【オリジナル】いのちを守る 記憶をつなぐ② ~「創造的復興」を未来へ~
私の名前は山本鈴。神戸で防災や震災に ついて学ぶ大学1年生です 。生まれたのは阪神淡路大震災で大きな 被害を受けた長田。その町に暮らす私たち 家族の命の物語です。 [音楽] 偉い悩んでるみたいやけどしたんや。 元のボランティアについてレポート書かなあかんねんけど、うちらがボランティア行ったって喉の復興はなかなか進まへんやん。 [音楽] うん。 やけどレポート書いて単位もらってほんでって。 そっか。 ちらがボランティア行って何のためになるんか分からへんくなって思った。 [音楽] お父さんもな。初めてボランティアった時は同じようなことに悩んでたわ。 すは地元の人たちがどんな思いを持っての 未来を描いてるか調べたか? 恋愛でも仕事でもそうや けどまずは相手のことをちゃんと知る ところから始めなあかんのちゃうかな。 [音楽] 人らの思い [音楽] か 石けん えっと こ石川県創像的復興 プランなんやろ?想像的 復興 [音楽] 総 復興検索 [音楽] とこの日私は想像的復興という言葉が阪神 淡路大震災から生まれたことを初めて知り ました。 そしてそこには被災しながらも自分たちの 町をより良くしたいと立ち向かう人々の姿 がありました。 阪神淡路大震災からの復興 。それは近代日本が経験したことのない 挑戦でした。 その中で想像的復興を初めて提唱したのが 当時の兵庫県知事海原俊谷さんです。 単に震災前の状態に復旧するのではなく、 震災の教訓を生かして21世紀にも通用 する地域として復興しなければならない。 そんな努力を私は想像的復興と呼んで 美しい兵庫の実現を目指してきた 。しかしそこに国の大きな壁が立ちふがり ます 。兵庫県は復興の財源を国が保障すると いう復興計画に関する法律案を提案したの ですが国はこの提案を拒絶。国が保証する のは震災で壊れたものを元に戻す復旧まで としたのです。 [音楽] 阪神淡路大震災の当時神戸大学で共弁を 取っていた伊木誠 さん原さんのも県の復興計画にも深く 関わりました 。兵庫震災記念21世紀研究機構の理事長 も務めた伊部さんは当時のことを次のよう に語っています 。阪神淡路では想像的復興を国が許さ なかったんですね。で、あの、なんて言う んですか ?炊き出しをしてね、え、避難症を提供し て、ま、人道的なことはすると。で、 しかしね、元より良くするというね、想像 的復興は許さないと。で、それはあの わがままだから、焼け取りだからね、あの 、被災地のやるのであれば被災地の地元の お金でやりなさいと。国の経費としてはね 、復旧、元に戻すまでだと。それから個人 のあの私有財産の家が壊れたものはね、 それは自己責任だからね、国はやらない。 そのことの苦しさをね、あの、兵庫の被災 地で私は通感したんですよね。 とは状況が違うかったんやなあ 。記載した人らはどなしたんやろ 。しかし海原知事は想像的復興を諦めませ んでした。国の支援がないならばと作った のが復興基金です。 震災2ヶ月半後には兵庫県と神戸市が 200億円を拠出し、金融機関などから 8800億円を借りて基金を設立。その 資金で100を超える事業を展開。被災者 に最大120万円の生活資金を支給する など個人の住宅債権まで支援したのです。 復興基金は創造的復興の石ずとなり、 コミュニティの再生にもつがりました 。海原さんが想像的復興で目指したもの 。それは1人1人の人間が人間らしく生き ていくことのできる街づりだったのです。 [音楽] なあ、お父さん。ふーん。 阪神は時代震災で被災した人たちって国からお金の支援なかったんやな。 ああ、今ではあって当たり前に思うかもしれんけどなあ。そんな中で被災した人たちを救ったんは全国から集まったボランティアたちや。 1年間にな、137 万人ものボランティアが全国から集まったんやで。 そん中の1人がお父さんか。そや。 すごいな。 これ お父さんがボランティアしてた時のアルバムやで。 [音楽] ボランティアしてたんちょうどすと同じぐらいの時やったんけど父さんなただただ目の前の人のために何ができるかってことだけ考えてたわ。 [音楽] そうなんや。 うん。実はな、神戸のボランティアたちには大切にしてきた言葉があんねん。 [音楽] なんやろ。 最後の1 人まで救う。今でもな、お父さんと一緒にボランティアしてた人たちは活動を続けてはるわ。喉でも頑張ってはるんやで。 [音楽] 最後の1人まで救く。 そんなんできるんかな [音楽] ?ボランティア元念と呼ばれる1995年 。阪神淡路大震災の被災地に1年間での 延べ137万人に登るボランティアが 駆けつけたのです 。その多くは経験のない若者たちでしたが 、目の前の被災者を助けようと自分たちが できることをやり抜きました 。当時公園にテントを張り、若者たちと共 に活動したのが神戸市の長田で靴職人をし ていた村井正夫さん 。最後の1人まで救う 。神戸のボランティアの心を象徴するこの 言葉を村井さんたちは震災直後から使って いたと言います 。95年の3月2ヶ月後にもう最後の1人 まで書いてあった 。テト村りの冒頭に関東に最後の1人まで やろうということ書いたん で神戸から生まれたんですよ。最後の1人 までっていうのは。 目の前に現れた人にこだわるということが最後の 1 人。それはボランティアの子が言い出した。今度はね。 村井さんたちが神戸で始めたのが足湯。足を温め手足を揉みほぐすことで身も心も穏やかになった被災者は胸に秘めた辛い気持ちを口にします。 [音楽] その言葉に耳を傾け、被災者1人1人に 寄り添うボランティアです 。その1人にこだわるということが ものすごい大事なことで、被災者っていう 風に一告りにして見るんじゃなくて 1人1人違うんだからその1人にこだわる ということが大事だということが実は最後 の1人までの中にあると。で、その実践を いろんな形でボランティアが現場でやって いる。意識しないは別にしてやってること は1人1人に寄り添ってやってるわけです 。10人か一まとめにしてなんかやろう かっていう話で現場入ったら1人1人違う んだから一見一件違うんだからそれに こだわって支援を続けてるというのが見え てきますよね。うん。ということは出発点 は最前線にいるボランティア。最前線に いるボランティアなんです。 2024年王子と水害に見舞われたの半島 。村井さんは今も最後の1人まで救うと いう言葉を胸に被災地に通い続けています 。その村井さんに想像的復興とは何か 改めて聞きました。 の海原知事が言った創像的復興というのは 根本は最後の1人までなんです。1人1人 にこだわるということなんです。1人1人 を大臣にしろということなんですよ。それ が要は新しいものあ震災のがで被害をあっ たこの神戸なんだけどローマ寺神戸だけど 神戸なんだけれどもそこで生まれた1つの メッセージとして1人1人を大事にし ましょう。 1人1人に寄り添いましょうというのが想的復興の原点にあるわけです。こ 1 人1人の高尊重するというのがもう原点になってるわけです。 [音楽] 村井さんが阪神 淡路大震災からいいできた団体が被災地 NGO 共同センター。原点である足湯は喉でも続けています。 [音楽] 2015年代表を村井さんから引き継いだ のが当時まだ27歳だったより正亮太さん [音楽] 。最後の1人まで救うというボランティア の心を大切にしながら新しいことにも挑戦 したいと語っています [音楽] 。本当今日常見ても大変な人いっぱいいる じゃないですか。日常が災害みたいになっ てるっていうか。うん。だ、そっからこう そこにもちゃんとやってかなあかんていう か、むしろそれができれば災害にも強いっ ていうかうん。 災害の後ってそういうものがこう、ま、よくね、地域の問題が顕在化すると言われてますけど、ま、問題が見えやすくなるんで、ある意味しい形って作りやすいので、こう最画に限らずみんなが支え合って守られる社会っていうのができていけばいいなと思ってますけどね。 [音楽] [音楽] ま、道シルべになるようなそういう言葉が たくさん生まれたのが反射始めだろうと 思うんで、ま、あくまで道ですから 、それは自分の今の立ち位置を知るための ものだったりとかうまく使っていけばいい と思うし、それ当時のまんまそのまんま今 やればいいってことでもない。やっぱ変化 させていかなあかん言葉なんじゃないかな と思いますね [音楽] 。海原兵庫県知事が提唱した創造的復興の 大きな柱は人間が人間らしく生きていける 街づり 。それを30 年経った今も続けている認定NPO 法人があります。コミュニティサポートセンター神戸。代表を務めるのは神戸で被催した中村じさんです。 いらっしゃい。 8 歳当時地元で福祉ボランティアをしていた中村さん。 地震の後、お世話をしていた高齢者や障害 者の元を訪れてみると、給水者が近くまで 来ていても水をもらいに行けていないこと が分かりました 。そこで中村さんは水組百登板という活動 を始めたのです 。その後活動の場所が避難所などから仮説 住宅へと移っていくと、中村さんの活動に も大きな変化が起こりました。 同じ地域に住んでいることを伝えながらお手伝いしましょうって言ってきたんですけども、落ち着かれてから帰りました。 うん。 うん。お手伝いしましょうじゃなくってあなたができること何なんですかと。 被災者の人たちの声があったんですよ。で、ボランティアの人がもう在宅も含めていろんなことを手伝ってくれてるけれどもね。 もうありがとう。 なるほど。 自分がありがとう言ってほしい。 はあ。それが聞こえてきたんですよ。 はい。 これだと思ったんです、私は。うん。この力、これが力ですよね。自分が持ってる力を人の役に立ちたすというここを私はもう同じ住民として必死で呼び起こして何かこう新たな展開を生まなきゃいけない 思いました。 中村さんは被災者の生きる力を引き出すために困り事と被災者自身ができることをマッチング。 [音楽] 助け合いのネットワークを作る団体を 立ち上げました。 翌年にはコミュニティサポートセンター 神戸を設立。被災者1人1人の自立から コミュニティ事業の立ち上げ支援へと活動 の幅を広げていきます 。ボランティア元念と呼ばれた阪神淡路 大震災はやがて国を動かします。 1998 年に制定された特定入り活動促進法、いわゆる NPO [音楽] 法です。それまで全員に頼っていた冷営活動に対して様々な支援制度が設けられました。こうして法律制定の翌年から NPO法人の数は一気に増え 全国でおよそ5万に拡大。 今の日本に深く根付き社会を支える大きな 力となっています [音楽] 。神戸市な区和公園内にある地域強制拠点 アスパーク 。中村さんたちが2020年に作った施設 です 。現在アスパークを拠点に活動するのは 30を超えるNPO法人などで子供から 高齢者までを対象にした地域活動を行って います 。ここでも様々な人の出会いがあり、新た な事業が生まれています 。おにぎり食堂っていう これはあのこれ大人が子供の分の200 円のチケットを買ってま、寄付をしてでここに貼るんです。ほんなお子さんはあの食べたい時にこれをチケットということにして無料で食べれる。で、大人もあのお金払ったら食べれるのでなんかみんなで一緒に交流しながらお子さんでちょっとしんどい方は無料でいいよみたいなそうなんか大送りの仕組みで子供食堂を運営してるっていうのがこのおにぎり食堂になります。 なるほど。はい。 [音楽] 震災の時に公園っていうのがやっぱ1 つの、ま、復興の場にそういう意味ではこの公園からこのアースパークからまたいろんなことチャレンジしていきたいなという風に思います。知り合いも増えて交流も増えていろんな繋がりが生まれていくようになったら [音楽] なんかやっぱ神戸震災の文化を生かしてここまで来たよっていうことが言えるかもしれないなと思いますね。 そうですね。 子供だけじゃなく大人も障害を持った方もみんなが一緒にうん。うん。 [音楽] ここでお話したりそうですね。 何かが始まるようなことがあれば そう助けてもらったり助けたりとかうん。なんかそういうのが 総方向でやった。総方向すごい大事に思ってますのでうん。そういう固定化されない関係性の豊かさみたいなものがここから作れていたらいいかなとは思います。 [音楽] 中村さんは想像的復興どんなものだとお考えですか?今 30年経って思うのは あのあの時突っさに取った行動私は水ましたね。人がいろんなことを自分が 1 番大事にしている価値観のもに行動を起こしたと思います。 で、それをね、普通の生活の中に自分の 自然な形でね、折り込んでいるかどうかな ので、想像的復興というの、あの時の価値 観を今もずっと生活の中に折り込んで自然 にあなたの文化、地域の文化になってる でしょうか、してるでしょうか?こういう こと違うかなと思うんですよ。 何かが起きた時の うん。この団結力うん。 もちろんですけど、普段の生活から自分ができることを、自分にしかできないことを、それがもう防災意識の高まりにもつがりますし、いろんなことに繋がってきますもんね。 やっぱり私の原点はあの阪神淡路大震災です。はい。そこに原点があって誰かと誰か繋がって助け合うというこんな社会を作りたいことです。 [音楽] 阪神淡路大震災の創造的復興の大きな特徴 は芸術文化を復興の柱の1つに位置づけた ことです。ここ兵庫県立芸術文化センター は2005年に想像的復興の中でも心の 復興文化の復興の象徴として誕生した施設 です。 芸術監督は世界的指揮者として有名な里 豊かさん 。実は佐戸さん阪神淡路大震災の当時は フランスパリを活動の拠点にしていました 。 大好きな神戸の町を中心としたあの阪神感が大変なことになってるのに自分は何にもしてないっていうすごいちょっと罪の意識がある うん。生まれたんです。 ま、お医者さんであるとかね、自衛隊の人だ警察消防隊員ね、そういうあるいはトラック運転士さんであの毛布運んでるとか食べ物運んでる仕事っていかに尊い仕事なんかなってやっぱりまず思ったし うん。 音楽家って何年もそういうことないじゃないかと思ったんで 震災から7 年戸さんに大きな天気が訪れます。想像的復興を進めていたカ原本知が目指した心の復興。その役を任されたのがさんだったのです。 [音楽] 直接演奏会の学年来られてですね、あの、 ま、舞台芸術というものを [音楽] 作心豊かな町にしてほしいと心の復興って いうのはなかなかね、 その知事自らね、あの、1人の音楽家に 来るで依頼することがね、ま、ものすごい プレッシャーでしたけど、やっぱり ちょっと 心震える感 [音楽] [音楽] がありましたね。さんは音楽の力で復興を後押ししようと積極的に地域の人たちと共にイベントを開催。毎年夏に開かれるオペラ公園の全野祭はクラシックの演奏と盆踊りが一緒に行われ場を確に地域が 1つになる大切な場となっています。 また全国トップクラスの技術を持つ小学生 から高校生までのジュニア演奏化で作る スーパーキッズラは関西に限らず全国の 被災地でも心の復興のための演奏を行って います。 [拍手] 東北の大震災があって はい。 兵庫県はたくさんの人にやっぱり応援していただいて あの復興を遂げたじゃないですか。 はい。 だからそうしたま東北には恩返しに行かなきゃいけないと思ったんね。庫県代表して。うん。 [音楽] もう本当に2011年なんでもう両親を なくした子供たちの前でそういうの演奏し なきゃいけなかったし本当にね音楽を する意味にもうなぜ僕らに音楽あんの かっていうことをあの東北になってからま 僕もそうですけどあのメンバーたちも学ん だ気がしますね。 [音楽] でもね、音楽やってたら目の前が空気し、目の前の空気は振動してるだけなんだけど、やはりそこにいる人、こう、ま、悲しい人も嬉しい人もみんな 1 つの空気の振動、音の響きの中でいることができるんですよね。 うん。 だから音楽のはこんだけ様々な人が別々に生きてんだけど一緒に今生きっててよかったねと思えるためにこやっぱ神様が僕らに音楽与えてくれたんじゃないかと思うね。 [音楽] 兵庫県立文化センターでは演劇や落語などの公演も行われています。 [音楽] [拍手] 入場者の総数は2024年春に850 万人を超え、明日ともに兵庫県の芸術文化の拠点になりました。 どういう思いを1番大事にされましたか? [音楽] 家族や友人なくされた方の傷なんてのは 30年経っても多分変わらない。 はい。 同時にあのスーちゃんもそうでしょうけど、あのもう震災を知らない世代の人がいっぱいはい。 [音楽] いるわけじゃないですか。 ま、そうした中で、ま、大事にしてたことはやっぱりどっかでつもやっぱり祈りはあるようにしようと思ってたんですね。え、手を合わせることっていうのはやはりたくさんの犠牲者生に向かって合わせることなんですけど、同時にやっぱり未来に向かって決意をする。 [音楽] 次の世代にどういうものを残していくべきなのかをやっぱり考える時だと僕は思ってるんですね。うん。 この西宮の町、神戸の町があることもろんな人がものすごい力で喧嘩もしながら うん。 手取り合って作ってきた姿が今そこにあるし劇場に来ていただいていい演奏を聞いたいいお芝居いを見た割と身近なところにすごい大きな感度があるんですよっていうのが復興につがっていく想像的復興っていうんですか? [音楽] はい。ま、そうしたものを届ける ようでありたいとは思ってんですね。 防災を学ぶ大学生としてやらせてもらってるんですけど、 [音楽] その中で元にボランティアに行くっていうシーンがあるんですね。 その時に自分1人がいって何か 変わるのかとうん。自分1 人に何ができるんかとちょっとこう落ち込むようなシーンがあるんですけど。 うん。なるほどね。 どのような言葉をかけますか? やっぱりその1人1 人の力っていうのはやっぱとっても大事なんだと思います。 だから、あの、ま、それが行ってみてね、 え、 何かゴミをしてることなのか何かわかん ないけど、やっぱりものすごくそういうの が大きな力になるんじゃないかなと思い ます。 で、僕はその阪神安全審査が起こった時にヨーロッパに行ってしまって 何もしなかったっていうことがすごく引っかかってたんで。 うん。 だからやっぱりそうやってあのやることってすごく大事なことなんじゃないかなと思いますね。こんだけ自然豊かな国なのでこれから災害も起こりますよ。ところで [音楽] はい。 だ、それにそうでして、ま、国も町も準備しなきゃいけないんだけど、やっぱり何よりもその人が助けに来てくれる思いであるとか、 やっぱりその思い続けるってことはとっても大事なことかな。 ま、これは阪神は大震災を経験された人たちからやっぱり僕に教えられたあのことですね。 うん。 阪神淡路大震災で生まれた創造的復興と いう考え方はその後の被災地でも受け継が れさらに新たなものを生み出してきました [音楽] 。11 年の東日本大震災。政府の復興構高層会議の議長を務めたのが兵庫県の想像的復興に深く関わった木誠さんでした。 [音楽] [拍手] [音楽] [音楽] さんが提案したのはかつて被災した自治体が莫大な借金をして賄なった復興予算を国民 1人1 人の税金復興税で支えようというものでした。 することを強くまとめて [音楽] 私自身はあの阪神え大震災のね地で震度7 王の直撃を受けて第一地のマシンが我が家を両手でわし掴みにしてね絶対に潰すと皆殺しにするという殺意を感じるような揺れ方もあるのかとなぜだと思った。それの私にとって延長なんですね。 [音楽] あの、東日本大震災大変な時だけれどもね 、できる限り今生きてる日本国民でね、と いうのは災害列でどこでも起こり売るん ですよね。今日はあそこだけど、明日は 我が身かもしれない。で、そういう、それ をあの、みんな突き離し始めたらね、非常 に悲惨な日本社会なそうじゃなくて、え、 起こったところに対して全国民がね、 ジ繰りに支えていくと、そういう国民共同 体をね、この災害劣では作らなきゃいけ ないんだというのが、あの、阪神淡路経験 をした私の基本認識だったんですね。です からいきなりその復興税と全国民が増税を してでもね、支えるべきではないかという 風な提案をして、ま、初め叱られました けども結局それを受け入れてくれた私は 日本国民に経緯を表してるんですけども 。そして2024年実に起こった野党でも 新たな取り組みが生まれています。 石川県はその想像的復興プランを確実に 進めるため、県庁の中に想像的復興推進化 という新たな組織を作ったのです 。みんな自分が被災して苦しい状況やった の にほんまにすごいなあ 。お姉ちゃん 。お姉ちゃん1人でさっき行かんと言っ てる。ごめんごめん。ちょっとな。どう やぞ。ちょっとは前に進めそうか。うん 。そうやな。 これから先災害だけじゃなく、いろんな大変なこと、辛いことがあるかもしれんや。 [音楽] まあ、平坦ではないわ。 そんな時にみんなで寄り添って支え合ってその壁を乗り越えたい。ほんで乗り越えた後は前よりもっと幸せになれるようにしたいね。 この町みたいに。 [音楽] その気持ち忘れへんかったらきっと大丈夫や。 [音楽] 僕みんなの命を守れるように防災の勉強頑張ろう。 明日で30年か。 [音楽] あ、うち実はもう1 回にボランティアしに行こうと思ってんね。 この私たちで [音楽] 幸せ運べるように響き渡る僕たちの歌生まれ変わる神の町に届けたい私たちの歌幸せ運べるよう [音楽] [音楽] 私自身も震災後に生まれた人間で実際 に大きな自信にあったことはないんです けど、だからこそ反射は時代震災のことを ずっと思い続ける。そこから得た学びを きちんとつなげていく。そういう役割を 私たちが担ってるんじゃないかなと思い ます。日本 はいろんな災害が起こる国なので、これ からも各地で大変なことが起こることが あると思います。そういう時に自分たちに 何ができるのか自分1人じゃ何も変わら ないじゃなく、自分にできることを少し ずつ探して思いやりを持ってこう絆をつげ ていくっていうのが何より大切なんじゃ ないかなと思いました。 [音楽] la [音楽]
阪神・淡路大震災から、行政や地域の皆さんがどのように復興に向け立ち上がってきたのか、そして創造的復興とは何だったのかを関係者の方に当時を振り返って語っていただきました。最後は娘役・山之内すずさんからのメッセージも。(total:34分24秒)
00:00 ”復興”って何?
02:59 阪神・淡路大震災の挑戦~復興基金設立~
06:50 市民の力・・・最後の一人まで
14:31 コミュニティの再生
20:51 芸術・文化と心の復興~兵庫県立芸術文化センター開設~
28:24 受け継がれる復興のあり方
33:11 エピローグ~山之内すずさんからのメッセージ~