テレビ「継伝」第47回 佐藤万里さん
第47回テレビ 停電今回のゲストは東京都在住の脚本作家 佐藤まりさん です佐藤さんは関東で生まれ育ちながら 30年にもわって大田における ミュージカルの脚本制作や指導を行い近年 では大田市教育委員会が推進する大田の 教育魅力家にも力しておられ ます佐藤さんはどういう道を歩んで脚本家 となり元々縁もゆかりもなかった大田氏の 活動に関わり続けることになったの でしょうかまた現在大田における ミュージカルレッスンに何を感じているの でしょうかそれでは話を聞いてみ ましょう子供の頃はそのあれですかやっぱ そういう今物書きの仕事されてますけど そういうなんか文章を書いたりとかえっと ね小学校の低学年の頃はあの文書学の苦手 だったんですよ逆に作文すごい苦手だった だったんですかあはいであの私が4年生の 時かなあの校長先生が新しい校長先生が来 てあの死を書いたら校長室持って いらっしゃいしようえでその持っていくと 先生がこのこの時はどういう気持ちだった とかこの時はどんなことがあったのとか どんな会話したのとかってってじゃあそれ をここに書いてみようよとかこう索して うんくてで言われた通りこう書き直して 持っていくと先生がしてくれてでそれを 調室の前の掲示板に貼り出してくれ るっていうのを始めたんですね最初はなん かちょっとこうね工室なんてあのちょっと こうみたいな感じでかなかったんですけど 5年生になった時やっぱり同じクラスの子 が何人かそそう持ってくようになってで ちょっとじゃああの中の子も持ってってる し私も書いて持ってってみようかなとかと 思って持っていってはいでそれがきっかけ で書くことが好きになったっていう感じ ですねあの友達となんか遊びに行くより 1人で本読んでる方が好きみたいな暗子 だったんですいやいいなんかそう中学校の そう中学校の時とか休み時間に必ずあの本 を読んでいるあのみんな休み時間にお友達 同士おしゃべりしたりして遊んでるじゃ ないですか私は1人で席ついて本読んで るって言っだから他のクラスの子がなんか 私に声かけにくるとあの佐藤さんはいつも 1人で席についてるからすぐどにいるか わるはい言われたそうなんですかそうで ダザイ大様好きな中学生とか嫌ですよね 中学生と聞いからもう小学校6年生の時 から人間資格が愛しも今嫌ですよそういう こと出会ったらなんで暗いなあんたって 言いたくなるんですけれども僕ら学生の頃 にねあの就職活動の時にあのダザイサムの 人間資格を読んでる人は就職できない みたいな面接で落とされるみたいなね ちょっと後ろ向きななそうそうそうなんか ねちょっとみたいなねじゃあ高校卒業され たらやっぱり大学に進まれたんですかはい 大学はるとこれが理系に進んだっていう何 考て理系なんですよです今やたること ちょっと違う文系みたいな感じですけど はいあの私の頃ってまだあの男女雇用機械 金投法とかあってなかったのでまあのあれ は私が大学4年の夏にあの試行されたやつ なのであのもう本当に女の子腰掛け就職 って言われてたんですよねあの要するに 結婚するまでの間にあのちょっと仕掛け的 に就職してで結婚したらやめるのが 当たり前とかそう当たり前だったんですか そうですねで私はどっちかっていうとこ 働きたかったのでそうすると分岐へ行くと 本当に就職困るぞっていうのはあの周り から話も聞いてたしあの姉がやっぱり3つ 上で文系だと就職先がないみたいなえうん ことは言ってたのででそうすると理系の方 がまでやっぱりこう仕事を続けていける からこうね脚本とかの道に行かれるように なるわけですよねそうえ大学時代に何が あったんですか大学の時まやっぱりあの豚 は好きだったので高校の時とか劇団式見て いてあそうなんですかま私も大学行ったら ちょっと学生演劇やりたいなとでもそんな 演劇なんかで食べていけるなんと思って ないですからまそれは趣味としてやってで 理系でちゃんと就職してと思ってたんです けどなんかあんまりこう理系で就職する 自分っていうのが思い描けなかったうんあ なるほどはあ興味もあんまりわかなかった ような感じなですかねはいから3年生の時 にその1年上の先輩から劇団式の募集が 求人表が来てたよていう話を聞いた時にあ そういう選択肢ってあったなとかそので 高校の時にその劇団式見てた時に来てた こう機関誌にそういえばあのうん新入社員 募集の記事が載ってたなってことを 思い出してあそれはありかもしれないって 思っちゃったですまねそうです興あった わけですもんねでじゃそれでま見事合格さ れたいうことですよねそうラッキーなこと にええ劇団式のお仕事ってどんな舞台に 出るとかそういうことですかいやいやあの 社員募集で行きましたのであの俳優の オーディションではないのではいだから あのま本当にあそこ株式会社ですからもう 当時からあええあの営業もありあだから 入って最初の参月は営業研修やりました チケット売りましたああそうなんですか ああそういうこともされるんですねえあは ま旅公園についたりとかで私は元々制作が やりたいとプロデュース関係の仕事がした いて言っていてでその3ヶ月の営業研修を 終わった後にその制作本部っていうあり さんのま下に当たるセクションなんです けれどもそこにあのま配属決まってああ なるほどでそのままそのありさんの アシスタントみたいなああそこからじゃあ どうやってこう確保の仕事に移っていか れるんですかねうんとやめてから最初は フリーで制作のの仕事を手伝してうんでま 倉庫してるうちに演出助手とかの仕事も やるようになったんですねああ演出助手 はい場でま演出家の隣にいてま色々とその ま稽古の進行とかもやるしうんあと いろんなあの例えばここのところ本を直し たいとかっていうは脚本直したいとかって なったら脚本家に連絡を取るとかあの新た にもう1曲ミュージカルで新しい曲作りた いって言ったら作連絡うんを取るとかま そういうことも含めて全部いろんなことを やっていくんですけどもあの稽古稽古場の 初めから初日を開けるまでがお仕事って いうようななるほどやっぱりそういうこと やってるとその本の直しとか歌詞の直しと かにも関わったりしてるとうんやっぱり 自分だったらこう書くよなとかあのなる はいなんかこう書きたいなとかあと例えば 面白い本言だ時にこういうミュージカルに なるのどうして誰も企画しないんだろうと かま色々繋がっていってまあのうフジ テレビさんの世にも奇妙な物語とか書かせ てもらったりもしたことがあって世にもき 奇妙な物語ってみんな知ってますけどそれ のシナリオですかはいそうですねにはお藤 さんれたことがありますあそうなんですか えどの話だろちょっと見てみたいですね あのデジタルビデオに行けばDVDは出 てると思いますけれども1つはゴミ女ゴミ 女ていうさんが主演でこれも原作もですね 柴とよさんもでへえでもう1つが ボランティア降臨って言って大竹しさん と出てらしこれもま原作はあるんですけれ あだからその最初の大田との関わる きっかけはえっとだっですきっかけはあの 当時島根県音楽祭っていうのがあってあの 島根県の中で持ち回りでま音楽に関わる 何かを隠しがやろうてま最初出雲とか松江 とかがやってで大田第6回だったんです けれどもそはいはあの創作ミュージカルを 作りたい自分たちでうんていう話になった 時にあの私の同期生の1人があの全国公園 をやるセクションにいたんですよで担当 地域の1つが大田市だったはいでま当時 そのそういうことを教育委員会がやってた ので教育委員の方とこう繋がりがあって うんはいはいで誰かちょっと手伝って くれる人紹介してもらえないかていうこと がその教育当時の教育員の方からその私の 友人のところにうん連絡がありで彼女が あの今も芝居の仕事してるんだよねで本 書いたりしてんだよねだったらどうて言っ て連絡あがあったわけですね藤さんにでま こういうね代々的なミュージカルをされて ま佐藤さんは脚本家としてお願いされてこ られたわけじゃないですかで普通だったら もうこれもうね1回限りのこ終わるじゃ ないですかそこでしかも東の方なんではい 私だからあの終わって公園終わって帰る時 にやっぱりこう遠ざかっていく主役最最後 市役所にご挨拶してでこう送ってもらった んです車で送ってもらったんですけどこう 遠ざかっていく市役所を見ながらああ今度 大田にる来ることは生きてる間になるのか なとかって思ったりしながらあのこう オーダーの街を遠ざかっていきましあそう なんですかま普通そう思われますよね思ね 私他のところでも市民ミジからやったりし てますけどもあのもう終わって2度と行か なかった場もありますしうんへえまのぐは あったそれで終わりってほとんどだったり しますからあだからこんなに長く30年も 続いてるのはけですかけですねえじゃあま これが終わってそういう思いで帰られて その後なんでまた大だとこう関わる続く ようなあのちょうどこの学校ネズミが 終わった後にこの時の演出家とかさっきの 藤原さんとうんあと私とが同じちょっと 舞台の現場で一緒になったんですよあそれ はえっと東京の方ですそうですでその時に やっぱりいや楽しかったよねていう話で こう盛り上がるじゃないですかでまた行き たいよねあじゃ行くためにはどうしたら いいんだそうだ何か企画を出してみようて いうそうなんですか話になってでまそんな に代々的にやる予算はつけられないだろう とじゃもっと小規模だったらできんじゃ ないのていうのでミュージカルの ワークショップをやりませんかあなるほど ワークショップをやりませんかとご提案を してそれそうですあの当時まその学校みを 仕切ってくれた教育委員会の担当者の方に たら面白いねとかっておおやってみようか みたいな話になってはいええでそれであの 今も続いてるミュージカルスクールって いうのが誕生したんですね今でも続いてる んですかそのミュージカルスクールは ワークショップははいえ一番最近やっが ミュジカルあの1回教育委員会のさからは ちょっと遠いたんですよはあでその時にあ もう潰れるのかなと思ったらまやっぱり ミュージカルジュニアミュージカルフカの 皆さんがまこれをきっかけにあの ミュージカルやりたいって言ってその サークルに入ってくる子も多かったんで なんとかして続けてほしいって言ってま ちょっと手弁当みたいな形でこうそでその 時はさすがにミュージカルとかっていう形 ではなくちょっと歌とダンスをやって みようみたいな形でもなんか繋げてくれた んですねへえ あのまミュージカル実行委員会っていう形 であのミュージカルスクール実行委員会 っていう形で復活させようっていうことに なってだからちょっと間にブランクていう のがあるけれどもずっとえ今お話がたフカ さんなんかもこのあの学校ネズミの コンサートに出演されてたんですかあえ その頃はまだ風化なかなくてそれであの 学校ネズのコンサートに出た子供たちの中 でやっぱり続けたいうんあでていう子供 たちがいて子たが続けたいって言ってる からじゃあサークルを作ろうって言って お母さんたちが頑張ってくれたんですね うんほであのそういうミュージカル サークルを作りたいはああそれでていう ことになって風が感情してあそうなんです かですあじゃこの学校ネズのコンサート きっかけに今のジュニアミュージカルフガ さんっていうのは誕生したわけですかあ そうなんですねそうなんですよ最初できた 時にやっぱりあのうん最初の人たちはね やっぱり自分の子ががやりたいと言ってる でだからお母さんたち一生懸命になる だろうとでもその子たちがや大きくなって いなくなったら潰れんじゃないかなとかて ちょっと思ったりしてたんですようんあの やっぱりね最初の子がいなくなったら なかなかそれが引き継が れでそれをやっぱり自分の子供が卒業した 後も残って色々と手伝ってくれるお母さん もいらっしゃるしそれは今に至るまでそう なんですけれどもあのま台が色々変わって ますけもねあの自のうんだから親もはい さようならではなく自分の子供がいなく なったけどその後23年はこう続けて残っ ているとかそういう風にあの自分だけじゃ ないうんこう全体としてどうすれば何が 良くなるだろうっていうことものすごく皆 さん一生懸命考えておられるなていうのの はすごく感じますねやっぱりあの ミュージカルスクールにしても風化にして もできれば続けていってほしいなって思う のはあの ミュージカルだから続けてほしいはいって いうよりは選択肢が多い方がいいと思うん ですよ子供にとってでそれは例えばあのね スポーツにしても野球やりたい子もいれば サッカーやりたい子もいるバドミントン やりたい子球やりたいことでも例えば野球 しかやれませんだったら他のサッカーやり たい子とか卓球やりたい子はどうしたら いいのていうことなそれと同じように自分 はスポーツじゃなくておしはやりたいん です歌が歌いたいんですていう子が活躍 できる場としてやっぱミュジカルうんなり 風なりっていうのが残っていってくれると いいやっぱりそこがあの例えば都会にいる と選択肢いっぱいあるんですよんでしょう ねといねあのまちょっと習いたいなと思う とまちょっと電車乗っていけばまそれこそ 親の送迎の問題ありますけれどもあのあ 習うところは探せるうんでも例えばそう いうのに選択肢がもう野球かそれか コーラスしかありま水素学しかありません てなっちゃうとそれ以外の子たうんじゃ どうすればいいのあていう話になっちゃだ からそういう意味で選択肢を増やすていう 意味でやっぱりミュージカルも1つ残って ほしいなていうのをすごく思ってますね そうですよねもしかしたらこう歌とかね 大りのすごい才能がある子がいるかもしれ ないけどそういったのを表現できる場が なかったらねなかなかその才能も出てこ ないですもんねあの自分以外のね何かを 演じるっていうことでなんか違う自分に 出会えるかもしれないですし うんDET
東京都在住の佐藤万里さんは、30年に渡って大田におけるミュージカルの脚本制作や指導を行っています。
関東に生活と仕事の拠点を置いてきた佐藤さんが、なぜこれほどまで長く大田のミュージカルの育成に携わってきたのでしょうか。佐藤さんのあゆみと、その経緯をご紹介します。