ に保険会社への連絡を依頼しました。深夜 でしたが、24時間対応のサービスがあり 、保険会社と病院の間で直接支払いの 手続きを取ってくれました。これにより私 は現金を用意することなく手術を受ける ことができました。手術は成功しました。 副を使った低心収手術で傷も小さく回復も 順調でした。 でも術後に請求を見た時、私は改めてこと の重大さを実感しました。総額は当初の 見積もりを上回り約80万円になってい ました。これは私の年金の約6ヶ月分に 相当する金額でした。もし保険に加入して いなかったら私は間違いなく経済的に破綻 していたでしょう。あるいは最悪の場合 適切な治療を受けることができずに命を 落としていたかもしれません。この経験 から私は2つの重要な教訓を学びました。 第1に海外での医療保険は贅沢しなでは なく、絶対に必要な安全猛だということ です。年間12万円の保険料は確かに 大きな出費でしたが、今回の経験でその 価値を通感しました。これからも保険料の 支払いを続けていく決意を固めました。第 2に緊急時に備えた現金の準備も不可欠だ ということです。保険があっても様々な 理由で即座に適用されない場合もあります 。少なくとも50万円程度の緊急資金は常 に準備しておく必要があると感じました。 入院中私は多くの人の温かさに触れました 。マリアは毎日見舞いに来てくれ、手作り のスープを自散してくれました。語学学校 の友人たちも変わるわ 。コンドミニアムの隣人も私の状況を心配 して病院まで来てくれました。特に印象的 だったのは隣室に入院していた フィリピン人の老女性との交流でした。 彼女は英語が話せませんでしたが、言葉を 超えた優しさで私を励ましてくれました。 手を握って微笑みかけてくれるだけでどれ ほど心が温まったことでしょう。1週間の 入院生活を経て退員した時、私の気持ちは 複雑でした。一方では適切内容を受けられ たことへの感謝がありました。フィリピン の医療水準は私が思っていたよりもはるか に高く、意思や看護師も非常に親切でした 。でも同時に1人で病気と向き合うことの 恐怖も改めて感じました。退員因語の回復 期間中、私は自分の将来について深く考え ました。今回は幸い軽い手術で住みました が、もしより深刻な病気になったらどう でしょうか?がや新疾患、脳素虫などの 重大な疾患に離感した場合、フィリピンで 十分な治療を受けることができるでしょう か?また認知症や妖怪状態になった場合の ことも考えました。フィリピンには日本の ような介護保険制度はありません。家族の サポートが期待できない私のような 1人暮らしの高齢者はどうやって生活して いけば良いのでしょうか?でもそうした 不安を抱えながらも私はフィリピンでの 生活を続ける決意を固めました。なぜなら 今回の経験を通じて私は1つの重要なこと に気づいたからです。それは1人でいる ことと孤独でいることは全く別のことだと いうことでした。日本にいた時の私は物理 的には1人でしたが同時に深刻な孤独感に 苦しんでいました。でもフィリピンでは たえ1人で住んでいても周りには私を気に かけてくれる人々がいました。言葉や文化 の違いを超えた人と人との繋がりがあり ました。語学学校では私よりもさらに高齢 の生徒たちとも出会いました。75歳の 田中さんは奥様をなくした後にセブに移住 して5年になるということでした。最初は 言葉の壁に苦労したけれど今では現地の 友人も多く毎日が充実していると おっしゃっていました。田中さんから貴重 なアドバイスをいただきました。海外で 1人で生活するということは確かにリスク があります。でも同時に自分の人生を最後 まで自分でコントロールできるという 大きなメリットもあります。日本で老人 ホームに入ったとしても最終的には1人で 病気やと向き合うことになるのです。それ なら自分が選んだ場所で自分が祝いた方が いいのではないでしょうか。私はマリアと の友情もさらに深めることができました。 私の入院中、彼女は本当の娘のように心配 してくれました。そして退員後、彼女は私 を彼女の大家族の一員として迎え入れて くれました。日曜日には彼女の実家で一緒 に食事をし、祝日には家族のイベントに 参加させてもらいました。マリアの子供 たちは私をロラ、あき子、おばあちゃん あき子と呼んでしってくれました。彼らに 日本語を教え、私はタガログ語を教えて もらいました。言葉の交換だけでなく文化 の交換でもありました。私は彼らに日本の 昔話を聞かせ、彼らは私にフィリピンの 伝説を教えてくれました。3年目に入った 頃、私は日本への一時帰国を決めました。 里吉やみさんに直接あって、私の近況を 報告したかったのです。また日本でより 詳しい健康診断を受けることも目的の1つ でした。2年ぶりの日本は私にとって 懐かしくもあり、同時に少し違和感もある 場所でした。関西国際空港に降り立った時 、日本の秩序だった社会の雰囲気を改めて 感じました。全てが時間通りに動き、人々 は静かで礼儀正しく、町は清潔で生前とし ていました。里よしとの再会は感動的でし た。お母さん本当に元気そうね。写真で 見るより実際の方がずっと若々かしく 見えるわ。確かに私自身も感じていました が、フィリピンでの生活は私を若えらせて くれていました。毎日の新しい刺激と適度 な運動、そして何より生がいのある生活が 私の健康を支えてくれていました。みさん との再会も嬉しいものでした。星野さん 本当に素敵な決断をしたのね。私も勇気を もらったわ。みさんは私の体験団に熱心に 耳を傾け、自分の将来の参考にしたいと 言ってくれました。日本での健康診断の 結果は良好でした。血圧、血糖値、 コレステロール地全て正常範囲内でした。 意思も驚いていました。73歳でこの数値 は素晴らしいですね。海外での生活が プラスに働いているようですね。でも1 ヶ月の日本滞在中私は日本の生活の窮屈さ も感じました。全てが規則通りで予定通り で変化のない日り。確かに安全で便利でし たが、フィリピンで感じている生きる活力 や自由さはありませんでした。日本滞在中 に近所の老人ホームを見学する機会もあり ました。設備は素晴らしくスタッフも親切 で入居者も平穏に過ごしているようでした 。でもそこには私がフィリピンで感じて いるような生きる躍動感はありませんでし た。安全で快適だけれど、どこか自動的で 自分の意思で選択できることが限られて いるように感じました。フィリピンに戻る 日、私は確信を持って日本を後にしました 。私の人生の最終賞はやはりセブで書き たいと思いました。それは決して安全で楽 な選択ではありません。でもそれは間違い なく私自身が選んだ人生です。セブの空港 に降り立った時、温かい空気と甘い香りが 私を迎えてくれました。あ、やっぱりここ が私の場所なのだと実感しました。マリア と彼女の家族が空港まで迎えに来てくれて いました。お帰りなさい。ロラあき子。 みんながあなたを待っていたのよ。その夜 コンドミニアムのベランダから夜景を眺め ながら私は剣二次郎に話しかけました。 あなたがいたらきっと私の選択を心配した でしょうね。でも私はあなたが私に教えて くれた人生は1度きりという言葉を忘れて いません。私は自分らしく最後まで自分の 意思で生きていきます。ケ二次郎の写真は 何も答えてくれませんでしたが、私には彼 の微笑みが見えたような気がしました。 きっと彼も私の決断を応援してくれている に違いありません。4年目に入った私の 生活はより充実したものになっていました 。小学校では上級クラスに進み、簡単な 通訳のボランティアもするようになりまし た。日本人観光客の案内や現地の日本人 コミュニティのイベント企画にも積極的に 参加しました。私はまた自分の体験を日本 にいる友人たちに手紙で伝え続けました。 みさんからの返事にはいつも励ましの言葉 が書かれていました。星野さんの手紙を 読むたびに人生はいくつになっても新しい ことに挑戦できるのだと勇気をもらってい ます。里見も定期的に電話をくれるように なりました。最初は心配ばかりしていた 彼女も今では私の選択を誇りに思ってくれ ているようでした。お母さんは本当に すごいと思う。私も将来はお母さんのよう に自分らしく生きていきたいわ。 フィリピンでの生活は決して完璧ではあり ませんでした。言葉の問題、文化の違い、 医療や安全への不安。これらは常に存在 する課題でした。でも同時に毎日が新鮮で 人との繋がりに満ち、自分の意思で選択 できる自由がありました。何より大切だっ たのは私が自分の人生の主人公でいられる ことでした。日本にいた時感じていた的で 空虚な日々はもうありませんでした。70 歳を過ぎてから始めた新しい人生は私に 生きる意味と喜びを与えてくれました。 ある夕方マリアの家族と一緒に海辺で夕日 を見ていた時、私は深い平安を感じました 。健二次郎と過ごした45年間の結婚生活 は確かに幸せでした。でもその後の1人の 時間も決して無駄ではありませんでした。 むしろ私が本当の意味で自分らしく生きる 時間だったのです。人生の最終をどう 生きるかは自分で決めることができます。 安全で快適だけれど受動的な選択もあれば リスクはあるけれど充実した選択もあり ます。私は校舎を選びました。そしてその 選択を1度も後悔したことはありません。 70歳という年齢は終わりではなく始まり でした。新しいことに挑戦し、新しい人々 と出会い、新しい自分を発見する。それが 私の選んだ人生の最終賞でした。今夜も セブの美しい夜景を眺めながら私は下への 期待に胸を膨らませています。73歳の私 にはまだまだやりたいことがたくさんあり ます。学の上達、新しい友人との出会い、 フィリピン文化のさらなる理解。そして 何より自分らしく生きることを続けていき たいと思います。私の物語は特別な才能や 財産を持った人の話ではありません。普通 の70歳の女性が勇気を出して新しい一歩 を踏み出した話です。 を理由に諦めることなく、最後まで自分の 人生を自分で決める。それこそが人間の 尊厳なのだと私は信じています。皆さんも もし人生のに立った時は安全な道だけで なく自分らしい道も考えてみてください。 リスクはあるかもしれませんが、その先に は想像もしなかった素晴らしい世界が待っ ているかもしれません。最後にこの物語を 聞いてくださった皆さんに心から感謝 いたします。1人の高齢女性の小さな冒険 団が皆さんの心に少しでも響いたなら幸い です。もしこの話が面白いと思われまし たら、チャンネル登録やいいねボタンを 押していただけると嬉しいです。そして皆 さんもご自身の人生の物語を大切に紡いで いってください。それではまた次の物語で お会いしましょう。最後まで聞いて くださって本当にありがとうございました 。
物語は70歳の星野明子さんについてです。年金14万円の暮らしと迫り来る不安な老後を前に、彼女はすべてを懸けて見知らぬ国、フィリピンへと渡るという、人生最大の決断を下します。
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老後の物語
老後は穏やかな日々だけではなく、年金、社会保障、晩年の恋、離婚、再婚など、さまざまな悩みがつきものです。私は、そんなリアルな物語をお届けします。涙も笑いも、後悔も希望も詰まった人生の話。60歳からの人生に興味がある方、一緒に聞いて、共感しませんか?
VOICEVOX :青山龍星
VOICEVOX :Nemo
企画・制作部門
総合プロデューサー: 青木隆二 (Aoki Ryuji)
企画・構成: 西村智恵 (Nishimura Tomoe)
制作統括: 平野大輔 (Hirano Daisuke)
制作進行: 山本理沙 (Yamamoto Risa)
制作アシスタント: 池田美和 (Ikeda Miwa)
アソシエイトプロデューサー: 田村航 (Tamura Wataru)
撮影・映像技術
撮影監督: 森本健司 (Morimoto Kenji)
カメラディレクター: 浜田麻衣子 (Hamada Maiko)
第一カメラマン: 内田雄介 (Uchida Yusuke)
第二カメラマン: 片岡優太 (Kataoka Yuta)
照明チーフ: 坂口光男 (Sakaguchi Mitsuo)
照明アシスタント: 大野結菜 (Ono Yuna)
音声収録: 谷口真一 (Taniguchi Shinichi)
編集・ポストプロダクション
編集長: 柴田雅人 (Shibata Masato)
メインエディター: 水野愛美 (Mizuno Manami)
カラーグレーディング: 北村龍也 (Kitamura Tatsuya)
映像効果: 小川晃司 (Ogawa Koji)
モーショングラフィックス: 中島美咲 (Nakajima Misaki)
音響・音楽
音響監督: 藤原貴之 (Fujiwara Takayuki)
サウンドデザイナー: 吉野あかり (Yoshino Akari)
効果音制作: 上田翔太 (Ueda Shota)
音楽プロデューサー: 岩崎純一 (Iwasaki Junichi)
BGM作曲: 宮崎春花 (Miyazaki Haruka)
音響ミキサー: 村田慎也 (Murata Shinya)
ストーリー・脚本
脚本家: 渡邊綾乃 (Watanabe Ayano)
ストーリー監修: 高田修平 (Takada Shuhei)
物語構成: 横山千鶴 (Yokoyama Chizuru)
台本制作: 江藤美紀 (Eto Miki)
リサーチャー: 金子洋平 (Kaneko Yohei)
声優・ナレーション
メインナレーター: 久保田誠 (Kubota Makoto)
副ナレーター: 島田恵理 (Shimada Eri)
キャラクターボイス: 林田和樹 (Hayashida Kazuki)
特別出演: 石原麻希 (Ishihara Maki)
デザイン・アート
アートディレクター: 荒木直人 (Araki Naoto)
グラフィックデザイナー: 永井美穂 (Nagai Miho)
イラストレーター: 関根大地 (Sekine Daichi)
キャラクターデザイン: 竹内さくら (Takeuchi Sakura)
背景アート: 野田健太郎 (Noda Kentaro)
UI/UXデザイン: 山口花音 (Yamaguchi Kanon)
技術・配信
技術統括: 松井秀樹 (Matsui Hideki)
システムエンジニア: 佐々木純子 (Sasaki Junko)
配信技術: 伊藤翔 (Ito Sho)
品質管理: 小林真由美 (Kobayashi Mayumi)
データ分析: 鈴木拓実 (Suzuki Takumi)
マーケティング・宣伝
マーケティングディレクター: 田中康夫 (Tanaka Yasuo)
SNS運営: 大橋あゆみ (Ohashi Ayumi)
広報担当: 加藤雄大 (Kato Yudai)
サポートスタッフ
総務・経理: 長野美智子 (Nagano Michiko)
制作サポート: 福山咲良 (Fukuyama Sakura)
インターン: 山下蓮 (Yamashita Ren)